6 思い出と共に
美代子さんが帰った後の雨宮さんといえば、隠しきれない興奮を、僕に隠そうとして大失敗していた。雨は止み、風だけが音を立てて窓を晒していくだけだというのに、ベランダで移動した本体への供給も影響してか、彼女の全身からみなぎる元気は、僕を圧倒させた。
ご飯中も、歯磨きをしている時も、テレビを見ている時も。雨宮さんは気づけば口ずさみ、にこにこと口元をあげて、僕にきらきらの視線を向けていた。つまり、僕が何を言いたいかって言うと。
「可愛い人が機嫌よく僕の周りをうろつくっていうのは、かなりの破壊力なんだな……」
雨宮さんは自分で隠しきれていると思っているのだろう。そんなところがまた可愛い。僕はその日、彼女に翻弄され続け、ひたすらに悶える時間を過ごした。なんてことだ。
そんなこんなで、雨宮さんが機嫌よく、力も今までに見た事のないくらい回復させた次の日、僕は一人でせせらぎに向かうことになった。
「今ならお日様を見ていても、そんなに体力を消耗しない気がします!」
起床後、挨拶もそこそこにした宣言したのがこれだった。窓の外を見れば台風が過ぎ去った恒例として、ぎらぎらと輝く太陽が顔を惜しみなく出している。美代子さん達、無事に帰れたかな。そんな心配をよそに、雨宮さんは爆弾発言をしていた。
「え?いや、でも。雨宮さんは太陽の光、あんまり浴びないほうが……」
なんたって雨の神様である。二年前の最後の日、雨宮さんと太陽の下を歩いていたけれど、あの時の彼女の存在の希薄さと、消えていく儚さはトラウマものだった。今でもゾッとする。
「いいえ、大丈夫ですよ。毎日のお供物と、昨日の大雨で、今の私はこれまでにないくらい、力が漲っています。これも全て、赤瀬さんのおかげですね」
ふんわりと風が漂いそうな笑顔で言われたら僕はそうですかと頷かざるを得ない。
「だから今日はベランダで日向ぼっこというものをしてみます。いいですか?」
「まあ、いいですけど。……体調が悪くなったら、すぐにやめてくださいね?」
「勿論です。赤瀬さんの傍を離れたくありませんから」
今の一言で僕の心臓は破裂しそうだった。最近、雨宮さんはしばしばこういう発言をして僕を困らせる。しかも無自覚なのだ。これは試練なのだろうか。
それならば、雨宮さんの憧れの日向ぼっこを邪魔するわけにもいかないし、川上さんの結婚記念日の話をもう少し聞きに行こうと思った。美代子さん達の話も参考になるかもしれない。ついでに、陽にあたって体力を消耗するはずだから、雨宮さんのためにも和菓子を買ってこよう。
そうして僕は、せせらぎに向かい、徒歩数分の場所を照り付ける日差しに耐えながら歩ききった。草食系男子の真骨頂、ここに極まれり。
「おはようございまーす」
そろそろ暖簾をくぐるのも習慣と化した僕は、間延びした声を店内に響かせた。古ぼけたレジの横で新聞を読んでいた頑固親父の川上さんは、ちら、と視線を向けると、軽く会釈をしてくれる。随分親しくなったなあとしみじみしながら、僕はレジに向かう。
「何かいい案、思いつきましたか?」
「馬鹿野郎、そんな事聞くんじゃねえ。昨日送った通りだ」
「ですよね」
僕は苦笑して壁にかけられた時計を見つめた。午前十一時。そろそろお昼も近づいてきた頃だけど、ご飯は何にしようかな。そんなことをぼんやりと過らせつつ、口を開いた。
「昨日、僕の両親が来たんですよ。義理の、なんですけどね。それで、何か参考にならないかと結婚記念日の話を聞いてみたんですけど」
「ああ」
「お互いにプレゼントをしたそうです。養父は髪飾りを、養母はネクタイを。実用性を考えての事でしょうね」
何か参考になりますか、と問いかけると、川上さんは元々刻まれていた皺を更に深くして唸り始めた。勿論、川上さんだってプレゼントという案は考えただろう。記念日の定番中の定番、むしろそれをしなければどうにもならないと思う事すらあるものなのだ。
「別に、物を贈るってのは悪かねえ。ただな、俺は今までの感謝をまとめて今渡したいんだ。分かるか?」
「頑固者……」
「何か言ったか」
「いいえ。なんにも」
僕はぷい、と視線を逸らした。実は最近、こういうやり取りを楽しんですらいる。
「ようは今までの結婚生活すべての感謝を集大成させたものや行いがいいってことですよね」
「そうだ。考えろ」
「やるのは川上さんですよ……」
僕がため息をついて何も進歩しない状況に不安を感じていると、川上さんは手招きしてレジの奥、つまり座敷の方へと誘いこんできた。
「え、入っていいんですか?」
「しばらく客は来ねえよ。今はあいつが居ねえから中で話しても問題ねえ。俺はここから動かねえが、お前がそこで突っ立ったままだと鬱陶しいから座れ」
