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第弐章 婚約 四 水垢離

 軍議の翌朝。樰永(ゆきなが)は、いつも通りに起床し、井戸から引き上げた桶に汲んだ水で顔を洗っていた。



 ――焦るな。ここで意固地になったところで何も手に入らん。それどころかすべてを失う。


 改めて己に言い聞かせる。


 ――とにかく、今日の評定が勝負だ。何としても(おぼろ)の婚姻以外の条件で殯束に同盟を承服させてやる!


 我が儘を言ってる自覚はある。だが、昨夜カルドゥーレにも言った通り、これは決して譲ることができない一分だ。


 それを譲ってしまっては己の士道が立たない。


 ――この程度の苦難で(つまづ)いてどうする!? 


 そう叱咤するように、引き上げた桶の水で再度顔を洗おうと――



「兄様、おはようございます」

 


 そのまま桶の水を頭から全身まで浴びせた。


「に、兄様っ!?」


 当然途端に誰よりも愛する妹の素っ頓狂な声が鳴った。


「おう。おはよう」


 しかし、当の樰永は髪から顔や着物を水浸しにしたまま笑顔で振り返り、口元を押さえてドン引きしている愛妹へと挨拶を返した。


「い、いえ! おはようではなくて! 何をしてらっしゃるんです!?」


「気付け薬さ。寝惚けてたんでな」


「気付けって……叔母様じゃないんですから……」


 呆れたように嘆息をつくと、すぐに視線を鋭いものにして兄の腕をつかみ引っ張っていく。


「お、おい、どこに連れてくんだよ!?」


 すると、朧は呆れまじりの怒声で捲し立てる。


「どこへも何も着替えに行くに決まってるでしょう! もう! まだ如月(きさらぎ)の最中で水を被るだなんて! 国難を前に風邪でも引いたらどうするんです!? 子供じゃないんですから!」


「うっ。面目ない……」


 もっともすぎる正論に、樰永も呻く他になかった。



 ――本当に何やってんだ、俺は……。いくら朧の縁談やアイアコスの進軍を前に空回ってたからって、そこへ当の朧に声をかけられた途端この真冬に水浴びるとか、我ながら莫迦すぎるだろ! 肝が小さいにもほどがあるだろ!


 己の醜態に今になって懊悩する。


 そこへ追い打ちとばかり、相棒が嘆息を念話で飛ばす。


『まったく、昨夜はあのキザ商人にあれだけの啖呵を切っておきながら、イザともなればコレとは……。わたしの主でありながら不甲斐ないにもほどがあるのです』


 今度ばかりは樰永も皮肉を返すことはできなかった。





 朧に強引に居室へと連れ戻され、改めて身支度を整えさせられる。



「今日も改めて迫るセフィロト軍を迎え撃つための軍議があるのですよ。次期当主として服装くらいと整えて下さいませ」


 愚痴をこぼしながらテキパキと直垂(ひたひれ)を着せる妹に、樰永はバツが悪いという面持ちで押し黙っていた。


 何と申し開きすべきかと思案する中で、唐突に当の朧が口を開いた。


「兄様」


「ん?」


「私は大丈夫です。何も諦めてなどいません。だから、昔のようにひとりで何でも抱え込まないでください。言ったでしょう。私は兄様と並んで戦いたいのだと」


「っ!」


 そして、懐中から昨日自身が贈った白牡丹の花簪を取り出すや左側の髪へと挿す。


「それに昨日も言ったように私の心は既に決まっています。私の未来(みき)は兄様とともに――」


 花が咲いたように美貌をほころばせる愛妹に樰永は再度己の不甲斐なさに溜息をつく。

 


 ――俺は本当にどうしようもないな。切羽詰まった途端に(ひと)りで突っ走る。一月前と全然成長しちゃいない。


「ああ、悪い。よろしく頼む」


 ――そうだ。俺は独りで戦っているんじゃない。すぐ隣にこいつがいてくれる。


 そんな当たり前なことすら忘れていた自分に呆れ返る。


「当然です。だって兄様独りじゃ勢いあまって躓きそうですもの」


 嘆息気味ながら悪戯っぽく笑う愛妹に、樰永も苦笑で返した。


 ――本当に一生敵いそうにもないな……。


 けれど、だからこそ二人が一緒なら、セフィロトの件も、婚約の件も、何ひとつとして困難などではないと思えてくる。


「ともかく今はまずセフィロトとの戦だ。アイアコスの野郎をぶちのめさんかぎりは話にならんからな」


 樰永は、気合を入れるように拳を軋ませる。


「はい。私も命のかぎり戦います。兄様とともに」


 朧もまた苛烈なる戦意を涼やかな瞳と笑みに宿した。



 兄妹の未来を勝ち取るための戦がはじまる。

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