元数学者、異世界を数字で書き換える 第62話
元数学者、異世界を数字で書き換える
【ルートA】第3章・帰還編
第62話「四十五を、押し上げる」
春分の朝、俺は誰よりも早く起きた。
いや、正確には、寝ていなかった。
昨夜、塔から降りてから、俺はずっと計算機の前にいた。
やっていたのは、失敗する四通りの潰し込みだ。
◇◇◇
前世で、俺は打ち上げの現場を映像で見たことがある。
ロケットの打ち上げは、点火の瞬間が本番だと思われがちだ。
だが、現場の人間はそう思っていない。
本番は、その前の「点検項目を一つずつ潰す」時間だ。
千個の項目を潰した人間だけが、点火ボタンを押す資格を持つ。
俺は、九十三個の項目を書き出していた。
一つずつ、消していく。
一、計算機の魔力供給は安定しているか。
→ 予備の魔石を三個、追加。済。
二、対象条件の質量範囲は適切か。
→ 俺の体重を、朝、再測定。七十三・〇。〇・二減っていた。範囲内。済。
三、ゼロの体重は。
→ 三・二。済。
四、演算途中の中断リスク。
→ 時間停止を発動して、その中で完了させる。
ここが、最大の勝負どころだった。
◇◇◇
「――時間停止の中で、やるのか」
レンが、明け方に起きてきて、俺の手元を覗いた。
「そうだ」
「一秒しか、止まらねえだろ」
「一秒あれば足りる」
俺は言った。
「演算加速を重ねれば、主観で二・五秒。世界指定に必要な処理時間が、二・二秒」
「……ぎりぎりだな」
「ぎりぎりだ」
俺はペンを走らせた。
「だから、削る」
「削る?」
「二・二秒を、一・八秒にする」
俺は、計算機を叩いた。
「処理の半分を、これに肩代わりさせる」
「前から、そうしてたんじゃねえのか」
「もっと削れる」
俺は、昨夜からずっと考えていたことを、口に出した。
「昨日の夜、塔の上で気づいた。俺は、無駄な計算をしている」
「無駄?」
「十二桁の住所を、俺は演算のたびに、頭の中で組み立て直していた」
俺は、ノートを見せた。
「だが、この数字は、もう変わらない。二年前から確定している」
「……」
「なら、組み立てる必要がない。書いておけばいい」
俺は、計算機の水晶板を指した。
「ここに、あらかじめ焼き付けておく。演算の時は、読むだけにする」
レンが、目を細めた。
「……それで、どのくらい速くなるんだ」
「〇・四秒」
「……たったそれか」
「たった、じゃない」
俺は言った。
「二・二秒が、一・八秒になる。主観二・五秒の枠に、〇・七秒の余裕ができる」
俺は、レンを見た。
「余裕があるということは、途中で何かあったとき、やり直せるということだ」
「……ああ」
レンが、頷いた。
「四十五が、押し上がるんだな」
「そうだ」
俺は、計算機に向き直った。
「五十五くらいにはなる」
◇◇◇
昼まで、俺はその作業に費やした。
十二桁の数字を、水晶板の分子構造そのものに焼き付ける。
演算展開・物体構築と、記憶領域の複合。
前世で言えば、読み出し専用の記憶素子だ。
焼き終わったとき、俺の鼻から血が垂れていた。
「……大丈夫か」
「大丈夫だ」
俺は、袖で拭った。
「これで、五十五だ」
「あと、何かあるか」
「ある」
俺は言った。
「一番でかいのが、残ってる」
◇◇◇
午後、俺は塔の下に、全員を集めた。
レン。フィン。輸送隊の五人。そして、エルド。
「――みんなに、頼みがある」
俺は言った。
「今夜、俺が塔の上で演算をする。その間、四十分ほど、俺は完全に無防備になる」
「守ればいいんだな」
レンが即答した。
「違う」
俺は、首を振った。
「守る必要はない。ここには敵がいない」
「じゃあ、何を頼むんだ」
「――数えてほしい」
全員が、俺を見た。
「……数える?」
「そうだ」
俺は、塔の頂上を指した。
「俺は、時間停止の中で演算を完了させる。だが、時間停止は、俺の体感でしか測れない」
俺は言った。
「止めている間、俺には外の時間が分からない。何秒経ったかを知る手段がない」
「……ああ」
「もし、俺の体感がずれていたら――一秒だと思っていたのが、実は一・三秒だったら、演算は途中で解ける」
俺は、卓の上の振り子時計を持ち上げた。
「だから、外から数えてほしい」
俺は、それをレンに渡した。
「三十秒に一秒。それが俺の時間停止の周期だ。三十秒ごとに、大声で数を叫んでくれ。俺は、止まった世界の中でも、直前の音の記憶から、外の秒数を推定できる」
「……推定できるのか、そんなもんで」
「できる」
俺は言った。
「一年半、俺とお前は、縞を四十一万本数えた。数を数える訓練としては、十分すぎる」
レンが、時計を握りしめた。
「……そういうことか」
「そうだ」
俺は、全員を見渡した。
「一人だと、数え間違える。だから、全員でやってくれ。八人分の平均なら、俺の推定はずっと正確になる」
フィンが、震える声で言った。
「……僕たちが、精度を上げるんですね」
「そうだ」
俺は言った。
「これで、六十五になる」
◇◇◇
夕方、俺は最後の項目を潰した。
九十三個目。
『失敗した場合、残された者はどうするか』
俺は、それを紙に書き、レンに渡した。
「……なんだ、これ」
「読め」
レンは、開いた。
『一、俺が倒れただけの場合。三日寝かせて、水を飲ませろ。起きたら、来年やり直す。
二、俺が消えた場合。成功か、別の世界かは、こちらからは区別できない。区別しようとするな。時間の無駄だ。
三、俺が分解された場合。装置は全部、フィンに渡せ。記録も。第四部は、レンが書け。
いずれの場合も、ゼロの飯は一日二回。朝は干し肉、夜は煮た芋。芋は必ず冷ましてからやること。熱いと食わない。』
レンは、最後の一行で、顔を歪めた。
「……なんで、そこだけ詳しいんだよ」
「一番、引き継ぎが必要だからだ」
「……ばか」
レンは、紙を折って、懐にしまった。
その手が、震えていた。
◇◇◇
日が沈んだ。
空に、三つの星が昇り始めた。
俺は、塔の階段に足をかけた。
「――ライ」
レンが、呼び止めた。
「なんだ」
「一つだけ、聞き忘れてた」
「なんだ」
「お前、向こうに帰って、何すんだ」
俺は、少し考えた。
一年半、その質問を、誰にもされていなかった。
「……たぶん、大学に戻る」
「戻るのか」
「戻る」
俺は言った。
「そして、四十年やって書けなかった教科書を、書く」
レンが、目を見開いた。
「……お前」
「レン。俺はこの二年で、初めて、分からない人間に説明する方法を覚えた」
俺は言った。
「向こうの学生にも、パンから始める」
レンは、しばらく口を開けていた。
それから、笑った。
泣きながら笑う、という器用なことを、この男はやった。
「――行け、師匠」
「ああ」
俺は、階段を登り始めた。
「クゥン」
三・二キロが、俺の後ろをついてきた。
(第63話へ続く)




