第肆章 狼煙 三 毒蜘蛛の輪舞曲
「アフリマン。朧の位置はわかるか? あいつも曲がりなりにも神座王だ。その気配を辿れないか」
火が回りつつある回廊を走りながら、不意に思いついたことを相棒に訊ねる樰永であったが、当のアフリマンは微妙な沈黙を返した。
「おい、なんとか言えよ。緊急を要することだぞ。どうなん――」
半ばいらだちもまじえて急かす主に悪神は意を決したように口を開いた。
『それについてなのですが――朧は最初からいたのですよ』
「は?」
意味がわからない。
――最初からいた? どこにだ?
「あのな……! こんな時に揶揄いまじりの謎かけなんざしている場合じゃ――」
しかし、叱りつけようとする樰永の言葉を塞ぐようにアフリマンも言い切る。
「ですからなのですよ。朧もいたのです。あのサクヤとイチャついてた温泉に」
まるで想像の埒外にあった答えに今度は樰永が口を閉ざす番だった。
口は呆けたように開けっぱなしで目は点となって、その場で棒立ちとなる。
そうしてようやく絞り出した声は――
「はぁっ!?」
あの場に朧がっ!?
樰永は自身の顔が瞬く間に青褪めていくのが手に取るようにわかった。
全裸で咲夜と密着していたあの場面を目撃されていたという事実に、一気に心臓が凍りつき血の気が引いた。
なんでそんな大事を今の今まで黙っていたのだと怒鳴りつける前に、悪神は逆に呆れたような声音で吐き捨てる。
『言っておきますが、異議は受け付けませんのですよ。あそこで、あのような絶妙に間の悪い時期でどうして教えらると思うのですか? それも間女の柔肌で下のほうを滾らせているあなたに。オボロの立場と気持ちになってごらんなさい、この童貞が!』
そう言われてしまえば樰永も返す言葉がなかった。
素肌で抱きつかれながら愛を告白されている場面など朧にしてみれば青天の霹靂以外の何物でもなかったろう。
その衝撃と混乱たるや自分が逆の立場であったとしても推して知るべしだ。
それを思えば、アフリマンが黙秘をしたのも英断であったとうなずける。
加えて、いかに緊急の事態といってもあそこで朧が出てきたとしたら、当然ここで何をしていたのかと咲夜に詰問される始末となっていただろう。
『とは言え、オボロも武士としての公私はキッチリ分ける女です。むしろ戦ともなれば、あなたよりも感情と理性の切り替えは速いくらいです。今頃はわたしたちと合流すべく奮闘している真っ最中でしょう』
アフリマンの言葉に少しムッとなるが、事実なので一切反論できない。と言うよりそんなことは自分自身が一番よくわかっている。
――まあ、毎度毎度俺の尻を叩いてくるのはあいつだからな……。
先日の邪神騒動でも自身がそれどころではないというのに、逆に右往左往してた自分を引っ叩いて喝を入れてくるくらいだ。
――あいつはいつも俺と並んで翔けたいなんて言ってくれるけど、本当はあいつの方がよっぽど俺より先を行ってる気さえする。
生まれた時から自分の後を追いかけていた妹。
そばにいることが当たり前になっていた妹。
そして、いつの間にか最愛の女に変わっていた妹。
――俺こそがおまえを追ってきた。おまえにふさわしい武士になるために……。ひたすら我武者羅に疾走ってきたんだ。
確かに咲夜は心身ともに物凄く魅力的な女性だと思う。真摯に想いをぶつけてきた姿はいじらしいとすら思うし、抱きつかれて心臓が跳ね上がらなかったと言えば嘘になるだろう。
だが、自分が想いを届けたいと思うのは――
『あなたこそかような時に惚気は結構なのですよ~~~~! そういうフォローはすべてが終わってからになさい、この童貞が!』
念話で罵倒の嵐が巻き起こる。
「ああ、悪い……。それもそうだ」
今はそれこそひたすら我武者羅に疾走り続けるのみ!
