第肆章 狼煙 一 葉華炎上
素早く着物を身に着けるや浴場を出た樰永と咲夜は、回廊を走って城下町を目指していた。
「こっちです、樰永様。こちらからならより速やかに城下町へと出れます!」
咲夜はこの状況にも拘わらず毅然とした態度と声で引率してくれる。
――強いな。本当は誰よりも動揺し悲しんでいるはずなのに……!
愛する故郷が炎に包まれている中で己を見失わない知性と行動力。
普段の控え目な佇まいとは打って変わった彼女の芯の強さに驚きながらも樰永も己が身を引き締める。
――ともかく優先されるべきは消火だ。どこのどいつが仕掛けたかは知らねぇが、燃え広がれば広がるほどこちらの被害と混乱が大きくなる! そうなれば敵にとってこれ以上の格好の的はない!
樰永はこの火災を既に敵の襲撃と断定している。そもそも事故による大火どころか小火でさえ起こり得ない葉華でこれほどの大規模な火災が勃発しているという事実が既に異常事態なのだ。
つまり敵対者による故意の人為的な作為であることはもはや疑いがない。
――しかしだ。そもそもこの鬼灯国に直接手を出すなどどこの馬鹿野郎だ!?
樰永はいらだちまじりに唇を噛む。
何度も繰り返すが、鬼灯国は暗黙の永世中立地帯だ。この国が有する木霊が宿る神木の森林に傷を付けるだけで彼らの怒りを買い、土地の恩恵を失い飢饉は元より疫病さえ招きかねない。
実際、倭蜃建国以前に豪族の一雄が攻め入った時には、その豪族が支配する土地そのものが死に絶えた。一夜にして龍脈そのものが枯渇した挙句作物は瞬く間に腐り、水害までも被り土地一帯が沼と化してしまったという……。
しかも、その豪族たちは一族郎党ひとり残らず疫病で死滅するというおまけ付きだ。
なお、その土地の名を『火麓』といい、現在に至るまで不毛の湿地地帯として知られている。
それ故、それ以来鬼灯国に直接戦を仕掛けた例はない。
その暗黙の了解が今破られた。
はっきり言って敵は正気とは思えない。どれほどの呪いが我が身に罹るか倭蜃人であるならば、火を見るより明らかではないか……!
例外が考えられるとしたら、倭蜃国の事情などロクに知らぬ西界人くらいなものだ。
もしかするとアイアコスかとも考えたが、瞬でその推論を一蹴する。
思慮深いあの男がロクに情報も集めず短絡的な軽挙に出るとは考え難い。
だとするなら、芦藏か? それとも四条院か?
だが、彼らこそ鬼灯国に直接手を出す代償を承知していないはずはあるまいに……。
――駄目だ! 推測するにも情報が少なすぎる! これではいくら頭を回してもロクな答えなんて出るわけもない。それよりも今はやはり消火だ!
頭を早々に切り替え樰永はさらに足を速める。
そこへ反対側から槌鉾を肩に担いだ義正を先頭にした大樹の武士たちが走ってきた。何れも既に武装している。
「咲夜! それに樰永、無事だったか!」
義正が安堵と歓喜の声を上げる。
「ええ。兄上も……」
「どうにかな……。だが、ともかく今はこの火をどうにかしなきゃやばい。既に市街にまで燃え広がっている……!」
樰永の言葉に義正もいつになく怒りを帯びた険しい面持ちで断言する。
「ああ……! 無論だ。今父上が指揮を執って総出で消火に当たらせている。俺たちもこれから加勢に――」
「義正様っ!」
そこへ伝令の足軽が蒼白な顔で慌ただしく駆け込む。義正は「どうしたっ!?」と緊張に張り詰めた声で問い質す。
だが、その口から伝えられた報せは予想していたこととはまるで異なるものであった。
「はっ! ご、ご城内にて兵同士の乱闘と同士討ちがはじまってございまする!!」
あまりと言えばあまりの凶報に全員が呆気に取られた顔で口を半開きにする。だが、義正はいち早く我に返り憤怒の形相へと転じて吼えた。
「この火急の時に内輪もめだと!? ふざけるな! 町や民にまで被害が及んでいるのだぞ! いったいどこの馬鹿者どもだっ!!」
「兄上……! 落ち着いてください。まず詳しい話を聞かなければ何も判断できません。いったいどういうことなのですか?」
猛る兄を諫めつつ再度、伝令兵に子細を尋ねる咲夜。義正の剣幕に身を竦めた足軽もその穏やかな物腰に安堵したように気を取り直し報告を続ける。
「はっ! この火災が発生したのとほぼ同時刻、城内の兵たちの一部が突如狂乱。まるで獣のような唸り声を上げて味方に襲いかかったのを皮切りに、止めようとした兵たちとの同士討ちに発展した次第にござりまする……」
報告を告げる足軽自身も困惑と恐怖に強張った面持ちで信じられないとばかりに声を震わせている。
「狂乱だと? 何者かに薬でも盛られたというのか」
いくらか気を落ち着けた義正も顎を撫でて困惑を顕わにする。
「それもこの火災とほぼ同時と来たか。完全に奇襲の常套手段だな」
樰永の捕捉に全員が表情を警戒と緊張で引き締める。その中で――
「行きましょう。ともかくこの目で見なければ何もわからないし、対処のしようがありません」
咲夜が凛然とした双眸で皆を促す。誰も異論はなかった。
「ああ。だな……!」
樰永の一声で全員がいっせいに駆け出した。先頭を義正がひた走り、その後ろを近習の武士二人が追随し、中間を樰永と咲夜が、後衛を足軽たちが走る。
そうして回廊を進んでようやく広間へと出たが――
「ぎゃっ!」
そんな呆気ない苦悶とともに屍と化した武士が倒れ込むのを見て、一同は思わず足を止めた。
倒れ込んだ武士は首を嚙み千切られ鮮血で畳を染め、もはや何も映していない双眸を絶望と恐怖に見開いていた。
「グルルルルゥゥゥッ!」
その凄惨さもさることながら、彼らの足を止めたのはそれではない。いまだに屍に取りついて唸っている下手人故にだ。
義正は普段の泰然自若とした精悍な面を能面のごとく固め、一瞬遅れで喉から乾いた声を絞り出した。
「ひ、蒜山……?」




