第肆章 狼煙 四 颶風焔閃
『――――今回ばかりは僕も怒っている』
静寂な憤怒を凝縮させた淡白な声音こそが号令。主の命を受け影の異形が一気呵成の勢いで駆けだす。それも壁や天井、床に染み込みながら文字通り縦横無尽に!
だが、樰永は瞬時に動揺を消し去り瞑目すると意識を深淵へと沈める。無用な意識を閉ざし五感のみを研ぎ澄ませるすべての武に通ずる極致たる無念無想の境地。
樰永の足は悠然と影の異形たちへ――正確には朧がいる浴場の方角へと駆け出した。
『はっ! この期に及んで妹のことで頭がいっぱいかい?』
嘲りまじりの冷笑。だが、そんなものにあらゆる意味で構ってやる余裕も義理もない。
――そうだ。こいつが底知れぬ力の持ち主だということは疾うに承知していたことだ。だが、だからどうした。そんなもの朧への道を塞ぐ理由になどならない!!
すべては雑事とばかりに進む以外の情報と理を遮断する。あらゆる角度――全方位から溶け込む形で影獣たちが噛み千切らんと迫ろうがお構いなしだ。
それくらい意識せずに身体すべてがそのように働いていた。
「――焔麒嵐日流剣術・攻初の陽麒【嵐刃焔陣】」
焔風を帯びた刀身が正確無比に影獣たちの顎や爪、手足を切り落とし薙ぎ払っていく。それも駆けながらだ。
刃を振るい進む度に塞がれた道が独りでに切り拓かれていく。
多勢に包囲された戦局において最高速で駆けながら最小限の動きで己に届く攻撃のみを足捌きと体技でかわし弾き、斬り薙ぎ払う。
己を一個の陣形とし軍勢を進撃突破する攻撃・防御・前進の三つを同時成立させる剣技。
焔麒嵐日流とは元よりひとりで軍勢を――戦を相手取るための戦国流派。
特にこの嵐刃焔陣は、攻めの剣術である焔麒嵐日流の中にあって唯一の守りの剣技。
攻撃こそ最大の防御という理念を体現した技なのだ。
『へえ……性格に似合わずなかなか器用な真似をするじゃないか。でもね――』
斬り裂かれた影はすぐにその形を取り戻し襲いかかる。樰永はまたそれを斬り払うの繰り返しとなっていた。
だが、手数の差が出始めたのか樰永の傷のみが一方的に増えていく展開となる。
――ぐっ! やはりジリ貧になるのはこっちかっ!
刻神というだけあって影獣たちは強く何より固い!
強度が段違いに跳ね上がっている。アフリマンの刃に神気や妖力を集中させてやっと切断できてもなおこの再生力……!
――扶桑での刻神をもう一度使えれば……!
だが、あの時はアイアコスの助力あってのことだ。今の自分にそれが能うか否か!
焦燥に駆られながらも足と刃を止めない樰永に声は嬲るような嘲笑をこだまさせる。
『君は結局いまだに刻鎧神威の力を全然使いこなせちゃいない……』
「へっ……! 戦いの最中に相も変わらずお喋りかよ。高みの見物は余裕だな」
野卑な笑みと悪態で返す樰永に影の群れから凄惨なまでの嬌笑が合唱される。
『君こそ無駄な挑発なんてしてる余裕があるのかい、若様? 僕にとってこれはお遊びでも君にとっては命懸けの見世物小屋なんだからさぁ!!』
瞬間――影が身震いしたかと思うと弾けるように複数の糸を放出するや槍衾や矢衾に姿を変え、樰永へと雨霰と降り注いだ。
「チッ!」
樰永は臆すことなく嵐刃焔陣を繰り出して切り抜けんとするが、その一本一本の強度はもはや桁外れとなっており弾くだけが精一杯のありさまとなった。
それも急所や行動の支障が出得る部位のみを死守してだ。それ以外は余裕がない。身体中が切り傷を刻み直垂は至るところがズタボロとなって鮮血がにじんでいく。
そればかりか死の暴風雨の凄まじさは反撃ばかりか進むことさえ儘ならず、足が止まって完全な巻藁状態となっていた。
『やれやれ、久方ぶりに活きのいい玩具と期待してたんだけどねぇ……』
圧倒的死地の中でいかにも肩をすくめたかのような身勝手極まりない嘆息が聞こえる。
いまだ姿形に性別は愚か影すらも知らぬ奴だが、つくづくこいつはひとの神経を逆撫でさせる天才だと思う。
いらだちを噛みしめながらも樰永は足を踏みしめ手と刀を一瞬たりとも止めない。
止めた時は死ぬ時に他ならぬからだ。
だが、不本意なことに戦況は正真正銘絶望的だ!
