第参章 決壊 転章 破裂
そうして二人が去った後の浴場は静まり返っていた。城下の狂騒を除いて……否、ちょうど二人がいた場所とは反対側の岩陰にわずかな衣擦れの音がする。
二人とも意図せぬ椿事に狼狽していたことに加え、潜んでいた相手が相当な武芸達者だったために武人肌ではない咲夜は愚か、樰永さえ気づかなかったのだ。
その人物は岩陰を背にしてその素足を糸に縫われたように止めていた。引き締まりながらも豊麗な曲線の肢体は前面を白布だけでおおっただけの裸体とわかる。先刻の衣擦れはそれだろう。身体つきは言うまでもなく女性だ。
だが、その女性はこの騒ぎの中でも微動だにしていない――否。わずかながら小刻みに震えている。
さらには、その衣擦れは大きくなり胸元で布を押さえた手が固く握りしめられはじめる。
その女性とは――朧だった。
咲夜と菊乃の会話を偶然聞いたことで居ても立っても居られなくなり、咲夜の後に自分も密かに浴場へと入り二人の会話を一から十まで聞いていたのだった。
そして、その結果は言うまでもないだろう……。
今や白い美貌は石像のように固まり、下ろすがままになっている青みがかった黒髪も林のような静けさだ。普段は愛らしさと艶やかさが際立つ黄水晶の瞳も硝子玉のように焦点が合っていない。
『この想いを樰永様に受け止めて欲しい。樰永様とこれから先の生涯を死が分かつその時まで――いいえ。この世の終わりの刻まで夫婦として添い遂げたい。私のすべてを樰永様に捧げたい。そして――』
『ゆ、樰永様のお子が欲しい……!!』
親友の言葉が繰り返し脳裏で反復されている。今はそんな場合ではないのに……。
しかし、そう思うのに身体にまるで力が入らない。ただただ親友と最愛の兄の姿が心から離れない。
親友が兄へと告げた想い。それは――
――みんな全部私の夢だ。
――兄様と夫婦として添い遂げ、兄様の子を宿し産み育てる……。あの嵐から迎えに来てくれた時から抱いていた平凡でありきたりな夢。
――けれど、決して赦されない甘美な夢……。
だが、それだけのことがこの世界では叶わない。兄妹という血の轍がどこまでも追ってきて邪魔をする。
だが、咲夜は叶うのだ。
兄に寄り添い、想いを告げ、契り、一生を添い遂げる権利が親友にはある。
そう――
ただ他人というだけで。
――私がどれだけ望んで欲しても手が届かないものを――あの子は当然のように手に入れられるんだ。父様と母様だってきっと喜ぶ。黄泉の民だって――!!
そして、改めて思い知らされる。自分の想いがどれだけ異端でどれだけのひとを不幸にするものでしかないかを。
父母や叔母に叔父をはじめとした一族郎党は酷く悲しむだろう。そればかりか家臣や領民たちすべての信頼が砂上の楼閣とばかりに崩れ去るだろう。
兄の天下への道も夢もすべて瓦解する。
それがわかっていながら、自分と兄が結ばれることにどれだけの意味や価値があるというのだろう?
誰も祝福しないし。誰も幸せになんかなれないのに……。
――私は、何のために……?
暗く淀んだ澱に絡め捕られていく中――
パンッ!
小気味よい音が響く。
それは朧が自身の両頬を両手で打った音だった。
――しっかりしなさい朧! そして、そんな場合じゃないでしょう朧! 今、親友の故国の危機なのよ! 何のためになどと甘ったれる前に、親友の危機に立ち上がれなくて何が武士なの!? 何より武技を磨いてきたのは民草の危機に立ち向かうためではないの! 覚悟を決めなさい、鷹叢朧ッ!!
白布が地に落ちて、露わになった豊かな乳房を大きく張りながら両拳を握りしめる。
そうして兄と親友に続かんと脱衣場へと向かう。だが――
――殺せ。
「っぅ……!?」
懐かしいなんて生易しいものではない。一月前にも感じた、おぞましいまでの脳裏を浸蝕し喰い破らんとする衝動と熱が湧き上がる。
――殺せッ!
