第壱譚 終章 一 約束の都
タイトルにある通り第一章完的なお話しです。
邪神討伐後の推移をここに散文的にまとめる。
邪神討伐後、内大臣四条院忠遠の要請で上洛入京した芦藏軍四万により、都の混乱は収拾しつつある。
まず不幸中の幸いというべきか、大内裏の被害こそ甚大なものの、市中への被害はほとんどなかった。家財すら置いて着の身着のまま避難していた民草もこれに大きく安堵したことは言うまでもない。
そして、売国行為が発覚した是叡と前嗣以下、五大摂権家の二角たる一条宮家と鷲司家は失脚家門取り潰しの処分を受け、二家の当主は蟄居の後、出家した上で倭蜃国最大の二大寺院が一角『幽奄寺』に永久幽閉とされ、家人もそれぞれに離散した。
また、両者とともに徴税の横領に係わっていた公卿の何人かも芋づる式に更迭されたのだった。
さらに、これは余談となるのだが、校書殿で樰永を襲った是叡の息女は何者かの呪術によって操られていた疑いがあったが、邪神討伐の最中に気を失ったまま原因不明の衰弱により急死。真相の究明は困難となった。
愛娘の死により是叡は見る影もなく憔悴し、上記の出家にしても然したる抵抗もなく受け入れたほどだ。
その後、都の混乱を治めた芦藏軍を当主・嵩斎の名代として率いていた家老の宍戸蔵馬丹囓が主君の意を代弁して、是叡の失脚により空位となった摂権位に残る摂権家の中でも最も官位と序列が高い内大臣四条院忠遠を推挙。
上級の公家たちも賛同の意を次々に示し内定へと至り、残る摂権家当主である治禎と清聡も渋々ながら黙認とした。
また、大内裏の建造物が軒並み倒壊したこともあり、再建及び警備面としての必要性から芦藏軍がしばし駐留することになる模様。
そして、その芦藏とは対照的に、是叡の背信を明らかとし邪神を討伐した最大功労者と言える鷹叢家――鷹叢樰永に関しては、いかなる理由があろうとも無断で禁裏に侵入した罪は如何ともし難いとし。上記の勲功により手打ちにするという始末となった。
この結果だけを見れば、結局のところ樰永たちが扶桑に来て得たものは何もなかったのだと言える。
しかし、これを機に鷹叢樰永という武士の名は、倭蜃国ばかりか隣国の藍帝国や遥か西界の国々にまで轟くこととなり、その声望を大きく高めた。
だが、それは同時に多くの群雄が国内外問わず、樰永に狙いを定めはじめることを意味していた。
なお、この一連の騒動は『睦月の妖変』と名付けられ、戦国の転換期となった出来事として歴史に記憶されることとなる。
夜も深まった刻。羽蝉国、羽蝉城にて……。
白梅の香が濃厚に漂う寝所で、嵩斎は薄着のまま胡坐をかいて寛いでいた。
傍には、白黒で区切られた西界将棋の盤と駒が散乱している。
「まあ、今回のお遊びはこんなところかな? 鷹叢の若様たちもまあ頑張ったじゃない。お蔭で僕たちの前途も万々歳だ」
馬の頭を持つ駒を手で弄びながら、独りごちる。
「せやな。黄泉比良坂の穴は開いた。朝廷も俺らで押さえた。ひとまずの目的は達成したとゆうてもええやろう」
その後ろから、寝所の御簾を乱暴にまくり上げて、黒衣の束帯に烏帽子、そして梵字が編まれた長い白布で顔を覆った男――今は遠く扶桑京にいるはずの現・摂権、四条院忠遠が入ってきた。
嵩斎も、それを当然のこととして艶やかな美貌を微動だにもしない。
「やあ、摂権就任と従一位太政大臣への昇進おめでとう。それと朝廷での取りまとめご苦労様。それはそうと一局どうだい?」
「誰があんたなんぞとやるか。そもそも西界の将棋なんぞよう知らへん」
相も変わらずにべもない態度に、嵩斎は微苦笑をこぼす。