自分などとは、まとった神気の質と密度があまりに違う。違いすぎる!
刻神と化した槍と矢のひとつひとつが重く固い。まるで空から降ってきた隕石でも弾いているようだ……!
――これが、真の刻神ッ!! これこそが、本物の神座王の力か……ッ!!
圧倒的という言葉さえ分不相応に思えてくる。まさに大人と赤子だ!
これが今の自分とこいつの差……!
天と地もかくやというほどの隔たり。それを文字通り身に染みて思い知らされる!
『ふぁ……さて。僕としてはもう少し遊んでいたいところなんだけれど……この後もいろいろと予定がつかえてるからさ。そろそろ終わりにするね』
それに対して影獣の指揮者はまるで飽いたとばかりに欠伸まじりに吐き捨てる。
然も興味が失せた玩具を放り捨てる童のように。
『――繋がれ、広がれ、縮め、縛れ、断て――【死糸黒牢斬獄】』
無造作に告げられた呪詛に従い、影は結合して樰永を包囲する形で広がり巨大な籠状へと姿を変えるや、急速に縮んだ。
樰永は全身に怖気が奔る。
それは死の牢獄だった。
柵のひとつひとつが濃厚な純度の神気が隅々まで循環された神刃だ。付け焼き刃で神器を振るうだけの自分とは比べ物にならぬほどの……!
――逃げ場はない! ならば――!!
樰永は、アフリマンの湾曲刀を鞘に納め両膝を曲げて腰を落とした。
抜刀術の構えだ。次いで瞑目して精神を統一する。
一方、影の術者は酷薄なまでに無感動な声音でまるで童を諭しているかのような調子を取り繕って嘲る。
『相も変わらずしつこいくらい足掻くねぇ。でも、駄目だ。いかに技が優れようとも君の刻神が僕の刻神を上回らないかぎり、この業を破るどころか逃れる術もないんだよ。何はともあれ終焉なんだよ、若様』
自明の理だと微塵も疑っていない声と物言い。
それを樰永は鼻で笑う。
――ああ、確かに俺とおまえじゃ神座王としての差は雲泥だろうさ。だがな……!
妖力と剣気を湾曲刀へと集中させる。
「ガキの頃から今に至るまで鍛え培ってきた剣まで、貴様ごときに遅れを取るなどとは微塵も思わん!!」
――そうだ。俺は天下を――朧をこの手に掴むためにでき得るすべてを積み上げてきた。それがこんなふざけた野郎に負けるなんて断じて認められない!
そして、意識をさらに深奥へと沈める。
己の内、魂魄とアフリマンを繋いでいる縁を感じ取れるほどに。
その間で燻って循環しながら無駄に放出されている神気をひとつへと収束し、一点に集中させる。
――そうだ。あの時の感覚を思い出せ。産毛のひとつひとつにまで神気が隅々まで行き渡っていく感覚を。何よりアフリマンと魂を合わせた血と血が溶け合うあの感覚を――!!
『無駄さ』
無造作かつ冷淡な死刑宣告と同時、ついに死の黒檻が縮みきった。
と、同時にパランッと弦が弾かれるような音が鳴り、凄まじい風に巻かれた濡れ羽色の焔をまとった斬撃が影の大半を斬り飛ばした。
『えっ?』
声が初めて心底からの驚愕で彩られる。何が起きたか解せぬとばかりに。だが――
「焔麒嵐日流抜刀術・反攻の陽麒・【颶風焔閃】」
黄金の双眸に十字架の光輝を輝かせ、手に金糸の柄と金の鍔、濡れ羽色の文様が這う燃ゆる紅玉の刀身という意匠の大太刀を鞘から抜き放った樰永が不敵に睨みつけている姿が、その疑問を一刀両断した。
『……ふ~~ん? もう刻神を自分で物にしちゃったわけだ。やるじゃない』
声は至って飄々としたものだったが、芯にある驚愕と狼狽は完全には隠し切れていない。
事実、大半を斬り飛ばされた影は再生せず、むしろ糸がほつれたような断面を覗かせたまま苦悶しているかのように痙攣したように這いずり、先刻の敏捷性が欠片もなく失われていた。
しかし、いかに刻神を習得したと言ってもまだやはり自分と比べるべくもない練度だ。神気の練り上げもいくらかまだ荒く甘い。
にも拘らず、練度も純度も遥かに上をいってるはずの自分の刻神を斬り飛ばした? それもこれほどの後遺症を与えて?
