5 むずがゆい、気持ち
縁を切ったと思っていた義理の両親と、どういうわけかまた顔を合わせて、尚且つ、自分の部屋に招き入れているというのはなんだか不思議な感覚だった。
アパートの簡素な扉を開けて、二人に玄関先で待ってもらうと、僕は慌ててリビングへと飛び出して雨宮さんを探す。すると彼女は、部屋に入った瞬間全ての事情を察したのか、タオルを三枚差し出すなり、姿を消した。聡い彼女に感謝しつつ、僕は玄関先で立ち尽くす二人にタオルを渡す。
「どうぞ」
「……あ、ああ。ありがとう」
物珍しそうにきょろきょろとしていた雅彦さんはタオルを受け取るなりすぐさま全身を拭い始めた。美代子さんも恐る恐るといった様子で雅彦さんに倣う。濡れてしまった廊下を拭きつつ、僕は背を向けて何でもない事のように言い放つ。
「拭いたら遠慮なく上がってくださいね」
逃げるようにしてリビングに向かうと、僕は一旦暴風に侵されたベランダに出た。未だに吹き荒れる悪天候に、何処か安心しながらも、浮ついた心を落ち着けようと深呼吸する。
「あの方たちは?」
ベランダの片隅に置かれた祠の隣で、雨宮さんが首を傾げていて、僕は苦笑した。今更になって緊張している姿を彼女に悟られまいと、祠に手をかけた僕は、雨に当たりやすい場所に移動した。重い祠は、草食系男子の腕をいともたやすく悲鳴を上げることに成功した。
「雅彦さんと、美代子さんです」
そう言うと、雨宮さんは納得したように頷いた。
「赤瀬さんを育ててくれたご両親ですね」
「はい。春さんの両親でもあります」
「きっと、素敵なご両親なのでしょうね」
私はここで見ていますから、どうぞごゆっくり。そんな言葉を残すと、雨宮さんは再度消えた。そうして殴るような雨に当たりながら、僕は自分の家にあの二人が居るという嬉しいやら気恥ずかしいやら、微妙な気持ちを整理できずにいた。以前は一緒に暮らしていたはずなのに、数年の空白といざこざが僕をがんじがらめにしている。以前よりは美代子さん達の態度も軟化したとはいえ、春さんを通して会話をしていたと言っても過言ではない僕は、彼の居ない今、どう話せばいいのか。
やがて二人がリビングに向かってくるのが見えて、慌ててベランダから飛び出した。びしょ濡れの僕に二人は驚き、乾ききっていない服を気にもせずにその場に腰を下ろすと座りなさい、とどちらからともなく言葉を放った。
「え?」
「いいから、座りなさい。雅彦さんは冷房つけてあげて。二十八度ね」
神経質な美代子さんはリモコンから様々なものまで観察し終えると、地べたに座った僕にきつい眼光を浴びせた。冷たいフローリングにぽたぽたと水滴が落ちるのを横目に、ため息をつかれ、どうしていいか分からなくなる。
「あの?」
「いいから。じっとしていなさい」
そう言うなり、美代子さんはタオルを手に僕の頭をわしゃわしゃと拭き始めた。大雑把な動きだけど、しっかりと水分が消えていくのが分かって、僕はいたたまれなくなる。なんだろう、これ。僕は、どうしたらいいんだろう。
もちろん、大人しくされるがままでいい事は分かっている。けれど、初めての経験に戸惑う。こんなの、幼い頃だってしてもらったことがない。記憶にあるのは、春さんとびっしょり濡れて帰って来た時、慌てて美代子さんが僕を怒鳴り散らしたことだけだった。どうしてこんな濡れるまで春を遊ばせたの、いい加減にして。あの時の僕は、恐怖で身体がすくみ上ったものだ。
「風邪、ひいたらどうするのよ」
「すみません。……でも、美代子さんも雅彦さんも、大丈夫なんですか。服とか、替え、ないんですけど……」
「すぐ乾くさ」
「そうね。私たち、そんなにやわじゃないんだから」
美代子さんは言い切ると、はい終わり、なんてタオルを下ろした。そのまま立ち上がり、勝手知ったる顔で洗濯機まで行くと、タオルを投げ入れた。僕は自分の家だというのに、やっぱりどうしていいか分からなくて視線をさ迷わせた。本棚にコンポ、テレビ、雑多に並んだ見慣れた空間に僕の両親が居る。なんとも不思議な光景だった。
「お茶、出しますね」
逃げるようにキッチンに向かった僕だけど、どうしてか美代子さんまでついてくる。それに加えてお茶の淹れ方がなってない、と叱られてしまった。はい、スミマセン……と縮こまる僕を横目に、客人であるはずの美代子さんが見事に緑茶を淹れてしまった。なんてことだ。僕はどうしたらいいんだ。