「少なくとも、倭蜃の将棋に比べたらルールは明快な方なんだけどねえ~。それはそうと、君も鷹叢の若様を直に見てきたんだろう。どうだった?」
嵩斎が興味津々な声音で問うと、白布の下から極めて平淡な声で「やかましい男やな」と辛辣に吐き捨てた。
「へぇー? てっきり興味ないとか言って、まともに答えてくれる気なんかないと思ってたのに。ずいぶんと辛口な批評だねぇ」
「……新しき天地だの、世界を変えるだの、罪人の汚名を着取る分際でようも矢継ぎ早に大風呂敷を広げて法螺が吹けるもんやな……!」
軽蔑すら含んで吐き捨てる忠遠に、嵩斎は「ずいぶんと嫌われたね、あの若様も」と苦笑を浮かべる。
「けど、それがあの若様の持ち味じゃない。あそこで黙ったまま棒立ちになるような玉なら、そもそも刻鎧神威に見初められやしないさ」
嵩斎が楽しそうに笑うと、忠遠はいらだちを顕わにした声で刺す。
「あんたは楽しいかも知らんが、俺は気が気やないわ。鷹叢のガキと小娘、あそこで始末すべきやないんか?」
「仮にも売国奴や邪神から都と国を守った大英雄だよ? それをどうにかしようものなら、僕たち自身が都での信用を失ってしまうじゃないか。少なくとも現時点でそれはいただけない」
嵩斎にしては珍しくも、呆れまじりの声で苦言を呈した。
それでも忠遠は負けじと食い下がる。
「禁裏侵入の件があるやろう」
「って言ったてねぇ。それはそもそも是叡の尻尾をつかむためのものだったし。何より邪神討伐という大勲功を上げられてしまった手前、それだけの罪じゃ処断するにはもう弱すぎるよ」
「罪は罪やろう……! まして禁裏での帯刀と抜刀は昔なら流罪ものや。そうゴリ押しさえすれば――」
しかし、嵩斎の答えは相も変わらず素っ気なかった。
「だから、その罪を大勲功と引き換えに帳消しにすることで落着としたじゃないか。むしろ、その大勲功を考えれば、僕らじゃなく彼らこそが朝廷の主導権を握っていたとしても何らおかしくはなかったんだ。そう思えば、お安い買い物だよ――って、うわ!」
途端に、胸倉をつかみ上げられる。
「淦狗国でもそうやったが、ずいぶんと庇い立てするやないか?」
声は平淡ながら隠しようもない怒気と殺気が燻ぶっている。にも拘わらず、嵩斎は艶然とした笑みをまるで崩さない。それどころか――
「そっちこそ柄にもなく焼き餅? その身体で似合わないよ」
と、最高に麗しい満面の笑みを浮かべるのだが、当然と言うべきか答えは正拳突きだった。
「まったく、おまけに短気なんだからなぁ――」
嵩斎は尻餅をついて赤く腫れた頬を押さえながら、まるで堪えていない声音でさらにからかった。
「せやから気色悪いこと言うな……! とゆうかワザと喰らいよって! ホンマ腹が立つわ、その顔」
「顔どころか全身隠して引き籠ってる君に言われてもねぇ。――それにしても便利だよね、君のその人形」
「……」
その言葉に、忠遠は不機嫌さを増した息を返す。
しかし、嵩斎はそれを知ってか知らずなのか、さらに講釈を続ける。
「己の血を媒介に作り上げた肉人形……量産も代用も利く超優れ物だ。一度に複数体操り異なる場所での活動も同時進行できる。当然暗殺防止の使い捨てにもね。いやあ、本当に閻魔も真っ青なほどに便利な術だよ」
そう。それこそ忠遠が校書殿にいながら同時に大極殿にも存在し、何より今現在、都で新摂権として辣腕を振るいながら、遠く離れた羽蝉国にいる理由だ。
そもそも忠遠はこれまで一度も直接衆目の前に現れたことなどない。
公の場にも、秘密裏の行動の時も、己の分身たる肉傀儡を介して行動している。それ故に誰も忠遠の尻尾をつかむことなどできないし、暗殺や謀殺など夢のまた夢という道理だった。