はっきり言ってありえない。まったくもって道理が通らない。
そう。普通ならば。
影の刻神を斬り飛ばしたアフリマンの刀身を見ると、焔風が一見そよ風と見紛う風量で螺旋状に逆巻いていた。
だが、一目でわかる。
そよ風と見えるのは外見だけ。その実は凄まじい風圧と炎熱が極めて高い密度で圧縮凝縮された焔嵐の螺旋刃であると。
何より着目すべきは、その逆巻いた焔風の刃に影の残骸――自身の神気の残滓が混じっていることだ。
――ああ、なるほどね。そういうことかい……。
それだけですべて合点がいった。
扶桑での戦闘でも見たが、鷹叢の若殿が使う剣術は風と炎の妖力を均一に融合させた技のようだが、これはその中でもおそらく抜刀による加速で撃ち出した刃へとまとわせた逆巻く焔風で巻き上げこっちの力まで巻き込んで己の力とする居合剣技。
つまり自分自身の力をそっくり叩き返されたわけだ。
――そりゃ斬り飛ばされるわけだ。なんと言っても僕自身の神気なんだから。それにしてもこの若様の成長速度と底力をまだ測り損ねていたようだ。僕がやられるとは思わない。だが、あまりお遊びが過ぎるようなら火傷程度じゃ済まなくなるかも……!
「どうだ。とうとう届いたぞ……! 格下と見下した相手に傷を負わされた気分はどうだ?」
樰永が口角を得意げに上げてくるが、声の主は小馬鹿にしたような笑声を漏らす。
「何がおかしい?」
そのどこか冷え冷えとした笑声に不穏なものを感じ再び貌を険しいものに変える樰永。
『いやいや、正直君がここまでやるとはね……。恐れ入ったよ』
「生憎だが、以前にも言った通りてめえのような奸物なんぞに褒められたって三文の値打ちもありゃしねぇよ。それに――」
大太刀を影の残骸に突きつけ改めて宣戦を叩きつける。
「これだけのことをしでかしてくれた代償は地獄まで取り立ててやる。これ以上貴様の好きにできると思ったら大間違いだぜ」
『あたぼうなのですよ! どこの馬の骨かは知りませんが、このわたしとユキナガのゴールデンペアに刃向かうなど身の程知らずと称すもおこがましい愚行であると教えてやるのですよ!』
アフリマンも主に意気軒昂に追随して吠える。
だが、そんな二人に帰ってきたのは――
『ぷっ! あっははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははぁっ!!』
盛大な嘲りと憐憫、何より狂喜と凶気に満ちた哄笑であった。
『むぅ……! 何がおかしいのですか人間? 無礼なのですよ』
アフリマンが心外だとばかりに声を尖らせるが、樰永は不穏なものを感じ取り何も口を開くことができなかった。
『いやいや、さっきも言ったけれど、これでも僕なりに褒めてるのさ。正直な話僕の刻神にこれほどの傷をつけるほどの力をこの短期間で捻り出すなんて普通はありえない』
言葉こそ賞賛しているが、声音は冷酷を通り越して無感動だった。至ってどうでもいいことに型通りの世辞を棒読みで述べるような他人事の響きがあった。
然も目的は既に果たしたと言わぬばかりに。
「っ! 貴様、何を――」
弾かれたように問い質さんとする樰永を嬌笑が礼賛するがごとく鳴り響く。
『うふっ♪ ご明察さ♡』
それが合図とばかりに城全体が鳴動を鳴らすや爆炎が巻き起こる。
「ぐっ!」
樰永はアフリマンの大太刀で防ぐが、炎は各所で燃え盛り煙でむせ返る。
『時間稼ぎご苦労様。なかなか愉しめたよ。後はせいぜい頑張ってね』
まるで何気ない別れの挨拶とばかりに声は途絶え、半死半生だった影もまた床に溶け込むように消えた。
「くそったれ……っ!!」
完全にしてやられた。
最初から奴は足止め目的で交戦したのだ。
「だが、どうあれますます急がねばならんな……! 行くぞアフリマン。朧の元へ――」
『ええ。ですが……』
しかし、相棒の声はどこか歯切れが悪い。
「なんだよ? まさか……! 朧の身に何かあったのか!?」
アフリマンは頭を横に振るように否定する。
『そうではありません。ただ妙な気配が――』
そう言われ樰永も心身を澄ませて愛妹の神気を辿ろうと試みるが、その瞬間――
「っ!? こ、これは――」




