第弐章 婚約 五 大樹の姫
「若君、御仕度はおすみでござるか?」
障子から啓益の声が飛んだ。
途端に兄妹は身を竦ませた。
「あ、ああ! いつでも行けるぞ!」
思わず樰永は、どもりながら返事を返した。
「ならば、お急ぎを。先刻、大樹家当主・義圀公並びに、ご子息の義正殿とご息女の咲夜姫が参られましてございまする」
「義正たちが? それに咲夜も……」
「はっ。然らば一刻も早く大広間へ。既に大殿と奥方様をはじめ、永久殿らも首を長くしてお待ちにございまする」
それだけ述べると啓益はそのまま去った。
残された兄妹は互いに顔を見合わせる。
――当主の義圀殿や義正が来ることは予想していたが、まさか咲夜まで来るなんてな……。
そこへ実体化したアフリマンが裾を掴みながら訊ねる。
「ユキナガ、サクヤとは誰なのですか?」
「義正殿の妹で私の親友です」
答えたのは朧だ。
すると、アフリマンは今思い出したように手をポンと打った。
「おお……そういえば、あの筋肉だるまが自画自賛してた妹の名前がそのようなものでしたね」
「おまえな……」
相も変わらず適当すぎる相棒に、呆れたため息を返した。
「しかし、あの筋肉だるまの妹とは、いかほどの豪傑なのか……」
う~むと腕組しつつ首を傾げ平然と無礼千万なことをのたまうアフリマン。
「こらこら……」
非礼を咎める主にアフリマンは頬を膨らませてぶー垂れる。
「だってえー、あの筋肉だるまいかにも話を何重にも盛ってそうなんですものー。芸事に長けるだの、月下美人の器量良しだのと」
「いいえ。盛ってなどいませんよ」
否定をしたのは朧だった。
「咲夜は、本当に美人で女性としての嗜みも私とは比べ物にならなくて、気性も控え目ながら芯が強くて……本当に素敵な女性です」
その声音は静かだったが、どこか寂寥と――そして普段の彼女には似付かわしくない卑屈さを帯びていた。
「ほお……オボロがそこまで言うとは……」
アフリマンが興味深いとばかりに眠そうな目を細める。
「俺にとって一番は朧だけだ」
樰永は憮然とした顔と声で言い切った。たちまち朧はその美貌を朱に染め、アフリマンは呆れたように白けた面貌になる。
「平然と言い切りやがるのです。惚気もここまで来たら相当なのですよ」
「悪いかよ……」
「いいえ。フォローを間違えなかったことだけは、褒めてやるのです。光栄に思いなさい、この童貞」
相も変わらず上から目線の悪神へ兄妹は揃って諦観まじりの視線を注ぐのだった。
兎にも角にも樰永と朧はすぐさま大広間へと向かった。
「父上、遅くなった」
「失礼いたします」
揃って入室すると既に上座には父と母が並んで座し、家臣たちも居並んでいる。
「うむ。おまえたちも座るがいい」
悠永に促され、兄妹も月華の隣に腰掛けた。
そこで樰永は、ふと気づいたように父に訊ねる。
「叔父上の姿が見えんようだが?」
「あやつには、既に憮津国の守りを固めさせている。芦藏への牽制としてな」
悠永の実弟・楠撫智永は、應州最北端の地、憮津国を任されている武将だ。攻めにおいて並ぶ者なしの驍勇を誇る武士でもある。
悠永が北應州を掌握した後、古くから憮津国を治めていた楠撫家に婿入りする形で憮津国主となった。
「確かに、敵はセフィロトばかりではありませんものね」
朧が瞳を憂いに染めながらも納得する。
「うむ。西界に攻めこまれるという好機に、芦藏が黙って見ているなどありえんからな。だが、智永ならば貴奴らの抑えをしっかり果たしてくれよう。これで心置きなく我らはセフィロトに注視できる」
悠永が巌のように揺るがぬ声音で断言する。
「まもなく、鬼灯国国主・義圀公並びにご子息の義正殿、ご息女の咲夜姫が参られます」
近習がそのように述べると正面の襖を開けると同時――三人の人影が躍り出る。
先頭にいるのは、翠の直垂に身を包んだ頭頂部のみ禿頭で顎髭が特徴的な大柄の偉丈夫だ。毛筋まで張り詰めるような覇気に満ち満ちている。この男こそ王家創建以前より鬼灯国を治める大樹の総領、大樹義圀だ。
その右隣には彼によく似た面立ちを持つ、黒髪をザンバラ頭にした荒々しい青年――総領息子の義正がずっしりした歩みで随伴する。
そして、対する左隣に目をやった者は一様に息を呑んでいた。