だが、新摂権は布の下で舌打ちして若殿の賞賛を一蹴する。
「どの口で言うとるのや。それを言うなら、あんたの術の方がよっぽどえげつないやろうが。それはそうと、是叡の娘の件どないするつもりや?」
「どうするって?」
空とぼける嵩斎に、忠遠は容赦しない。
「アレはあんたの術の影響やろう。あの娘の遺体を詳しく調べられでもしたら――」
「僕がそんな下手を打つと思う? まあ、あの娘は持たないとは思っていたよ。なにせ骨や筋肉、肺を上限無視して酷使したからねぇ」
何でもないことのようにのたまう若殿に、新摂権は「鬼め」と毒づいた。
「まあ、僕としてはせいぜいが若様への嫌がらせ程度のつもりだったからね。元からそれで若様をどうこうできるとは思ってなかったさ。それよりも僕たちがこれから考えるべきは、穴を来たるべき日まで守り抜くことだよ」
「……わかっとるわ。けど、黄泉津大神が引っ込み、穴自体も極小に縮んだとは言え、一度開いた穴はどの道簡単には塞がらへん。しばらくは心配いらへんやろう」
忠遠が嘆息をつきながら答えるのを、嵩斎は苦笑を浮かべて茶化す。
「口の割には楽観できないって声だねぇ。やっぱり心配?」
今度の答えは蹴りだった。
忠遠は、腹が立つほどの艶やかな美貌に足を擦り付けたまま忌々し気に吐き捨てる。
「誰・の・せ・い・や・と・思っとる……! そもそも、せっかく開けた穴が針の穴ほどにも縮んだのは、泳がせとった鷹叢のガキどもが原因やろうが。本当なら邪神に奴らを粗方始末させた後に、俺らが穴を通して黄泉比良坂の力を簒奪するっちゅう計画やったのに。あれだけ縮んでもうたら、今すぐにはどうにもできへん。肝心なところで読み間違えよってからに……!」
「はい、はい。僕のせいですよ~~と。でも、それは若様がこっちの予想以上に頑張ったのと西界の連中の横槍があったのが原因であって、僕の過失なんて些細なもの……あ、嘘です。まぎれもなく僕のせいだから刀はやめて」
それに、嵩斎はやはりまるで反省していない声を返した結果、新摂権の怒りを再度買う羽目となった。
このようなやり取りが羽蝉国であった翌朝の扶桑京。
ほぼ、ほとんどが瓦礫の山と化してしまった、千年の歴史を誇る壮麗な宮殿であった大内裏では……。
「結っ局、俺たち骨折り損のくたびれもうけだったな……」
瓦礫の一山に腰を下ろして瓢箪の焼酎を呷りながら、永久にしてはやるせない声で吐き捨てる。それに隣の啓益も憮然とした顔でうつむく。
「左様でござる。若の是叡失脚並びに邪神討伐という大功も禁裏侵犯の罪と相殺され、結果として、後からやって来た芦藏どもにおいしいところを全部持っていかれるという始末に……!」
「まあ、この混乱と都の立て直しのため芦藏の鎮守府将軍任官の件が流れた上、大嘗祭そのものが中止となり、楠原と萩原への無理難題が立ち消えたことだけが、せめてもの救いだな」
摂権・是叡と側近の前嗣の失脚をはじめ、何より今回の邪神の暴威により大極殿などを始めとした大内裏の建造物の多くが倒壊したため、大嘗祭どころの話ではなくなったのだった(また同時に、治禎と清聡を縛っていた治天の玉座も大極殿ともども消滅したため)。
一刻も早い再建が望まれ、その再建を混乱を治めた芦藏が担うこととなり、地方の長官職を任じている場合ではなくなったのが主な理由だった。
しかし、芦藏が朝廷の中枢へと入り込んだこの結果は、鎮守府将軍となられるよりも厄介な事態となったと言える。
だが、永久が危惧しているのはそれよりも――
「しっかし、芦藏もそうだが、これまた不気味な奴がいきなり出張ってきやがったもんだ」
