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第参章 決壊 六 疑惑

 羞恥に震える主の心知らずで一心不乱に酒を湯水のように飲み干すアフリマンは、真顔の鉄面皮で大盃をその主たる樰永(ゆきなが)へと向けた。


「ユキナガ。何をチビチビとケチくさく呑んでやがりますか? 我が主ならば豪快においきなさい。豪快に。是非に」


 黒曜石の瞳で射抜くように勧める。


「俺はいいよ。そもそも酒自体あんまり好きじゃねぇし……」


 億劫そうにいう主に悪神は憤然と鼻息を荒くしてさらに迫る。


「かぁ――! 大魔神アフリマンの王とも在ろう者が情けないのです! まして天下を平らげ統べようなどと大言壮語を吐く者が、この程度の酒も呑めねぇでどうするのです!!」


「関係ねぇだろ! つーかガキが未成年飲酒してんじゃねぇ!!」


「ふっ。我が王とも在ろう者がとんだ愚問なのです。わたしは神なのですよ。矮小極まる人間どもの作った掟など無論のこと適応外なのですよ。第一、わたしは数億年以上生きてるのです。全然セーフなのですよ」


 むふーと得意気に胸を張る。


「完全に暴君の理屈っ!! てかその言い分はほぼ俺たちにしか通じないからな!」


 他国はともかく倭蜃の民は刻鎧神威(グレイル)のことなど御伽噺の産物と思っている者も多い。神という存在がこうして顕現するなど夢にも思ってはいまい。


 ましてや、神と称したところで()()では童の戯れ呼ばわりされるのが関の山だろう。


「む? なにか不遜かつ無礼なこと考えてやがりますね、ユキナガ」


 双眸を細めてむんずと進み出る魔神に樰永はむしろ意地の悪い笑みで挑発する。


「わざわざ聞くってことは自覚はあるみたいだな」


「むっきー! いかにわたしが初めて選んだ王と言えど調子に乗りすぎなのです! わたしは正真正銘神なのですよー! 崇めろー! 奉れー!」


 まんまと挑発に乗って地団太を踏み、目を剥いて腕をブンブンと振り回し食ってかかる魔神に今度は(おぼろ)が冷たい声で刺す。


「神だとおっしゃるなら、それにふさわしい振る舞いをなさったらどうかしら?」


 すると、アフリマンも鼻で笑ってやれやれと小馬鹿にするがごとく肩をすくめる


「ふん。これは異なことを。わたしの振る舞いこそが神の振る舞いなのです。この愛くるしい仕草ひとつひとつからにじみ出る神聖かつ高貴な威厳がわからぬとは蒙昧かつ愚昧な(まなこ)と感性の持ち主なのですよ。これだからおぼこ娘は……」


「余計なお世話よ。あなたがのたまう高貴さなんて生涯わかりたくないし、その必要もないわ。そもそも最後の台詞は関係ないでしょう」


 静かながら黄水晶(シトリン)の瞳を氷のように研ぎ澄ました怒気を宿した朧に、アフリマンはますます慇懃な笑みを深くした挙句、指をチッチっと鳴らす。


「それこそ視野が狭い人間の物言いなのですよ。この世のあらゆる万事は総てに繋がっているのですよ。思いもよらぬ、歯牙にも掛けていなかった些事が、大きな意味を持つことだってあるのです。そんなことでは行き遅れ決定なのです~~~♪」