先頭と右隣の雄々しい益荒男たちとは対照的に、そこには一輪の清らかな華が咲いていた。
腰まで届く水も滴る混じり気ひとつない純然たる濡れ羽色の髪は、つむじから毛先まで艶やかで高貴な光沢を放つ。
琥珀の双眸と美麗な顔立ちは、儚さを感じさせながらも優雅な気品に満ちている。
朧の美貌が、幼さと妖艶さが同居した言うなれば、無秩序が奇跡的な黄金律を形作った魔性の美とするなら。
彼女の美は、一分の瑕瑾もない。まさに神々によって定められた在るべくしてそこに在る、完成された秩序が生み出した自然の美だった。
身にまとう打掛も大名の姫君にしては控え目ながら、それがかえって、彼女の尊き美を引き立て、大広間に集まった強面の武士たちの衆目を釘付けにしていた。
だが何よりも彼らを魅了したのは、総身そのものから香る清潔感が際立つ瑞々しい鈴蘭の芳香だ。
大樹の姫はその身に濃厚なまでの花の香りを放つ特異体質の持ち主でそれに準じた特殊な力を持つと言われている。
それは多種様々で自然とひとを惹きつけたり、中には意のままに操り得る力を持つ姫もいたという。
その中でも咲夜の香りは控え目ながら完成形と言える域に極まりつつあるのみならず、歴代の大樹の姫の中で最も大樹にふさわしい力と聞くが、詳細は明かされていない。
だが、それは歴代の大樹の姫も同様のことだ。
その力の内容如何によっては、諸侯どころか朝廷の妙な横槍までもが懸念され得るため常に秘匿事項とされてきたのである。
樰永の佩刀に収まったアフリマンでさえも念話で感嘆の声をあげた。
『筋肉だるまの言ってたことマジだったのです……! オボロ……これあなたの完全敗北では……』
悪神の指摘は容赦なく朧の心へと突き立った。
(言われなくたってそんなことわかってます……!)
朧は拗ねるように顔を逸らし頬をわずかに膨らませたが、次の兄の言葉ですぐに一転して綻ばせることになる。
(何度も言わせるな。俺にとって美しい女は朧だけだ)
『はい、はい。ごちそうさまなのですよ~』
臆面もない主へアフリマンは投げ遣りな返事を返すのみだった。
そして、ずんずんと歩んでいた義圀は悠永の真ん前までくるとそこに座り込み、義正と咲夜もそれに倣って腰を下ろした。
すると、義圀はその厳つい面貌を豪快にほころばせて口を開いた。
「久しいな、悠永。都じゃ、ずいぶんと暴れたそうじゃないか」
「正確に言えば、暴れたのは愚息とじゃじゃ馬娘よ。しかし、お前も達者そうで何よりだ義圀」
悠永も薄く笑みを浮かべて応える。そこには長年培われたきた全幅の信頼があった。
二人は、互いに戦国乱世を生き抜く中でともに切磋琢磨し、共に中央から遠い北方の蝦夷と蔑まれながらも、互いに混迷を極める戦国乱世を平定せんと志す二十年来の血盟の同志である。
当初こそ、片や守護代の家臣、片や一国の大名と大きな身分の格差があったが、幼き頃に出会ってより意気投合し、武を競い、理想を語り合った。立場に差はあれども、二人はまさに竹馬の友であった。
悠永が戦国大名として独立しようとしていた矢先にも、義圀は率先して助力を惜しまなかった。
悠永自身も七ヵ国の太守となった今でもその大恩は忘れておらず、大樹家の所領が脅かされそうになった時には必ず駆け付けるなど正に刎頸の交わりを現在に至るまで交わしている仲であった。
それ故、公のみならず私の交わりも深く、家族ぐるみの付き合いであり、樰永と朧、義正と咲夜の二兄妹も二代続く幼馴染兼親友同士という次第であった。
「それよかだ。都でのゴタゴタが片付いたと思えば、ずいぶんとまた面倒くさいことになってるじゃねぇか。ん?」
その言葉に反して相好をほころばせる友に悠永は苦言をこぼした。
「面白くなってきたという顔が隠せてはおらぬぞ……。少しは神妙にしてくれ。原因を作った我らが言うのも何だが、これは應州のみならず倭蜃国そのものの危機だ」
「ま、正確に原因作ったのは、そこの太々しいうつけ商人だけどな」
と、下座に座すカルドゥーレを見ながら混ぜっ返すのは永久だ。
一方で当の商人はというと、片目を瞑った挙句に舌を出して不快な笑みを輝かせているのだった。
無論、鷹叢家全員のこめかみに青筋が幾本も立ったことは言うまでもない。
その殺気立った空気をひとまずは変えようと義正が挨拶をする。