その言葉に、啓益は鋭く目を細めた。
「忠遠公のことでござるか」
「ああ。正直日和見と思って眼中になかった野郎が、ここで出しゃばるなんざ想像すらしてなかったぜ」
「然り。おまけに、この芦藏の突然の上洛……! 是叡の件などただの口実。すべて両者であらかじめ示し合わせていたとしか思えぬ」
啓益の推論を、永久も酒を一気に呷って口元を乱暴に拭ってうなずく。
「十中八九間違いねぇだろうな。でなきゃ、いきなり四万なんて軍勢で、それも深夜という時刻……さらにこの時機での進軍なんぞできるわっきゃねぇ。どうやら今回の一件は何から何まで芦藏の坊やの掌の上だったようだな」
いかに要請があろうと四万なんて軍勢をいきなり動かすことなどできはしない。以前からこの時のため長い準備と根回しをして、都近くに兵を少しづつ集め、隠匿していたのだろう。
しかし、他国の兵を都近くで長く隠匿するなど芦藏だけでは不可能。朝廷の上層に強い味方でもいないかぎりは……。
永久は忌々し気な酒気を吐いて唸った。
「ちくしょうめ……! 今回は俺たちの完全敗北だな。鎮守府将軍任官って件からして、そもそもは俺たちを誘い出し体よく利用するための餌だったんだろうさ。そして、まんまとその目論見に嵌っちまったわけだ」
「……やはり、此度の邪神の復活も芦藏と忠遠公が絡んでいると?」
「状況証拠だけなら黒だな。けど当然明確な証拠はねぇ。唯一の手掛かりと言えた、呪術で刺客に仕立てられた是叡の娘も急死ときてやがるからな。きな臭さいにもほどがあるが、これ以上の追及は無意味だろう……」
重い嘆息をついて腰掛けた瓦礫に寝転がる。
すると、その傍で啓益は近くの瓦礫に拳を打ち付けた。
「おい、八つ当たりにしても痛くねぇか? それ」
永久の呆れ声も構わず、啓益は歯軋りしつつ怒声で捲し立てる。
「それもこれも……あの姫君が元凶でござる……!」
「はあ? なんだそりゃ? 八つ当たりにしても本末転倒すぎんだろ。あいつは樰永と並ぶ邪神討伐の最大功労者だぞ」
「いいや! あの姦たる姫の妖気がこのような状況を……!」
などと脈絡のないことをのたまう古武士を、怒気と殺気が込もった眼で睨み据えて黙らせる。
「いい加減にしろ。今は過ぎたことを、ああだこうだと言ってる場合じゃねぇだろうが。芦藏との一件が片付いても、もうひとつの問題は何も終わっちゃいねぇんだぞ」
「……わかっており申す」
「まったく、都に来てから怒涛の展開続きだったが、公家や芦藏の件が落ち着きバケモノも退けた途端に、今度は西界との戦だなんてシャレになってねぇぜ。さて兄者になんと報告したものかな」
少々ウンザリした声で息を吐く永久に、啓益はふと思い出したという面持ちで別のことを聞いた。
「そう言えば、カルドゥーレめはどこに? あ奴こそが、その重大事の最たる元凶でござろう」
「あいつなら、藍帝国の宦官と今後のことを話して来るとさ。まあ、藍帝国と伝手ができたのは収穫ちゃあ収穫だったが、あっちもあっちでゴタゴタしてやがるし、加えて今回の政変でどう転ぶかわかったもんじゃねぇわな……」
と、重い息を吐き出した。
「だが、どうあれ俺たちには引き返す道なんてねぇ。この先に待ち受ける道は、死か天下だけだ。それは樰永にもわかってることだろうよ」
「若、出立の準備は整いましてございまする」
市中に取った仮宿の玄関で柾秀が恭しく跪いて告げるのを、尊昶は「うむ」とだけ応えて悠然と馬へと騎乗しながらも、この都で会った樰永と朧に想いを馳せていた。
――彼らに比べれば、俺は武士としてまだまだ未熟だ。よりいっそうの精進を怠るわけにはいくまい。