遠回しにもてなすからあがれという事でいいのだろうか。あいつとはもちろん川上さんの奥さんなわけだけど、そういえば最近、彼女の愛想のよい声が聞こえることはなかった。いっそ会ってみたら何か閃くかもしれないのに。
「奥さん、最近見かけませんよね。どうかしたんですか」
遠慮なく座敷に上がって、問うと、彼は渋い顔をしてレジの下に隠していた和菓子を僕に投げ寄こした。真っ白なそれは豆大福だ。ここの豆大福はもちもちしていて美味しい。大粒の小豆も食べごたえがあって好きだ。
「最近、体調があまり良くない。病院に検診に行ってる」
「え、そんな……!どんな病気か、聞いてるんですか」
「聞けるわけねえだろ」
僕はその一言にムッとして、食べかけの豆大福を半分割って、川上さんの口に入れてやった。彼は突然の事に口をむぐむぐと動かして、目を吊り上げる。おお怖い。だけど、本当に怖いのは何も知らずに病が進行していくことだ。
「川上さん、それはダメです。奥さんの体調が悪いなら、それをもっと気にかけるべきです。病気は、怖いんですよ。命を簡単に奪ってしまうから。軽いならいい、まだ大丈夫。そんなの、気休めですよ」
口からぼろぼろと溢れる言葉に、川上さんはぎょっとしたようで、豆大福を呑み込んで僕を凝視した。
だってそうだろう。大切な人が、知らない間に得体のしれない病に侵されて、気づけば余命いくばくもないなんて言われたら、どれだけのショックを受けるのか。幼い頃、何だかんだと大丈夫、まだ動けるから、と本人ではないくせに言い聞かせて楽観的に考えていた僕は、後々後悔しているのだから。春さんと、もっと話をしておけばよかった。もっと、兄弟として過ごしたかった。ねえ、それはもう、叶わないんです。だから、身近な人が病に襲われているかもしれないなら、放っておいちゃだめだ。真摯に向き合って、その人との距離を埋めなきゃいけない。支えてあげなくちゃいけない。
涙目で僕がダメですよ、と首を振り続けたのが功を奏したのか、川上さんは分かったよ、と一言、頷いた。気恥ずかしさの塊である彼が、奥さんの体調を聞くまでには相当の時間がかかるかもしれないけれど、僕も逐一状況を聞いて急かすことにしよう。彼には後悔してほしくない。
「でもな、俺たちにはちいとばかし距離が開きすぎてる気がするんだ。俺が聞いても、あいつは良い思いをするかどうか」
「そういうことを考えてたら一生聞けませんよ」
「まあな。……ただ、やっぱり、まだ他人って気がするんだよなあ」
「他人って。夫婦のくせに」
「そりゃそうだが。ただ、俺たちは見合いだったんだよ」
「……お見合い結婚?」
「ああ」
僕はもきゅもきゅと豆大福を完食し終えた。口内に広がる粉が水分を吸い取ってゆく。後でお水を貰おう。
「今じゃ考えられないが、この店だって昔は結構な有名店でな。俺の父親はそれはもう、偉大な人だった。随分繁盛してたもんよ」
「へえ……」
この店がそこそこ有名だったのは一応知っている。滅多にお客さんが来ないのに店を続けられるのはネットを介して商売をしているためで、以前検索してみたら老舗の和菓子屋として名前が挙がっていた。客があまり入らないのはきっと店主に愛想がないからだろう。そうに決まっている。
しかし、想像してみると、この店が繁盛していたころというのはとても楽しそうだった。
こぢんまりとした店内で、色とりどりの和菓子が可愛らしく並べられて、多くの客が顔を綻ばせて見ていく。その様子を、川上さんが仏頂面で、だけど嬉しそうに眺めていて。そんな中で、奥さんもその様子をこっそり見ていたんではないだろうか。僕の想像にすぎないけれど、それでも、そうであったらいいなと期待してしまう。
「お見合いだったとしても、奥さんは川上さんについてきたんですね」
僕だったら、こんな頑固で面白みもない人と一生を添い遂げるなんて考えられない。それこそ、川上さんは今では優しい人だと分かっているけれど、結婚はそれだけでは成立しない。恋愛結婚ではないのなら、なおさら不満は募るはずだ。
「まあな。この店のために結婚したってクチだ。俺たちに子供が出来ないし、いつまで経っても夫婦らしいことはしないから、あいつも、もちろん周りも、俺に愛想をつかしちまったのはしょうがねえ」
僕は頷きつつも、座敷の奥に台所があるのが見えて、ジェスチャーで水を取ってきますと合図すると、川上さんは頷いて、視線を逸らした。何処か遠くを見つめるその瞳は、今まで黙ってついてきてくれた、愛情のなかったはずの奥さんへの想いだろう。複雑な環境に、僕でさえ頭を抱える。