「こ、こんなぁ、時に……!」
耐えられず、両手で頭を押さえ膝を突き蹲って、遂には石畳の上に倒れ込んだ。
青みを帯びた濡れ羽色の髪と赤みが差し幾筋もの汗を流す豊麗な肢体が、艶めかしくも妖しい絵図を石畳に描いていた。
何よりも熱に潤む黄水晶の双眸には、神座王の証たる十字架の聖印が禍々しく輝く。
――殺せッ! おまえの敵をッ!!
第六天魔王波旬ッ! 生まれた時から自身の魂に宿り棲みついていた魔性の刻鎧神威。
――都での戦いで制御できたと思っていたのに……。よりにもよってこんな時に暴走の発作が始まってしまうなんて……!
アフリマンの言う通り自分が甘すぎた。この身の内に巣食う荒神の力は想像以上に猛々しい!
自分の感情の揺れ幅ひとつでいとも容易くこの身を手に入れんと暴れ狂う。
――でも……っ! 私は屈しはしないッ!!
「……何度も言わせないで。あなたの主は私よ……! 主の身体を好きに弄り回すのが臣下の礼かしらッ!?」
苦し紛れに悪態を吐くが、声はまるで堪えず呪詛と怨嗟を刷り込むかのように叫ぶ。
――殺せ! おまえの道を塞ぐものすべてを! 呪え! 喰らえ! 滅ぼせッ!!
「だ、まりなさい……っ! 何度も言わせないで……。私は、殺すために貴方の力を使うんじゃ……ない!」
注ぎ込まれる暗い熱に悶えながらも石畳に爪を立て、我を失うまいと歯を食いしばる。
しかし――
――欲しいモノは奪われる前に奪え。邪魔だてするものは誰であろうとも殺せ。父母であろうと、友人であろうと、無辜の民人であろうと、それこそ世界であろうとも……!
「っ!?」
不意に囁かれた琴線に触れる言葉に朧は思わず目を見開く。そして同時に激しい怒りを胸中に燻らせる。
――こいつ……っ! ひとの――私の弱みにつけ込んで―――ッ!!
しかし、主の逆鱗に触れたとも知らぬ天魔はなおも性懲りなく油を注いでいく。
――殺せ――
「――黙りなさい」
静かにされども絶対的な圧力と零度を帯びた声で朧は断ずる。
そして、不屈を示さんとおもむろに立ち上がる。
「私の心は私だけのものよ……。おまえの勝手な了見で語ることは元より、妄りに踏み入ることは断じて赦しません……ッ!!」
――黙れ。取り繕いの言の葉などもうたくさんだ。おまえの心は贄だ。愛も、憎悪も、憧憬も、嫉心も、希望も、絶望も、余すことなく総てのことが予へと注がれるべき供物に他ならん……!
対する天魔も抵抗する主にいらだちを感じたのか、声音に恫喝がまじりはじめる。
――おまえは兄が欲しい。あの女になど渡しはしない。そう思っている。それには予の力が必要なはずだ……! 互いの利害は一致している。おまえは兄を奪おうとするすべてが憎い。予はその憎悪こそを必要としている。何を躊躇う!? おまえが望む力を与えてやろうと言うことの何が気に食わぬ!?
「すべてよ! 私は、貴方に振り回されるような力なんて、いらないっ! ……っ!」
今の自分にとって猛毒ともいえる甘言を跳ね除けんと大声を張り上げるが、この瞬間にも蝕むような頭痛が容赦なく苛む。
それでも歯を食いしばり、己の矜持を振り絞る。
「わ、私、私は……私自身の力で私と兄様の未来を勝ち取ってみせるっ!!」
――おまえと兄の未来だと? そんなものどこにある?
「――ッ!?」
だが、叢雲のような射干玉が心に生じたわずかな隙へと意に介すことなく侵して、犯して、冒して、我が物顔で溶け込んでいく。
――兄との未来を掴む権利があるのは、あの女だ。おまえではない。
「だ、黙りな、さい……!」
だが、否定の声にもはや先刻のような力強さはなかった。
――おまえは兄にとって、どれだけ藻掻こうとも妹であって女にはなり得ない。
酷薄なまでの現実を囁かれる。
「そんな、ことないっ」
だって兄は約束してくれた。誓ってくれた!
自分は兄のものだと。そして、兄は自分のものだとっ!
決して自分だけの夢じゃない。疾うに現なのだ!
――それにしては、おまえの兄もあの女に満更でもない態度であったが?