自分にとって此度の上京は多くの物を得た実りあるものだった。武士としても、国を治る者としても。
――俺も樰永殿のように己が国ばかりではない。天下のために力を尽くせる武士になりたいものだ。否、ならねばならん! そのためにも――
「爺。俺は国に帰り次第、父上に進言したいことがある」
「と、申されますと?」
首を傾げる老臣に、若殿は揺るぎない迷いを払った声で告げる。
「俺は、北應州の鷹叢と盟を結びたい」
「ったく――賊の捕縛と宝の奪還で終わる任務のはずが、想像以上にややこしいことになったな」
瓦礫と化した大内裏に張ったゲルの陣幕で、リュカが不機嫌そうに鼻を鳴らして毒づく。
邪神討伐後、彼らは朝廷の厚意で大内裏(今や跡地そのものだが)に、オルドを本陣として構え、複数のゲルを張っての滞在を許され、扶桑の民の避難誘導に努めていたホドの将兵たちは、しばしそこで体を休めていたのだった。
「確かに……いろいろなことがありすぎて、陛下になんと報告すれば良いのか……」
シャリネも焚火の準備をしながらその顔を憂いに染め、その隣で斧を振るい薪を割っていたカラコムも難しい顔でうなずく。
「……今回の一件で、鷹叢樰永は救国の英雄となってしまいましたからな。我々としても容易な手出しができなくなった」
リュカは舌打ちを大きくする。
――つまりは、下手をすると倭蜃国そのものとの戦になりかねんということだ。それはもはやカイに与えられた裁量権を大きく逸脱する事態だな。
「こうなってくると、あのガキの戯言がいよいよ現実味を帯びてきやがるか」
「女帝陛下と直接謁見させろと言ってたアレですか?」
レイヴンの言葉に、リュカは忌々し気にうなずく。
「まあ、あの女王様がなんというかは正直わからん。まるで相手になんぞせんかも知れんし。あるいは――」
「この一件をお知りになれば、むしろ御自らが乗り込まれかねませんね」
シャリネが、嘆息と一緒にその先を継いだ。
「伯爵もつくづく心労が絶えんということだな」
慇懃な家令は、やれやれという仕草で息を吐いた。
そんな中で、ユリアが遠慮がちに訊ねる。
「それで、そのお師匠さまは今どちらに?」
それに答えたのは、レイヴンだった。
「カ、いえ、伯爵はおひとりで考えたいことがあると、オルドにあるご自分の居室にこもられましたよ。おそらく、今後の方針を考慮しておいでなのでしょう。今はお邪魔にならぬようにしましょう」
「はい! ユリアもお師匠さまを応援してます!」
と、ユリアは元気よく大きな耳をピコピコと動かした。
扶桑京、郊外の森にある廃社……。
一時的な根城にしていたその社に、樰永と朧はいた。
二人とも石畳に腰を下ろしたまま口を一切開かなかった。
「……」
朧は、頬を両手で押さえ俯きながら、重く億劫な息を吐き出さずにはいられなかった。
――何と声をかけていいのかわからない。ここまで来てようやく目的を果たせたと思ったら、最後の最後で芦藏にすべてを掻っ攫われる形に……。
兄の心中を慮った後、己の不甲斐なさを責めた。
――私は、あれだけの大口を叩きながら何の力にもなれなかった。それどころか兄様の足枷になってしまった……! 兄様と同じ疾さで駆けたいと言ったその口で!
アイアコスの助力がなければ、自分ひとりで天魔の荒ぶる力を扱うなど……それこそ戦場に立つことさえ儘ならなかっただろう。
だが、自棄は起こさなかった。いつまでも失態に囚われていては、それこそ大君の御台所など夢のまた夢だろう。
――こんなことでは駄目! 今度は私自身の力で兄様に並び立たなきゃ!
そう己を鼓舞した時――
ズガンッ!