結局三人分のお茶を淹れた美代子さんがテーブルに並べて、気まずい雰囲気の中三人がずず、とお茶だけをすする時間が数分流れた。落ち着かないのはお互い様のようで、雅彦さんはちらちらと視線をさ迷わせ、美代子さんに至っては湯呑と熱烈な視線を交わし合っている。頼むから何か喋ってくれ。
そうして僕は、話題作りとしてこの二人に今悩んでいることを持ちかけることにした。つまり川上さんの結婚記念日の事である。
「そう言えば、ですね。二人っていつも、結婚記念日は何かしていましたか?」
話題があまりにも唐突すぎたらしく、二人は目を白黒とさせていた。穴が開くほどに見つめられた僕は顔を俯かせて、話題選びを間違ったかもしれないと後悔した。そう言えば二人の結婚記念日、すなわち二月に何かしていたか、なんて記憶は僕になかった。この二人にもなかなか複雑な事情が絡み合っている。そんな中で記念日を快く過ごすなんて難しいかもしれない。
そんなことをうじうじと考えていたら、予想外に雅彦さんが口を開いた。
「あまりやった覚えはないが……、春が産まれたばかりの頃に、一度だけプレゼントを贈ったことがあったな」
「ああ、そういえばあったわね。お互い、何も言っていないのにその時だけプレゼントを用意していて、ありがとう、なんて言うものだから驚いたのよ」
「そうなんですか……?」
春さんが生まれたばかりというと、僕はまだこの世に居なくて、更に言えば両親も健在だった頃だ。
「今だから言えるけどね、春が産まれた時だからこそお互い感謝の気持ちが湧き上がってそんなことが出来たんでしょうね」
美代子さんが遠い目をして空になった湯呑を置いた。僕はそれだけで全てを察して、頷く。その頃、僕の両親が健在だった。つまり、美代子さんは僕の父に未練があった。それでも、自分の子供が産まれたのはよほど嬉しかったのだろう。美代子さんはこう見えて子供が好きだから、その時だけ、記念日に動いたのだ。雅彦さんも多くは語らないけれど、複雑な心境の中で春さんの存在は大きかったはずだ。
「何を贈ったんですか?」
「私はネクタイだったわ」
「俺は髪留めだったかな」
「なるほど」
弁護士の雅彦さんはスーツで居ることが多い。ネクタイは仕事に閊えるだろう。それに、美代子さんも髪が長いのは昔からだから、それこそ日常的に使えるはずだ。実用性を重視しているんだな、と僕は感心した。こんな事すら思いつかない僕も川上さんもどうかしているのかもしれない。
「しかしなぜ、結婚記念日の話を?」
「ああ、えっと。……僕がお世話になっているお店の人が、結婚記念日に何をするか悩んでいるんです。それで、何かないかなって」
「へえ。アンタも、誰かにお世話されるようになったんだねえ」
昔から僕が草食系男子の人見知りであることを知っている二人は、感慨深げに肯いていた。そう思われるのも仕方ない。
僕の話題が何とか気まずい雰囲気を払しょくしたのか、気づけば三人で思い出話に花が咲き、やがて大雨も雷も通り過ぎ去っていた。
「あら。そろそろ外に出ても大丈夫そうね」
「電車はまだ動いているか分かりませんよ?」
「ああ。だがそろそろお暇しないとな。明日も大学なんだろう」
雅彦さんたちはそう言うと立ち上がって、玄関先に向かった。美代子さんは靴を履いて何の言葉もなく、手を振ってすぐさま外に飛び出した。未だ靴を履く雅彦さんが苦笑して、なあ、と声をかける。このままだと美代子さんに置いて行かれるというのに、彼はのんびりしていた。
「はい?」
「実はな、今日ここに来たのは美代子が言い出したことなんだ。遠出の帰りにここに寄ろうなんてな。台風が来てる事、知っていたはずなのに、様子を見るだけって」
「まさか」
開いた口が塞がらない。たまたま、この町にやってきたんじゃなくて。僕を、気にして、だと?
「お前が心配だっんだ。元気そうで良かったよ。また、な」
雅彦さんもそう言うなり、慌てて飛び出していった。去り際に見えた彼の耳が少しだけ赤くなっていることに気付いて、僕はたまらなく嬉しくなる。以前より修復している関係に、口元がにやけてしまう。いつの間にか隣に寄り添っていた雨宮さんの手を握って、僕は俯く。
「きっと、春さんが助けてくれたんですね」
今はもういない彼の事を思いながら、僕は雨宮さんの言葉に頷くばかりだった。今度の結婚記念日は、僕から二人に何か贈ろう。そう決意して。




