第二章:二日目 02
生きるために、レセナが必要だった。十年前、自分の両親と、彼女の両親を”殺した”あの日から、ずっと。何かに縋らなければならなかった。六歳の少女を守らねばならなかった。あらゆる困難から。あらゆる悪意から。十一歳の子どもの自分がなさねばならなかった。
怒涛の毎日だった。施術が使えないこの身は、たとえ剣術の才があれど差別の対象だ。罵られる日々、悪態を投げつけられる日々。レセナを守るために心を閉ざした。仮面を被った。レセナもまた、内向的になった。互いに依存関係になった。それしか生き抜く方法が見つからなかった。
家系の伝手で、王立騎士団に入った。選択肢はなかった。肉体を苛め抜く訓練の日々。その時間だけが罪悪から抜け出せる至福の時だった。レセナを守る。それだけを胸に秘めた。
やがて、レセナが福音伝達者であることを知った。しかし彼女はそれを拒み、王立研究所へ入った。ほっとした。まだ自分には役目があるのだと思えた。兄代わりとして、彼女が完全に巣立つまで、拠り所になることを許された気がした。
しかし、酷死天使事件ですべてがひるがえった。レセナは自立した。ひとりで立てるのだと、ひとりで歩いて行けるのだと証明した。
絶望した。
生きる希望が巣立った。劇場での観劇が、きっと最後なのだと感じた。もう自分はいらない。だから最後に、家族らしいことをしたかった。
それすら、果たせなかった。
思考が虚ろで、考えることを放棄していた。
冷静さでは対処できない。
この身はもはや虚無に堕ちた。
衝動に身を委ねる以外に方法はない。
思考では、この悪夢からは抜け出せない。
アイリーンの静止を振り切ってアパートメントに戻る。自室の郵便受けを開ける。再びカード。乱暴に取り出す。
――本日の二十二時。
虚無が精神に黒い火をつける。
唯一の希望。明らかな罠。壊してみせる。この身はただの暴力装置。小賢しい犯人など、殺してしまえばいい。
一枚目の住所を思い出す。
判断する。最後の保険が必要だった。
すぐに直行。現場は憲兵隊で溢れている。野次馬の束。その中に、異様に直立する男が一人。
査問法院の特別監査官であるトゥクロー。長髪を撫で付け、銀縁眼鏡で目元を隠した不気味な男。ヴォルトを見てあからさまに眉をひそめる。
「何用で?」
簡潔な問い。ほんの一時すら惜しい様。ヴォルトも同じだ。
カードを投げる。トゥクローが受け取る。眺めて怪訝を向けた。
「これはなんです?」
「今朝郵便受けで見つけた」
二枚目を飛ばす。トゥクローが指で取る。
「なんのおつもりで?」
「さっき見つけた。今夜の場所だ」
監査官が黙考。手で招く。
「来なさい」
トゥクローが足早に進む。ヴォルトも後を追う。人影が消える。路地裏の影で監査官が止まった。
「差出人に心当たりは?」
「ない」
「どこまで知りました? お友達から耳にしたのでしょう?」
クレスのことを言っているのだろう。腹の探り合いは無駄。すぐに答える。
「神天院の高官が殺されたと聞いている」
「新聞はもう目に?」
「劇場の事件が掲載されていない。お前らの仕業か?」
いえ、とトゥクローが指先で眼鏡のフレームを押し上げる。
「我々は関与していません。聞きなさい。昨日の事件から、”上”が動いています」
査問法院の監査官ですら手が出せない、あるいは、彼らの頭上でうごめくなにか。すなわち――政府上層部。
「なにが起きてる?」
「憲兵に圧力がかかりました。おそらく、今日明日にでも憲兵は身を引きます」
ヴォルトは目を剥く。
「どこから圧力がかかった?」
くくっ、とトゥクローが笑う。普段の余裕染みたものではない、自嘲の籠った声。
「それがさっぱり。この手の強引な手段は我々の専売特許のはずなんですがねえ」
「神天院が内部抗争でもしてるのか?」
「いまはなんとも。ただ、あそこは長らく政教分離派と政教合一派で権力闘争を繰り広げています。その煽りということもあるでしょうが……」
「その住所で推察はできるだろ。やってくれ」
「査問法院の監査官を顎で使わないでほしいですねえ。ですが、いいでしょう。これは預かります。あなたはどうします?」
「時間になったら行く」
「こちらも人員は用意します。では、夜に」
トゥクローが現場に戻る。ヴォルトも歩き出す。公衆電話を見つけて職場に掛ける。上官に代わってもらう。妹の状況を伝え、傍にいたいと言って休暇を伸ばす。
即決で許可が下りる。上官はヴォルトの身の上を知っている。それとも、普段の素行のおかげか。
電話を切って家に戻る。アパートの前に、アイリーンが佇んでいた。
ヴォルトの姿を見て、やわらかく微笑む。珍しいアイリーンの暖かな表情。
「待っていてよかった」答える間もなく、アイリーンが言葉を続ける。「状況を整理しましょう。まずは中に入れて」
一瞬戸惑うが、さあ、と背中を押され一緒に部屋に入る。寝室のベッドにアイリーンが座る。ヴォルトも椅子に腰を下ろした。
「さあ、集めた情報を教えて」
アイリーンの言葉に疑問。彼女が再び微笑む。
「どうせ現場に行ってきたんでしょ? なにも情報はなかった?」
追いつかれていた。アイリーンに。行動の行方を。
「あなたの考えなんて透けて見えるわよ」
幼馴染の言葉が胸にしみた。
「トゥクローと会ってきた。憲兵は、圧力が掛かったらしい」
「手が回った? もう? まだ劇場の事件の翌日なのに。それで?」
「憲兵の件も、報道の件も、査問法院は関与していない。やつは”上”が動いていると言っていた」
「曖昧な言葉を使うわね。つまり、トゥクローにも監視がついている?」
発想になかった。
「分からない。圧力の元が分からないらしい」
「査問法院の管轄外。そうなると、国家保安院ではないわね。国務院が動いたなら、憲兵が止まるのは分かるけれど、理由がない。それで?」
「神天院は政教分離派と合一派で争っているらしい」
「昔からの話ね。それは私も知っている。それで?」
言葉が止まる。この先は危険だ。持てる情報は、今夜張られているであろう罠だけだ。
「それで?」
アイリーンは問い続ける。言わなければ、実力行使も辞さないという表情で。
観念する。アイリーンは振り切れない。
「今夜二十二時だ」
「またカードが来たのね?」
「そうだ。トゥクローと現場に出向く」
アイリーンが笑う。かつてのガキ大将を彷彿とさせる、愉しそうな笑み。
「対施術士の専門家たちと私たち王立騎士団二名。これで止められない相手はいないわ」
流れに乗るしかない。運命がカードを混ぜ、勝負すべき時がきた。