抉り穿ちこむような轟音が、すぐ隣で響き、朧はギョッとなって身を竦めた。
反射的に横を振り返ると、最愛の兄が己の顔貌に正拳をめりこませている姿が映った。
「に、兄様?」
いったい何をと問いかける前に、当の兄はあっぴろげに口を開いて破顔大笑しはじめた。
「あっははははは! 負けだ! 何もかもすべてにおいて大負けだ!!」
朧は呆気にとられたまま、大笑いしながら負けだと叫ぶ兄を見つめる。
樰永は、ひとしきり笑った後真顔になって愛妹に言う。
「今回の芦藏と朝廷との戦は俺たちの負けだ、朧。いや、そもそも俺たちが戦うべきは是叡なんぞじゃなかった。それに気づけなかった時点で戦う前から既に負けていたんだ。邪神にしても同じだ。俺たちはアイアコスに勝たせてもらったようなものだしな」
「……はい」
兄の言葉に、朧もまた悔しさに苛まれながらも認めた。
今回の一件、自分たちは嵩斎と忠遠の掌で踊らされ動かされただけだ。
結果として芦藏に鎮守府将軍以上の力を与えてしまったばかりか、是叡以上に危険で得体が知れぬ男が摂権位に就く手助けまでしてしまった。
邪神の件も、先刻自分も己の力不足を痛感していたところだ。
「だがな。この都に来て俺たちが得た物がないなんてことは絶対にないぞ」
「え?」
しかし、樰永はそんな暗澹たる気持ちを吹き飛ばすかのように、力が漲った瞳を輝かせる。
「いかに勝たせてもらった結果とは言え結果は結果だ。此度の邪神討伐で俺たち鷹叢はその声望を大きく強め高めた。まずこれが第一。国人衆や商人の信頼も強固となり、朝廷の後ろ盾を得た芦藏も安易に手出しができなくなった。さらには、藍帝国中枢への伝手ができた。俺が倭蜃を一統した後に構築する商業機構の太客となり得る。これが第二。そして第三に――夢だ」
「夢、ですか?」
思ってもみなかった言葉に、朧は面食らった貌になる。
「ああ、朧。俺は、父上が秋羅国に黄泉という都を持ってきたように、扶桑の隣に新たな都を造るぞ。それもこれまでにないほど大きな港を備えたな」
「新たな都、ですか? それも扶桑の隣というと……火麓にですか?」
「ああ、そうだ。俺は扶桑に来てつくづく思い知った。扶桑の――延いては倭蜃国の汚濁を一掃するには、根本的な改革が必須だとな。それには黄泉以上の国際交易都市を新たな都としてこしらえるのが一等手っ取り早い。それにどの道、俺が理想とする商業圏を実現するには黄泉の港だけでは手が足りないし。何より国の中枢から遠すぎる」
「けれど、火麓は海に面してるとはいえ沼地ですよ。ひとが住むのはもちろんの事。とても船が停泊できるとは思えませんが?」
朧が指摘した通り、扶桑に隣接する火麓はその一帯が巨大な沼地であり、誰がどう見ても都市など建つ道理がない完全な湿地地帯だ。
まして黄泉以上の港を造るなどとても望めそうにない。
だが、樰永はどこ吹く風で言い切る。
「無論土砂で埋め立てるんだ。ついでに人工島も造って、より巨大な港湾を建造する」
「埋める!? それに人工島、ですか!?」
しれと言い切る樰永に、朧は半ば仰天する。
「都市や港を造るに不向きというなら向くように造り変えりゃいい。全国から大量の土砂を集めて土台となる土地を自ら作るんだ」
あまりに想像を絶する話に、朧は開いた口が塞がらなかった。そんな妹に対し、兄はまるで悪戯っ子のような笑みを浮かべてこうおどけた。
「それに、ああいう誰も目もくれねぇ土地に都を作るなんて法螺を実現する以上に、皆の度肝を抜く痛快なことが他にあるか?」
途端に、朧は「ぷっ」と吹き出す。
「なんだよ? 俺は本気だぞ」
樰永は、ムキになって少し眉をひそめる。
「いえ。すいません。なんだか兄様らしいなって」
――ああ、私はやっぱりこのヒトが堪らなく好きだ。
朧は、改めて己の気持ちを再確認しつつ、頬を朱に染めて最愛の兄を見つめる。
当の本人は、照れ隠しとばかり再び夢を矢継ぎ早に語る。
「とにかくだ! 俺は、必ずやこの夢の都を現にするぞ! そこは俺が新たに作る倭蜃国の新都という意味合いだけではない。東西あらゆる国々との商業機構の中心地ともなるべき都だ。そして――」
そこで真顔になって最愛の妹を抱きすくめた。
「に、兄様!?」
朧は兄のいきなりな行動に上ずった声をあげるが、樰永は巌のように揺るがない強い声音で告げる。
「その都をともに造りともに治るのは、おまえだ朧」
「っ!」
「言ったはずだ。おまえは俺の唯一無二の最愛だと。俺の隣に立つ女はおまえしかいない。今の世では俺とおまえが結ばれる土台もまたない。だが、だからこそ決して赦されぬというなら赦される世に俺は、いや俺たちで創り変えるんだ。俺たちが添い遂げるのは、冥府でも来世でもなく今世なんだからな」
朧も涙ぐみながら樰永を抱きしめ返す。
「はい、はい! 私も兄様と同じ夢を目指したいです! 一緒に叶えたいです!!」
その言葉に、愛しさがいっそう溢れ返り抱きしめる力が自然と強まる。
「ああ。その時は、誰にも天にもはばかることなく、おまえと俺は夫婦だ」
「はい……」
誓いを新たに、兄妹は口付けを交わした。
――私たちが歩む道は、誰にも理解されない、誰にも許されない魔道なのかも知れない。けれど――
――これは俺たちが自ら選んだ道だから、曲がることも退くこともしない。ただ真っ直ぐに突き進んでやる。歩みを止めなければ、道が逃げることなんてありはしないんだから。だから――
――心中なんぞ誰がしてやるもんか!