子供がいないということは、跡継ぎも居ないわけだ。となると、川上さんはせせらぎをどう維持していく気なんだろう。僕は肝心の疑問にたどり着くと、けれど、その話は聞かないことにした。何だか、今のせせらぎを見ていると、跡継ぎだなんだと言っていられない気がした。ここは、川上さんの人生と共に終わる。そんな想像が過った。
グラスに水を入れて、川上さんの分も、と水道に手を伸ばしかけた時、あまり見ないようにしていた台所の奥、リビングに飾られた写真と目が合った。映り込むのは、ぎこちなくはにかんだショートカットの可愛らしい女性と、仏頂面で佇む若かりし頃の川上さんだった。となると、隣の女性は奥さんだろうか。なんだ、声を聞いていた通り素敵な人だ。僕は結局好奇心に負けてこっそりリビングへと足を運んでしまった。川上さんごめんなさい。
そうして僕は、偶然にもあの頑固者で面倒で、毒舌であんこのような優しさを見せる川上さんを支える奥さんの片鱗を見ることになった。
写真をもっと見ようと、写真立てを手に取って不意に裏返した時、裏に何か挟まっていたのだ。僕は無意識のうちにその紙を取り出して開いてみる。薄ぼやけたその紙は、何年も仕舞われ続けて誰の眼にも止められないようにしてあるかのように思われた。
「材料、卵白、卵黄、砂糖、バター……って、これ」
およそ和菓子屋には似合わない可愛らしい文字列に僕は顔をしかめる。横に小さく描かれたイラストにはバラが咲き誇り、その横にショートケーキが踊っていた。僕はとても重大なものを見てしまったんじゃないかと悟って、大声を出した。
「川上さんッ!」
「ああ?何だよそんな大声出して」
遠くの方で川上さんが面倒そうに立ち上がる音がする。台所まで来た彼は、最初リビングに居る僕に顔をしかめたけれど、慌てて手に持った紙を見せると、ぎょっと目を見開いた。リビングに上がり込んでしまったのは後で謝ろうと思います。
「これ、ケーキのレシピか」
「写真立ての裏に挟んであったんです。……何か、覚えてます?」
「写真立て、か……。気づかなかった。……そういえば」
川上さんはメモを手に取ると、顔を覆った。気づくのが遅くて悔しい、というように舌打ちをすると、首を振った。川上さんの字にしては丸すぎるその文字列は、奥さんの物で間違いない。しかし、ここは和菓子屋だ。そしてせせらぎのために和菓子一辺倒の川上さんから、洋菓子の話なんて聞いたことない。バレンタインにプレゼントを貰った事もあると以前聞いたけれど、それは物であって、食べ物ではなかったはずだ。
「見合いをした頃、あいつはパティシエなんてもんを目指していると言っていた。ケーキが好きなんだと」
「えっ」
「だが、その頃はまだ洋菓子が流行り始めたばかりでな。その上うちは格式高い和菓子を作ることに重きを置いていたから、あいつの夢が叶えられるわけない。俺はその話を聞き流していた」
「じゃあ、川上さんはケーキも食べたことないんですか」
「小さい頃に一度あるが、俺は和菓子専門だ。食べようとも思わねえ。……それに、あいつは洋菓子なんてもの、結婚して一度も作らなかったどころか、名前も出さなかった」
きっと、自分の立場を弁えた聡い奥さんなのだろう。老舗の和菓子屋に嫁いで、しかも相手は相当な頑固者でプライドも高い。そんな中でケーキなんて作ろうものなら、彼がどんな顔をするか、想像するのは簡単だった。
「俺は散々あいつに我慢を強いてきた。……けど、自分の好きなものまで我慢させたんだな……」
ふつうのお菓子好きならいざ知らず、パティシエを目指していると話してしまうほどの人ならば、相当な熱を入れていたはずだ。それでも、結婚をすると同時に自分の夢どころか好きなものに一切触れないというのは、如何ほどのものだろう。僕なら耐えられないかもしれない。雨宮さんに会えなかったあの二年間、果てしない孤独が襲って来た時のように。
「ケーキか……。なあ、洋菓子ってものは簡単に作れるものなのか」
「え?いや、まあそれなりに作れるんじゃないでしょうか」
僕はともかく、最近では男子が簡単にケーキを作る場面なんてありふれている。それこそ、甘いものが好きなら誰でも構わずに作るだろう。僕は手先が器用ではないから、普通の料理しか出来ないけれど。
「決めた。あいつに、ケーキを作ってやる」
「そうですか、それはいいですね……って、えっ!」
川上さんがケーキだって?その二つは一生相容れない存在だと思っていただけに、僕は驚きを隠せなかった。なんてことだ。
目の前でむんっと気合を入れている川上さんには大変申し訳ないけれど、なんだか雲行きが怪しくなってきたなとため息をついた。だって、このケーキ作り、もちろん僕も手伝うんですよね。




