第肆章 神座王集う 四 御所潜入
「某は反対でござる!」
間もなく日が沈むという時刻に啓益の怒声が響く。それを永久は呆れたように言う。
「まだ言ってんのかよ? この旅がはじまってから何度目だよ。その台詞……」
「永久殿! 貴女こそ何故に若君をお止めせぬのです!? 大内裏に無断で忍び込むなど前代未聞の大罪ですぞ! 表沙汰となれば、あの是叡に鷹叢家を討伐する口実を自ら与えるようなもの! そうでなくとも敵の巣に自ら飛び込むなど、猫に鰹節を与えるようなものではござらぬか!!」
「虎穴に入らずんば虎子を得ずともいうぜ」
古武士の危惧を、女傑は巧みに言い返して黙らせる。
「そもそも俺たちはその"虎児"を得るために、この扶桑に入ったんだぜ。今更だろが」
「っ! し、しかしだからと言って何故に若君自らが忍び込む必要性があるのでござるか? そういう役目は某たちこそが……!」
「朝廷の礼儀作法を習熟しているのは二人だけだ。俺たちじゃすぐにボロが出ちまう」
もっともすぎる言葉に、啓益は歯噛みしつつ押し黙るしか術がなかった。
そんな古武士の姿に、永久は大きな嘆息をつきながら肩を軽く叩く。
「おまえの心配ももっともといえばもっともだが、あいつらも、もうそれほどガキじゃねぇんだ。ちったあ信用してやれ」
「――信用していないなどと言った覚えはござらん。しかし」
「どうだかな。おまえ、過保護が過ぎるし」
「ッ!! そのようなことはござらん」
ぶっきら棒に言い放つやソッポを向いて己の仕事に戻っていく後ろ姿を、永久は一際大きな嘆息を再びついて呟いた。
「だから、そういうところがだよ」
「朧、準備はいいか?」
「はい。兄様」
二人は明日のための準備を整えていた。
「いよいよ明日は敵の本陣に斬り込む。覚悟は……できてるんだな」
すると、愛妹は眼をつり上げて怒ったような声音で言う。
「何度も言わせないでください兄様。私は兄様に守ってもらいたいんじゃない。兄様の隣に並び立ちともに戦うためにここにいるのです。その一事だけは何が在ろうとも譲る気は毛頭ありません」
それに、樰永はあからさまなため息をつくより他に術がなかった。
「疾うにわかっていたが、筋金入りの頑固者だな……」
「それは兄様だって同じでしょう。いつだって一度決めたら譲ったことなんてないんですから」
「そんなこと……いや、そうだな」
思わず否定しそうになったそれを、樰永は苦笑とともに認めた。
「なら改めて頼む朧。俺に力を貸してくれ。俺には、これまでもこれからもおまえが必要だ。ひとりの女としても、大君を支える御台所としても……」
「兄様……」
真っ直ぐな視線と言葉を注ぐ兄に、朧は瞳を潤ませながらも懸命に涙を堪えた。今はそんな時ではないと自覚しているが故だ。
「おまえは俺のものだ。俺もおまえのものでありたいと思っている。おまえもまたそう思ってくれるのなら、俺は何もかもができるとすら思う。いや、おまえがともに並んで疾走ってくれるならば、ただそれだけで俺は何もかもを成し遂げてみせる」
迷いなど微塵もない決然とした声だ。あの嵐の中でも真っ直ぐに自分を求めてくれる声……。
――私もその声に応えたい。いいえ。応えてみせる!
「私も――兄様とならどんなことでも超えてみせます。たとえ兄様と歩く道行に地獄が待っているのだとしても。立ち塞がるものがあるなら、閻魔であろうとも斬り捨てて進むのみです」
「我が妹ながら男前を通り越しておっかねぇな……」
「なっ!? 兄様はそうではないというのですか!? 私にあんな破廉恥なことをしておいて……!!」
温泉での一件を持ち出され、樰永は思わずたじろいだ。
「いや! あれは不可抗力で……! いや、そうだな。言い訳はしない。責任なんていくらでも取ってやるさ」
しかし、すぐに澄んだ声で愛妹の訴えを肯定する。
「もちろん俺もおまえと同じ気持ちだよ。その覚悟も疾うにできている」
そういって朧を優しくだが強く抱きしめる。
「だから、明日の戦は何が何でも勝つぞ。それすら通過点のひとつでしかない。だが、だからこそ一度の躓きだって許されないんだ」
「はい」
「俺が、俺たちが望む未来は果てしなく遠いところにある。ハッキリ言ってたどり着くことは絶望的だろう。そもそも目指すことは愚か望んではならないのだろう」
「はい……」
その言葉に、自分の腕の中で手をギュッと握りしめる朧へ樰永は敢えて言った。
「それでも俺たちは望んだんだ。朧。俺が掴みとりたいと望むのは、おまえの手だ。口付けたいと望むのは、おまえの唇だ。眼に映したいと望むのは、おまえの瞳だ。生涯を――否。死してなおともに在りたいと望むのは、おまえだけだ。たとえ地獄に堕ちるのだとしても、この魂魄に刻まれた真実は偽れないし、譲れない。」
その言葉に、朧も最愛の兄を抱きめ返して応える。
「はい。はい……! 私もです。兄様はあの嵐の中でも私を見つけてくれました。私もそれに全霊で応えたいです……! 私の命すべてを懸けて、魂すべてを懸けて」
――叶わない、叶えることすら赦されない願いを押し通すには、まだ何もかもが全然足りない。だが、俺も譲る気は毛頭ない! たとえ天に叛くことになるのだとしても! 天下を一統することは、武家の棟梁として生まれた俺の使命で宿命だ。
――だが、この願いは真実俺自身が欲する願いなのだから……!