「結構です。私は己の目と心で何が高貴かも愛するひとも決めます!」


 子供染みた屁理屈まじりの挑発に思わず感情のまま口走る朧へ目を鋭く細めたのは啓益(よします)だ。


「ほお? 姫君もやはり殯束(もがりづか)家との縁談は乗り気ではないと? 先の覚悟云々はやはり方便に過ぎなかったと申されるか」


「っ! それは……そういう意味では」


 意図しない失言に朧も先刻の気勢も忘れて口ごもってしまう。古武士はその瑕瑾を逃すまいと一気呵成に攻勢へと出る。


「我が鷹叢(たかむら)家――ひいては倭蜃(わしん)国は今この時、亡国の憂き目に立って申す」


「わかっているわ……」


 百も承知している。


「今は誰もが己を捨て公事に徹するべき時。貴女とて卑しくも武家の姫で在らせられるならば、おわかりになられぬはずはござらぬな」


 その声音と口調の質は家臣が主家の姫に対するそれではなく、恫喝に等しい圧を帯びはじめていた。それを察した樰永は身体を乗り出してわずかな怒気を宿して口を開く。


「おい、啓益。おまえまた何を……」


「若君は少し黙っていただきたい」


 啓益もいつになく有無を言わせぬ声で若殿を掣肘する。思いがけず出鼻を挫かれた樰永も開きかけた口を閉ざしてしまった。


 その間にも古武士は冷徹な表情で主家の姫であるはずの朧への糾弾を続ける。


「そんな中で殯束家という有力な武家との同盟がか細くともどれほどの光明かも?」


「ええ、もちろんよ。すべてわかっている」


 どこか声を荒げて答える朧に啓益は一切舌鋒を緩めはしない。


「であれば、先のような台詞を軽々しく口にしないでいただきたい。貴女の身ひとつでお家が活きるか絶えるかが懸かっているのでござる。然るに貴女の御身は家のものであって貴女のものではござらん。お家のものであると心得られたい。武家の姫としての覚悟と責務というのなら、それこそを忘れていただいては困り申す」 


「……っ」


「……!」


 朧も樰永も返す言葉がなかった。啓益の言は武家としての在り方から何ひとつ外れていないのだ。むしろ先の軍議で半ば我が儘を言ってるのは自分たちだという自覚もあった。


 何の反論も返せずにいる若殿と姫君を見据える古武士は、さらに目を細めて止めの言葉を放たんと再び口を開いた。


「ともあれ黄泉(おうせん)に帰られたからには、すぐさまお館様に殯束家との婚姻を快く受ける旨をお伝えあれ。若君もこれを機にそろそろ妹君への過度な愛情はお控え――」


「待ってください、啓益殿」


 だが、それを凛然とした声が断ち切るように遮る。


「さ、咲夜(さくや)姫」


 啓益ばかりか樰永と朧や兄の義正(よしまさ)も目を丸くする。そう。話を遮った声の主は、普段は控え目なはずの咲夜であったのだ。


 大樹の姫は普段の嫋やかさから一転して峻厳かつ勇ましい面持ちで啓益を睨んで続ける。


「啓益殿。あなたのおっしゃることはもっともなことかも知れません。武家の婚姻は否が応でも家や国同士の事情と利害が付いて回るもの。そこに個人の意思が汲まれる道理など絶無である。それは事実なのでしょう」


「さ、左様にござる。武家の婚姻はお家同士、お国同士の婚姻と同義の大事! それを前に私情を絡めるなどもっての外! だからこそ、その心構えを某は――」


 我が意を得たとばかりに畳みかける啓益だが、それに冷や水を浴びせるがごとく咲夜の鋭い声が刺突のように放たれる。


「されど――私たち女子の心は、あなた方殿方のための……ましてや政のための道具ではありません」


「咲夜……っ?」


 朧は、親友の今まで見たこともない苛烈な気性に戸惑いと驚きがまじった声を出す。それは実兄の義正さえも同様だったのか鳥が豆鉄砲を食らったような顔でポカンと口を開けている。樰永や永久も唖然とした目で初めて牙を剥いた淑やかな姫を見ている。


 当の啓益なぞ反撃を食らうことさえ微塵も予想だにしていなかったのか、先刻までの気勢をすっかり削がれてしまい、ただ慄いた面持ちで口をパクパクさせている。


 咲夜は相手が気を取り直す暇さえ与えぬとばかりに依然苛烈さを湛えた視線と声で続ける


「朧が言うように私たち女子とて唯一無二の己の心を持ちます。それに、お家のため、お国のためだというのであれば、私たちはなおのこと己が良人とする方に心から敬愛してお仕えするだけの器量を求めたい。最愛の家人や故国に領民たちの命運を預けるに足る御仁か否かを、この(まなこ)で確と見極めたいのです。それは果たして責められるべきことなのでしょうか?」


 一方、啓益はようやく気を取り直したのか厳格な面持ちを取り戻して反論する。


「っ! そうは申しておりませぬ。それが真とおっしゃられるのならばむしろ上々。されども……!」


「そもそも先刻からやけに殯束との同盟に拘られますけれど……それは我が大樹(たいじゅ)家では同盟国として不足だという意味なのでしょうか?」


「っ! そ、そのような……!」


 完全に意識外にあった反論を叩きつけられ、今度は啓益が狼狽してしどろもどろになる番だった。


 確かに、自身の言い分は見方を変えれば、現在の同盟関係にある大樹家を揶揄し侮っているとも取られかねない失言だ。今更になってそれに思い至った啓益はすっかり恐縮の体となっていた。


