4 台風が連れてきたもの
九月に入ると、そろそろ残暑に近づいて、ほんの少しだけ暑さも和らいでくるものだ。カレンダーをめくって窓を開けると、七月の倒れてしまいそうな猛暑はなりを潜めていて、過ごしやすい気候に安堵した。何より、雨宮さんは暑いのが苦手であるはずだから、いくら僕が夏にたいして好意的であろうと、暑すぎるのは困るのだ。
そんなこんなで、九月に入ったばかりのこの頃、雨宮さんの機嫌が非常にいい。いつもだって輝く笑顔を僕に向けて心臓を撃ち抜くものだけど、ここ一週間はそんなものではなかった。むしろ僕の心臓を粉々にして再起不能にしてしまうほどに笑顔が煌めいている。僕が日に日に雨宮さんに惚れすぎているのか、それとも本当に機嫌が良いのか、知る由もない。
朝食を二人で食べ終えて、午後の講義に供えてゆったりとそれぞれの時間を過ごしていると、テーブルの上に置いたままの携帯がぴこん、と音を立てた。僕は歯磨き中だったため、慌てて口をゆすぎ、着信の相手を確かめる。
するとそこには、川上、の文字が躍っていた。
「メールですか?」
隣でひょこっと顔を覗かせた雨宮さんは、僕の携帯を見て首を傾げた。頷いた僕は、最近あったことのあらましを彼女に説明する。
「川上さんからです。実は、奥さんから何か好きなものでもないか聞き出せないかと言ってみたんです。あの人、頑固だから難しそうだけど、頑張ってみるってこないだ約束させました」
欲しいものがないか、してほしいことはないか。何でもいい。奥さんに感謝の気持ちを送れるものを、川上さん自身で聞きだしてほしかったのだ。それこそ、結婚記念日を気にして計画していることを素直に話してしまってもいい。ようは気持ちなのだ。
さて、結果はどうだったかなと二人でメールを開き、文面に視線をよこした。そこには、こう書かれている。
――恥ずかしくて聞けたもんじゃねえよ。
僕たちは揃って肩をすくめ、大きなため息をついた。機械が苦手な職人の川上さんは、それでも短い文章に全てを込めて僕たちを呆れさせることに成功。なんて頑固者だ。本当に感謝の気持ちを送るつもりはあるのか。
前途多難、という言葉が脳裏をよぎって、僕は頭を抱え、携帯の電源を落とした。この計画のために連絡先を交換した川上さんは、大変残念な言葉しか送ってきません。
「またせせらぎに行かなきゃなあ……。どうにかしてヒントを探さないと」
「一筋縄ではいきませんね。私もお手伝い出来ることがあれば、言ってくださいね」
「勿論です。こんな時こそ、女性の意見は貴重ですよね!」
僕が深く頷いていると、雨宮さんも笑みを浮かべて、だけどすぐに窓に視線を移した。そして、悪戯っ子のように口角をあげる。
「でも、行くなら台風が過ぎてからにしてくださいね?」
その一言で、僕はハッとなって窓に映り込んだ青空を覗いた。そう言えば、今日の午後から明日の昼にかけて台風がやって来ると予報で言っていた。今はまだ、台風の欠片も見えない空模様だけど、数時間後には人々を襲う天気に移りかわるという。面倒くさがりな僕は傘を忘れないことを胸に刻んだ。忘れませんように。
「それじゃあ、台風が過ぎてから行くことにします」
「はい。それなら私も安心です」
上機嫌で今にも鼻歌を歌いだしてしまいそうな雨宮さんは、いつかのオルゴールを片手に、窓に寄り添って澄み渡る空を見渡していた。思いついたかのようにネジを回して、小さな天使が奏でる演奏に耳を傾けた。僕はその様子に何処か神秘的なものを感じて、見つめてしまう。こういう時、僕は彼女との差を感じる。彼女はまさしく神で、人ならざるものなのだと。
「もしかして、台風が楽しみだったりしてます?」
軽い調子で聞くと、雨宮さんは振り返って申し訳なさそうに眉を寄せた。それでもうきうきとした表情は隠せていない。
「すみません、不謹慎とは思っているんですけど……。あの、やっぱり雨がいっぱい降るかと思うと嬉しくて……。分かっちゃいました?」
「もちろん」
なんたって、雨宮さんをいつも見ていますからね、何て変態染みた言葉は心のうちに隠しておく。
「雨、楽しみですね」
「不謹慎なんて思いませんか?」
「まさか。だって、雨宮さんは雨の化身ですよ。全然、これっぽっちも」
変に律儀な雨宮さんの言葉に僕は癒されつつも苦笑した。それを言ったら台風を楽しみにベッドの中で眠る全国の学生だって不謹慎だ。僕も小さい頃はこの時期を楽しみにしていたものだ。そして暴風警報があと一分解除されなければ学校は休みとなったはずの時に解除されたという憎らしい思い出もある。懐かしいなあ。
「ふふ、それなら良かった。とっても、楽しみです」