「ま、まあ何はともあれだ。樰永、朧、久しぶりだな。都では大変だったようだが、無事で何よりだ」
「ああ、紙一重の差だったが、どうにかな」
すると、今度は咲夜が両手を床に付けて労りを述べた。
「それは何よりでした。樰永様、それに朧。本当にお疲れ様でした」
わずかに目尻に涙を溜めて安堵の声を出す彼女に、樰永も相好を崩して応える。
「ああ、すまん。こっちこそ心配をかけたようだ。もっとも苦労はこれからはじまるんだがな……」
「父上をはじめ、私と兄上も及ばずながら力をお貸しします。そのために来たのですから」
毅然とした目と声で宣誓する親友に、朧は何かに耐えるように唇を噛んだ。
――弁えなさい。こんなものはつまらない感傷よ。義圀様や義正殿は元より、咲夜だって大きな戦力になる。それは今の鷹叢に必要な力のはずだわ。そうでしょう、朧。
瞬時に自省し頭を切り替えると、改めて咲夜に声を掛けた。
「本当によく来てくれたわ。大樹家の力添え心強く思います咲夜」
「いいえ。父上や兄上とは違い私にできるのはせいぜい後方支援ぐらいです。けれど、それでも微力を尽くすわ」
咲夜も美しい微笑で返した。
「でだ。ぶっちゃけ連中はいつ頃攻めてくると思う?」
早速、義圀が本題を切り出す。
「おそらくは雪が明けた時であろう。いかに大軍勢とは言え、敵地での雪戦は危険が大きすぎる」
悠永は顎を撫でながら考察を口にすると啓益も大きくうなずく。
「然り。雪の中の行軍ではせっかくの大軍の強みを殺すようなもの。機動力とて損なわれましょう」
しかし、異を唱えたのは永久だった。
「だが、そんなことは向こうも承知の上だろう。だったら逆手を取って、今攻めて来ることだって十二分に有り得るんじゃねぇか」
「得る物と代償がまるで釣り合い申さぬ。相手は小細工を弄さずともこちらを圧倒できる戦力を持っておる。ならば、奇をてらった策などむしろ愚策。しかも、それらを率いるアイアコスなる者は名うての将と聞きまする。そんな男がかような愚者とも思えぬ」
啓益はピシャリと両断する。
だが、しばし黙考していた樰永は不意に口を開く。
「いや……叔母上の言うようにありえるかもしれん」
「樰永、その根拠は何だ?」
父の問いに樰永は淡々と答える。
「そもそも連中が攻め込む理由は何だ? 当然考えるまでもなく俺が持つ刻鎧神威に他ならない」
一番初めにハッとなったのは朧だった。
「アルカディアにアルビオン……芦藏もですか……!」
朧の出した答えに永久も舌打ちする。
「なるほどな……。アフリマンを危惧し狙う勢力は、セフィロトのみに限らねぇつうことか。ま、道理といやあ道理だ。あれだけ派手な力の波動に危機感を覚えない奴はただの阿呆だ。そりゃ、あっちらこちらで盗り合い合戦にもなるわな。あちらさんも、んなめんどくせぇことになる前にケリを着けてぇわけだ」
さらに駄目押しとばかり、カルドゥーレが補足してくる。
「ええ。そもそも飛竜をはじめとした竜種は、暑さも寒さも物ともしない強靭な生物です。おまけに、アイアコス卿率いるホド軍には、一年前の冬戦ホルベル会戦にて、雪風轟く空と山脈を踏破して勝利を収められた実績もございますれば……」
「それもっと早く言え……。ともかく時が惜しいのは、敵方も同じということだ。唯でさえ敵地で複数の国と乱戦するなんざ連中だってごめんだろうさ」
今更すぎる情報に苦言を呈しつつ、推論をまとめる樰永。
「すると、雪解けを待たずして敵は動くと」
そして、義正が生唾を呑み込みながらも結論を結ぶ。
途端、家中が重苦しい緊張感に包まれる。
「な、なんの! 敵の方から雪の中来るならば、願ってもないことではござらんか! いかに相手も雪戦に慣れていると言え、地の利が我らにあることに変わりはないのだ!」
「左様! まさに飛んで火にいる夏の虫! 臆することはござらん!!」
「むしろ、貴奴らこそが異国の地に屍を並べ立てに来たようなもの! 見事に返り討ちとしてくれましょうぞ!!」
家臣たちは不安を振り払わんと口々に気勢を上げる。
しかし、樰永は家臣たちの意気を頼もしく思いながらも楽観視はできなかった。
――違う。あの男は――アイアコスは、そんな単純な奴じゃない。その程度のことは指摘されるまでもなく百も千も承知のはず……!