 だが、咲夜はそれでさらに責めるようなことはせず、すぐにいつもの優美な微笑を浮かべてみせる。


「ご心配には及びません、啓益殿。私は朧ほど黄泉の地を、ひいては應州(おうしゅう)を愛している(ひと)を存じ上げません。それがこの国のためにならぬことなどする道理がありましょうや。そして、樰永様もそんな妹が心配でたまらないというのは、兄として当然のことではありませんか。何より我が大樹家も倭蜃の興亡のために身命を賭す覚悟。それでも何かご懸念が?」


 この駄目押しで遂に古武士も屈服し頭を垂れた。


「……あり申さぬ。礼を失した態度をとったこと、どうかご容赦くだされ」


「それ以前に朧に謝罪を。朧とてそのようなつもりで言ったわけではないのですから」


 ピシャリと釘を刺され、啓益は一瞬唸るもすぐに自制して朧の方に向き直るや「出過ぎたことを申しました。お許しを……」と叩頭した。


 そして、この時を見計らっていたかのようにそれまで黙っていた菊乃(きくの)が手を叩いた。


「さあさ! 辛気くさい話はこれで打ち切りどす。宴を続けまひょ」


 その一言で白けていた場が再び盛り上がった。話を打ち切る潮時(タイミング)といい、まったりとしながら異議を差し挟ませない声音と言い、さすがの一言だった。


 次いで永久(とわ)が「おし! 口直しに今度は柳葉(やなぎは)の蜂蜜酒を持ってこい! 朝まで盛り上がるぜ野郎ども!!」と音頭をとったことも後押しした。


 ただ永久に関しては、いらんことをと樰永たちが頭を抱えたことは言うまでもない。









 一刻後……再び大浴場



「ふぅー。温泉ってのは何度入ってもいいもんだな」


 月と星に彩られた夜天の下、蜜柑色の湯を思い切り貌にかけてそう独り言ちる樰永。


 結局あの後、永久をはじめとした酒癖に難のある者たちは何れも酔い潰れ、樰永たちはその介抱をする羽目となった。


 すべてが終わった後、疲労困憊の極みとなった樰永たちは再び浴場で汗を流す次第となったわけだ。


 因みに既に啓益は湯から出ている。早々に周囲の警戒に回るためと髪と身体をさっさと洗い、湯にも半時足らずで出て行ってしまった。本当につくづく融通が利かない堅物だと思う。


「まあ、感謝はしてるんだけどな」


 そう。啓益は何だかんだで頼りになる男だ。昔から今に至るまで自分や鷹叢家を支え、先の睦月の妖変でも是叡(これあき)摂権(せっけん)家の失脚においても大きな決め手を担ってくれた。感謝してもし切れない。


 ただ、そんな忠義に厚い武士(おとこ)だからこそ、自分と朧の親密に過ぎる仲を放置できないのだろうが……。


「俺だってわかっているんだ、啓益。俺たち自身の気持ちなんて、とっとと諦めた方が皆のためだということくらい……」


 だが、それはもはや鷹叢樰永ではない。他の誰が何と言おうとそれは違うのだ。


 ――俺には朧が必要だ。朧にも俺が必要なんだ。いや、必要とかそんな次元の話じゃない。俺たちはどちらかが欠けては駄目なんだ。どちらが欠けても俺たちは滅びるしか術がない。


 余人から見れば、大げさだなどと嘲笑されるのかも知れない。だが、自分たちにとってはただただ事実であり真実だ。


 ――だからこそ、俺には朧も天下もこの手に掴む以外の道など存在しない! 


 手を届きようもない月へと伸ばして拳を握る。


「そうだ。俺は――誰だ!?」


 瞬間、背後に気配を感じや振り返って誰何する。


 ――刺客かッ!


 そう判断しかけるが、そんな思案は振り返った瞬間に霧散していた。何故なら――


「さ、咲夜……?」


 口から漏れ出る素っ頓狂かつ間が抜けた声……。


 しかし、それもそのはず。なにせその眼前には――


「ゆ、樰永様……」


 濡れ羽色の髪を後ろでまとめつつ、その豊麗な曲線を描く身体には前面をおおい隠す白布一枚以外は何ひとつ羽織っていない咲夜の姿があったのだから――

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