僕も嬉しくなって頷くと、ベランダに祀ってある雨宮さんの本体に視線を移した。台風が来たら、雨が当たりやすい所に移動してあげよう。もちろん風に飛ばされないよう、しっかりと周りを支えなければ。連日の快晴に久々の雨なのだから、それはもう、これこそ天の恵みだ。
「早く台風が来るといいですね」
雨宮さんは嬉々として頷くと、またオルゴールの音色に耳を傾けた。僕もその音色を聴きながら、午後の講義の準備を始めることにした。ただただ、流れゆく時間に呑気に幸せを噛み締めていた。
なぜなら、その時はまさか、この台風が思いもよらない展開を引き連れてくるなんて、思いもしなかったのだ。
午後二時に差し掛かった頃、ついに台風は僕の町に訪れた。
頬杖をついてあくびをかましながら幸弘、友喜と並んでつまらない講義を受けていたら、窓の外は薄雲に覆われて眩しい光はすっかりなりを潜めていた。
僕はノートに書き込むのをやめると、荒れ始めた空を観察し続けた。びっしりと敷き詰められた雲から雨がぽつぽつと降り始め、やがて殴るように音を立てて地面を濡らしていく。木々がざわざわと揺れて、道端のサラリーマンのかつらがあっという間に飛ばされるのを横目に、傘も悲鳴を上げ始める。挙句の果てには雷神様まで到着して、思わずへそをぎゅっと隠した。今回の台風はいつにもまして酷そうだ。
やがて講義が終わり、すっかり夢の世界でバスケをしている友喜を叩き起こす頃には外に出るのにも一苦労なくらいの様子だった。僕たち三人は歩きで帰れるからいいけれど、遠い学生は電車も止まっているだろうし、大変そうだ。いっそ大学に泊まっていく人も居るかもしれない。
「この状況で帰るのはちょっと大変だな~」
「俺たち歩きなんだから、そう言うな。すぐに着くさ」
「幸弘はトトロみたいに葉っぱを傘にして帰るんだろ?」
「びしょ濡れになるじゃないか!」
「傘さしてもすぐに壊れるんだから一緒だよ」
二人の軽口に頷きつつ僕たちは教室を出て玄関に向かった。今日は植物研究会もナシ。他の講義も取っていないからこのまま速攻で帰れる。
家ではうきうきと雨宮さんが待っていてくれているはずだから、早く帰りたい。そして本体をなるべく雨の当たるところに置いてあげたい。僕は逸る気持ちを抑えつつ、幸弘と友喜に死ぬなよ、と不吉な言葉をかっこよく残して玄関をいの一番に飛び出した。真っ黒な傘を広げて、さあわが家へ。風と雨が殴るように僕の身体を滅茶苦茶にしていくけど家で待つ雨宮さんの事を考えたらそんなのはへっちゃらだった。たとえ十秒そこらで傘がへし折れてしまったとしても僕のメンタルは現在鉄壁の防御だ。むしろ傘を壊して身体を濡らせば雨宮さんが心配して身体を労わってくれるかもしれない。あわよくばタオルで頭を拭いてくれるかもしれない。
そんな妄想を繰り広げながらやがて大学を出ると、向かい側から二人の男女が吹きすさぶ悪天候に顔をしかめながら歩いてくるのが見えた。大変だなあ、気を付けて、なんて他人事で通り過ぎようとした僕は、その場でびっくり仰天することになる。
ぴしゃっと雷が遠くで音を鳴らして、一瞬の明暗が二人を照らす。壊れかけた傘の隙間から見えたのは、よく見知った顔だった。
「……雅彦さんに、美代子さんっ?」
襲いかかる台風の攻撃をかいくぐった僕の大声は、通りすがった二人を振り向かせた。紺色の傘を差した雅彦さんが真っ先に振り向いて僕を見るなり目を見開かせた。驚きたいのはこっちだ。どうしてこんなところへ、なんて言葉は美代子さんの言葉に遮られる。
「ぐ、偶然ね、時也。……いいお天気で」
「今、台風が美代子さんの傘を折ってるのにそんなこと言います?」
美代子さんの持つ鮮やかな赤色の傘は最後の抵抗むなしく折れた。あっという間に彼女の髪が濡れて、金に近い茶髪が幽鬼のようにべったりと張り付いている。あらら、大惨事。
「どうしてこんなところに?」
「え、ええ。別に、何も?」
どうして疑問形なんだ。雅彦さんは隣で苦笑し、濡れた額を拭った。それでも容赦ない横殴りの雨がたちまち濡らしてしまう。
「いや、たまたま近くに来たんだが、電車が止まってしまってね。帰れなくなったから、どうしたものかと」
ははあ、なるほど。僕は肩をすくめると、当然のように二人を手招きして誘った。以前までの確執が消えたわけではないけれど、それでも僕はこの二人が好きだから。というか、このままでは三人揃って風邪をひいてしまう。雨宮さんには申し訳ないけど、協力してもらおう。
「もしよかったら、ですけど。僕の家、来ますか?」
もちろん二人は頷いて、美代子さんなんかは不承不承、という顔をしつつも真っ先に歩き出していた。初めて二人に見せる僕の部屋は、さて、散らかっていないはず、と妙に自信満々にして、帰路を辿った。