翌朝。大内裏、朝堂。
『朝政』
毎朝の習慣として摂権を筆頭とする公家たちが政務を見る早朝政務会議である。
これも本来は、王が見るもので公家たちはその施策の補佐という役回りであったのだが、今ではその王たる役を担っているのは、公家の主席たる摂権……すなわち是叡だ。
「では皆の者。これより朝政をはじめるでござる。まず大嘗祭における斎田についてでおじゃるが……」
是叡の宣誓を間近で聞き流しつつ、清聡は重苦しい嘆息をつくのを懸命に堪えていた。
(老公にはあのように言うたが、あれからよい思案はまるで浮かばへん……。正直に言うて八方塞がりもええところや)
芦藏の鎮守府将軍任官の件は相も変わらず紛糾しているし。
何より是叡の法外に過ぎる要請に応える術を持たない。
このご時世に、材質の良い材木やましてや大量の金箔などそうそう手に入らない。有力な大名たちですらそんな潤沢な資源を持っている家は稀だろう。
そして、その潤沢な資源を持ち得る心当たりなど、それこそ現・摂権が目の敵にしている倭蜃一の黄金を押さえた鷹叢家と倭蜃一の神木を押さえている大樹家ぐらいしか存在しない。
(芦藏を使い、それらを掌中に収めよう言う算段であられるのやろうが、老公のおっしゃるようにそない都合よくいくわけはあらへんやろう……)
治禎のいうように、もはや公家に武家を御す力はない。だからこその戦国乱世なのだ。
(ましてや、嵩斎殿は暗愚でないばかりか、これまでの芦藏の歴代総領とは比べ物にもならへん聡明な辣腕家……! そないな方が是叡殿の掌で踊ってくれるとは、私にもとうてい思えへん。しかし――)
そう堂々巡りに頭を空回らせていたが、ふと朝堂に参集している公卿たちの中に目をやると、思わず口を唖然と開けた。
下段に座す公卿の中に、赤みがかった黒髪を髷に結い冠を被って黒衣の朝服を纏い笏を手にして、いかにもな澄まし顔で佇む少年がいたからだ。
(ゆゆ、ゆ、樰永君っ!?)
危うく声に出して叫びそうになるのを懸命に堪えねばならなかった。
心の臓に悪いにもほどがある!
(何故ここに? 是叡殿に気づかれれば、ただでは――)
と、軽率に思える行動を心中で咎めるもすぐに思い直した。
(いや、もはや危険を承知でこのような挙に出なあかんほどに事態が切迫していると踏んだんか。確かに事実もう時間はそれほど残されてはおらへん。そないな状況下で残る手立ては、虎穴に入る以外にはない。けれど、それはいつ落ちるかわからへん綱渡りをやるのと同じことや! それを承知の上で斬り進んできたというわけか)
清聡の思案を読むように、樰永は静かにうなずく。
(清聡殿。後は俺たちに任せてくれ。必ずや藍との癒着の証を見つけ出し、是叡を引きずり下ろしてやる!)
後涼殿、御厨子所――宮中の女官の詰所と配膳の準備に使われる殿舎。
霊廟ながら内裏内にあって校書殿同様に変わらず使われている数少ない施設だ。
早朝から女官たちはてんてこ舞いの忙しさに追われる。
今朝も例外ではなく。
「こなた、この膳を持っていってたもれ」
責任者格の女官がひとりの若い女官を見咎めて役割を申し付ける。
すると、その娘はここに男がいれば瞬く間に魅了するであろう麗しい笑顔で振り返る。
「はい。心得ました」
「ん? こなた、見ない顔であらしゃいますね」
女官はこんな娘いたかと眉をしかめたが、娘は優雅な仕草と淀みない声色で答える。
「はい。今日入ったばかりであらしゃいます。よろしゅうお願いします」
「まあ、ええ。とにかく早う運んでたもれ」
「はい」
娘――朧は盆を手に回廊を歩く。
(さあ、ここからが本番よ朧。應州のため、ひいては倭蜃国のため、そして兄様のために一条宮の尻尾を必ず掴んで見せる!)
こうして兄妹は虎穴へと入ることに成功したのだが、事態は二人の想像を超えて複雑化することになる。