なにせ、十代後半の若さで一軍の将になる男なのだ。当然阿呆であろうはずがない。都における戦ぶりを目の当たりにした樰永からすれば、なおさらだ。
――あの男が、いかに状況が差し迫ってるからといって、無策で突っ込んでなどくるものか。おそらく相応の準備と策を整えた上で攻めて来るはず。俺たちもそれに備えなければならん。
拳を握り改めて気を引き締めようとするが――
「それに、我らには義圀殿ばかりか殯束の援軍がある! 恐れるものなどない!!」
その一声に、樰永も朧も顔が強張るのを懸命に堪えねばならなかった。
そうだ。自分たちの窮地はまだ何ひとつとして変わってはいない。
「殯束? あの桓東管領の名門か。それがなんで援軍を?」
義圀が顔をしかめながら訊ねると、悠永は、厳めしい面持ちのまま昨日カルドゥーレから伝えられた提案を話す。
「……殯束の方から申し出があったのだ。この国難を乗り越えるために盟を結びたいと」
「ほお? そりゃあなんでまた」
「殯束の御子息が、都で若君と姫君と共闘なさった折、すっかりお二人にご心酔なさったのか、私が此度の一件を話した途端に今回の話をご自分の方から申し込んでくれたのです」
悠永に代わって答えたのは、そもそもの事の発端にして元凶である末座の商人だ。
「でもって証として朧を嫁に寄越せだと」
そこへさらに永久が口唇を不快そうに歪めて付け加える。
「朧を嫁に!? いや、同盟なのだから、それは至極当然の条件か……」
義正が目を瞠る横で咲夜もまあと口元を押さえている。
「とは言え、その条項はご家老を始めとした家臣方からの提言ですが。あまり乗り気ではないご様子だったご当主は元より、同盟自体を申し入れられた尊昶殿ご自身も家臣方の提言に戸惑っておられるご様子でした」
カルドゥーレの補足に、樰永は内心でさもありなんと納得した。
現当主の光昶は桓東管領の矜持が人一倍強い男と聞く。そんな男が進んで自分たちのような成り上がり武士を相手にするはずがないし、蝦夷の娘を嫡男の嫁になんて考えるはずもない。
また、あの実直そうな侍が自分の方から同盟の条件として朧を妻にもらうなんてことを、そもそも自分から申し入れるはずもない。
――だとすれば、そこに上手く付け入ることができたなら、朧との婚姻を破談にしたとしても盟を結ぶ手立てはあるかも知れない。
樰永は、一筋の光明を見出したとばかり目を輝かせる。
しかし、間髪入れずにひとりの家臣が声をあげた。
「関係ござらん。武家の同盟は血の結びでござる。盟を確固たるものとするため、家同士の婚姻は至極当然のこと。そこに私人の感傷なぞ介在する余地はござらぬ。迫る国難を前に両家の団結を強固とするためにも、この縁談是非とも進めるべきと存ずる」
――啓益……! どうあっても朧を厄介払いにする気か。だが、そう問屋は卸させん。
「俺は反対だ」
そして、樰永もまた間髪入れずに異を唱えた。これに啓益たち家臣や悠永と月華は愚か、朧自身さえ驚きに眼を瞬かせた。