再度意を決して足を踏み出す――が、その足が崩れるように膝を突いた。
「ぐっ……! お、朧?」
踏み出そうとした瞬間――瘴気とも見紛うおぞましい神気を感じとるや、痙攣が生じた目元を両手で押さえる。その双眸は十字架の聖印が明滅を繰り返していた。
それはもはや魔気と言い換えてすらいいかも知れない。それほどの圧迫感と忌避感が全身を滅多打ちにしていたのだ。
何より真っ先に朧を想起したのは本能と言ってよい。樰永にとっては唯一無二の存在であるが故にその危機と異常には誰よりも敏感なのだ。
そして、この時ばかりは忌々しいことながらそれが外れたことは一度としてない。
さらに、それを裏付けるようにアフリマンもいつになく悲鳴に等しい絶叫を上げる。
『ユキナガッ!! オボロが……!』
それだけで唯事ではないことが朧に起きたのだと改めて確信する。
「朧が……いったいどうした!?」
『天魔です! 天魔がまた半覚醒状態で暴走を始めたのですっ!!』
その答えに樰永は驚愕以上にやはりという確信を抱いた。
この重苦しい神気には元より覚えがあったのだ。
天魔――第六天魔王波旬。
都での邪神の覚醒に引っ張られる形で目覚めた愛妹の魂魄に潜み蝕んでいた魔神!
「しかし、突然どういうことだ? あれから一月経ったが、今に至るまで音沙汰無しだったじゃねぇか。第一、黄泉津大神は穴倉に戻ったてぇのなんで今更……!」
解せないとばかりに呻く主に、アフリマンは普段の彼女にしては珍しい固い声音で推論を述べた。
『確かに……あれ以来天魔の野郎も大人しくはしてましたが、どうあれあの一件で檻は砕けました。言わば、今の天魔は野放しに等しい不安定な状態……! 何かの弾みで暴走する危険性は常にあったのです……!』
樰永は顔を蒼白に染め上げ幾筋もの冷や汗を垂らす。
何かの弾み?
そんなもの心当たりはひとつしかない。
「やっぱり……俺と咲夜のことか?」
『それ以外に何がありやがりますかッ!! この大たわけ者がっ!!』
途端に凄まじい怒声が脳内に響き渡り、頭から耳にまでキーンという擬音が残響を伴なって駆け抜ける。
だが、この時ばかりは文句を言う気にはなれなかった。
――むしろ、当然だ。本当に莫迦か、俺はっ!
ただでさえ婚約の件でいっぱいいっぱいになっているところへ、自分と咲夜が裸で抱き合っている姿を目撃して一切不安にならぬ道理などあろうか。
天魔はそんな弱った心の間隙を突いたに違いない。
しかし、天魔以上に自分自身に怒りを滾らせる。
最愛の妹が一番不安で堪らない時だと知りながら、いろいろなことに忙殺されてそんなリスクにすら気づいてやれなかった!
――俺がもっと気にかけてやれば――!!
だが、悔やむのは後だ。今は一刻も早く朧の元へ――!
「アフリマン……朧の居場所はまだ浴場か?」
『はい。どうやらあの場から一歩も動けずにいたようですね。それだけ衝撃が大きかったのでしょうけれど……』
最後に厭味を付け加える悪神に「承知している……」と苦虫を嚙み潰したように顔を歪める。
「朧には何度だって謝るし、気が済むまで甘えさせてやる。ともかくすべてはこの事態を片付けてからだ」
今度こそ足を踏み出す樰永であったが、その足はまたも止まることになる。
『と・こ・ろ・が! 本当におめでとう。そうは問屋が卸さないんだなぁ、これが♪』
喜々と嘲笑、そして何より愉悦と嗜虐に弾む声音が重なって響くや、床や天井に壁から闇夜を溶かしたがごとき真っ黒な異形が影のように数十体這い出て、樰永の全方位を有無を言わさず囲んだ。
「なっ!?」
『ユキナガ!』
アフリマンが警戒をにじませた叱声を飛ばし身構える。改めて俯瞰すると、数は五十前後。影のように床や天井を通り抜けたところを見ると実態があるかどうかは疑わしい。
だがどうあれ、刻鎧神威の刃が通じない道理はあるまい。
瞬で判断を終えるや濡れ羽色の焔が生じた斬撃を見舞う。あらゆるものを例外なく喰らい灰燼に帰しめる必滅の神刃。
その前には得体のしれぬ異形など豆腐も同然。
その絶対的な確信は――
ガキィッン!
「なに!?」
あっさりと挫かれた。
影の異形は腕を鋭利な刃に変えてアフリマンの刃を受け止めるどころか弾き返してみせたのだ。
これまでいかなる猛者も武具も容易く斬り裂いた神の剣が通用しない。
その事実に驚愕こそしたものの、動揺は一瞬にも満たない。
すぐに切り替え、緩急の付いた足捌きで攪乱するや刃を縦横に振るって包囲の一部を崩し立ち位置を入れ替える。
――こいつら、刻鎧神威の刃とまともに打ち合えるばかりか押し退けるとは……! ただの魔性というわけではなさそうだな……。
樰永は四方八方に睨みを利かせ、影の異形たちの動きを油断なく観察する。
そんな中で相棒のアフリマンが警戒を促すように忠言する。
『ユキナガ……気をつけてくださいです。この者たちは、刻神なのです……!』
「っ! 刻神だと? こいつらすべてが……!? 悪い冗談だぜ……!」
確かに刻神は、所有者である神座王当人のみではなく、その武具や騎乗獣にすら神気の鎧をまとわせる技だということは扶桑で知ったばかりだが、これだけの数の魔性にまで力を分け与えられるものなのか?