――心中なんて誰がしてやるものですか!
――誰が何と言おうと俺たちは――
――誰が何を言っても私たちは――
――天下一幸せな夫婦に必ずなってみせる!!
大内裏跡に張った本陣のオルドにある己の居室で、アイアコスは己の手に顕現させた、三日月に嵌った手鏡――己が従える刻鎧神威の一柱『ツクヨミ』の器に声を掛けたていた。
「お祖母様。つかぬ事をお聞きします。お祖母様の故国は、兄妹同士の婚姻というものが許されているのでしょうか?」
その妙な物言いに対し、鏡から返ってきた答えは、ツクヨミではなく、常に凛然とした彼女とは対照的にどこか間延びした明るい調子な女性の声が響き渡り、どこか困惑した調子で答えた。
『まさか!? 倭蜃だってもう完全に禁忌だよ!』
刻鎧神威は過去の主の残留思念を蓄積しており、特に強い思念を持った所有者ならば、こうして意思疎通も可能と言う道理だった。
そして、アイアコスの祖母は彼よりも先々代のツクヨミの主に当たるのだった
「ですよね……」
アイアコスは、顎を撫でながら一考する。
――まったく、この国に来てからというもの想定外ばかりだったが……これは想定外にも程がある。よもや、あの兄妹が恋仲であるなどと……!
何故、彼が誰にも知り得ぬはずの二人の恋を知るに至ったのかと言うと、その答えは単純明快なことだ。
事の発端は、あの邪神との決戦でのことだ。
邪神の影響で己の中で刻鎧神威が暴走した朧に、アイアコスは己が従える刻鎧神威の一柱『スーリヤ』を貸し与えることで暴走を御してもらおうとしたわけなのだが……。
兄妹が、邪神に止めを刺したあの神楽『麒辰天穹』を放った瞬間、彼女に貸し与えていたスーリヤを通して流れこんできてしまったのだ。
その技に乗せた二人の愛慕、二人が積み重ねて来た過去の情景、二人だけの契りが否応なしに濁流のごとく……。
「さて、どうしたものか。かような形で奴らの急所を握ることになろうとはな」
そこ声はどこか憂いの翳りを帯びていたが、当のアイアコスもそれが何であるのかを量りかねていた。
これはむしろ、アフリマンを奪還せねばならぬ自分にとっては朗報ですらあるというのに……。
これをネタに二人にあらゆる圧力をかけることができる。そうすれば、上記の任務達成は格段に速まり確実となるだろう。
にも拘わらず、それを厭う自分がいることにアイアコスは戸惑っていた。
――いったい何を考えている? アフリマンは元より、奴自身も危険だ。今回は事情が事情故に共闘こそしたが、それらはあくまでも一時的な妥協。己に課された王命を見失うな! そうだ。陛下から下された使命を前に手段など――
"お師匠さま、なんだか楽しそうです"
そんな愛弟子の声まで蘇り、甲冑の騎士は頭を大きく振った。
「この国に来てからというもの……僕は本当にどうかしているな……」
己の中にできた何かを振り払うかのように独り言ちた。
しかし、この時点で樰永と朧も、そしてアイアコスも気づいてはいなかった。
既に時代の堰が切って落とされ、そうしたあらゆる葛藤や感情を呑み込む濁流のごとき乱世が訪れたのだということに。
そして、互いに譲れぬ願いを通すため鬼と竜が刃を交える時は、もう間もなく迫ろうとしていたことに。
神々に愛されし王たちと織りなす兄妹の神話は、ここより本当の幕を開ける。
ただタイトルの通り終章一とありますので当然二があります。なので来週木曜も15時更新です。カルドゥーレサイドの終章になります! お楽しみに!