冷笑を伴なった嘲り声が突き刺さり、脳裏に先刻の二人が抱き合う姿と何より兄の紅くなった顔が想起される。
――よいのか? このままではあの女にすべてを奪われる。愛も、夢も、未来も! 手をこまねいて遠くからあの女が兄と添い遂げ子を生し寄り添って生きる姿を見ているつもりか?
止めとばかりに想像し得るかぎり最悪の未来を宣告され、朧は喘ぎ声で悲鳴を上げる。
「やめ、てぇ……っ!」
その懇願を嘲るように天魔はまるで容赦しなかった。
――事実だ。これまで兄の隣はおまえの場所であったかも知れぬが、これからは違う。何もかもあの女に取って代わられる。結局兄の人生におまえの居場所などどこにもありはせん。
「そんな……ことない……っ! 兄様は私が一番だって……言ってくれたもん……っ! 簪だって、くれたぁっ……! 一緒に、天下を目指すって、誓ってくれたんだからぁ……!!」
それを否定せんと声を振り絞るが、既に目尻には雫が溜まっては零れ落ちている。
すると、天魔は我が意を得たと言わんばかりの喜悦に満ちた笑声を漏らす。
――であるならば、予に手を伸ばせ。
「……っぅ!」
――我が力をもってすれば、あの女からおまえの兄を取り戻すなど造作もないことだ。赤子の手をひねるよりも易い。
天魔が囁く甘言が己の意に反して、紙に水が染み渡るかのような速度と浸透性で侵犯してくる。
さらにはそれに伴い己の中で抗う力が急速に萎えていくのを感じていた。
いや、それどころかこの甘美な魔にすべてを委ね、すべてを自分の想う通りにしたいとすら思うようになってきた。
――声が響けば響くほど、力が吸われていくよう……! これが……刻鎧神威の――天魔の力だと言うのっ?
やがて朧の全身からおぞましくも禍々しい黒い神気が放出されおおっていく。さながら喰らおうというように。
――迷うことはない。躊躇わず欲しいモノに手を伸ばせ。そう。たとえ兄以外のすべてを踏み躙ってでも。
「――――っぅ!?」
意識が沈む――否。喰われていく――――!
――さあ、万事を予に委ねよ。おまえの望みは――
「うるさい」
鈍重となった耳朶を甘言を切り裂くがごとき斬れるような鋭さを持った声が打つや、朧は背中に誰かの手が当てられる感触を感じた。
――誰?
しかし、誰何の暇もなく思考はすぐに驚愕で書き換えられることとなる。
何故なら暖かな力の流れが背を中心に広がったかと思うと、今にも溢れ返らんばかりだった黒い神気が徐々に収縮していくのを感じたからだ。
それと同時、身体中を蝕んでいた熱と衝動も嘘のように抜け落ちはじめた。
――こ、これは……?
朦朧とする意識の中で安堵とともに困惑する朧に対して、一方の天魔は先刻の傲岸さが失せ、狼狽と嚇怒。何より怨嗟が轟く声音で叫んでいた。
――貴様ぁっ! 今少しのところで―――ッ! 人間と竜の混じり物風情が――――ッ!!
「耳障りだな。そもそも、唯でさえこんな状況下だというのに、おまえにまで暴れられたら面倒にもほどがある。いいからもう一度眠っていろ」
一方、天魔を抑えた何者かは対照的に極めて素っ気ない声音で嘆息すらまじえて斬り捨てる。
瞬間――轟くようだった天魔の神気が捩じ切られるようにして自身の奥深くへと沈み込んで還っていくのが何故だか理解できた。
これも神座王になったが故の感覚なのだろうか?
――いいえ。そんな疑問よりも前にこんなにも容易く天魔を抑え込むなんて……いったい何者――
改めて自身を助けてくれた恩人の姿を誰何しようとするも、天魔が鎮まった途端に強烈な睡魔と脱力感が身体と意識を支配する。
――駄目。礼を言う以前に誰かもわからない人間の前で意識を失うなんて――
そう思っても瞼を開ける力さえ残ってはおらず、瞬く間に視界は暗転する。
だが、意識が完全に落ちる直前に首を傾げた。
――でも何故かしら? この声どこかで―――――
最後にぼやける白霧がかった視界に一対の巻き角の影を見た気がした……。