だとしたら、どれほど強大な力の持ち主であるというのか!?
『いやいや……それほど大したことじゃないさ。この程度のことはね』
引きつった笑みで戦慄する樰永へ、影の異形すべてから不愉快な笑声が浴びせられた。
先刻も聞いた声だが、それ以前に――
「貴様……淦狗国や扶桑での……!」
自然と声に焔のごとき怒気が宿る。
それもさもありなん。
先の扶桑での争乱をおそらく一から十まで仕組んだ張本人にして應州や朝廷――倭蜃国そのものを蝕む存在……!
何より今は十中八九親友の故郷をも蹂躙し、あまつさえ同士討ちをも嗾けたであろう憎むべき悪逆非道の怨敵。断じて赦してはならない相手だった。
『ふ~~ん? あれだけ悪し様に言ってたくせに律儀に覚えててくれたんだ』
自身の激情に反して、当人の声は弾みながら淡々とケロッとしている。とても現在のような修羅地獄を生み出した奸賊とは思えぬほどに。
だが、その内実は血も通わぬ悪鬼そのものだということは先の一件で嫌といほど思い知らされている。
部下を平然と使い捨てにし、幼気な姫君を傀儡として酷使して憑り殺す。
武士の風上にも置けぬ奸賊腹めがっ!
「そっちこそ都で散々なことをしてくれたくせにずいぶんな言い草じゃねぇか……! この上、親友の国でふざけたことをしでかしやがって……生半可な代償じゃすまさねぇぜ」
滾らせた怒りを冷やしながら闘志を研ぎ澄ませる。
一方、声の主はいかにも心外だと言わぬばかりにむしろ小馬鹿にしたような溜息をつく。
『おやおや、そりゃいくらか嫌がらせのひとつや二つはしたけどさあ~~。ほんの小気味いい挨拶代わりじゃないか。鷹叢の若様はずいぶんと器が小さいねぇ』
「抜かせ。あれだけのことをして挨拶代わりで済ませる気かよ。だとしたら、てめえの感性を大いに疑うんだが?」
樰永も樰永で戦意を宿した不敵な笑みをもって応酬する。
しかしその途端に空気を変えたのは、影の群れを操る声の主であった。
『挨拶代わりさ。少なくとも僕としては……ね』
声の調子は先刻と変わらぬ軽薄さ……だが、その声質は明らかに冷たく酷薄なまでに豹変していた。
それは有無を言わさずすべてを凍てつかせ死滅させる苛烈なる絶対凍土。
一切の異論を赦さず刃向かう者を容赦なく焼き尽くさんばかりの純然たる無慈悲な煉獄。
それらが吹雪のように肌を刺し燻っていた怒気さえも凍りつかせ萎縮させる。
『多少のやんちゃぐらいは僕も笑って大目に見て上げるけれど、さすがに骨を折った黄泉津大神を追い返したのはいただけない。アレにはいろいろとやってもらわなきゃいけないことが山ほどあったんだ』
声そのものは相も変わらず軽快に弾んで鷹揚な調子を刻んでいる。だが、話せば話すほどに声の芯が凍りつき静かな激情を昂らせていることが否でも理解できてしまう。
『おかげでこっちの計画は一から十まで練り直す羽目になった。大わらわもいいところだよ。まあ、端的に言っちゃうとね――』
それを象徴するかのように、影の群れもその姿を――影の体積を増殖させ無形の人型から巨大な鬼や獣に大蜘蛛へとより獰猛に変貌させていく。
その上包囲を狭め逃げ場所を完全に塞ぐ形でその影を伸ばしていく。
それもおぞましいまでの神気を膨れ上がらせながら……!
樰永は自分こそが虎の尾を踏んだことを悟った。
――来るっ!!
確信にも等しい直感により湾曲刀を八相に構える。一対多数と乱戦のための構えにして樰永の十八番とも言える必殺の構えだ。
『――――今回ばかりは僕も怒っている』
遂に鬼神と毒蜘蛛が刃を交える。




