第一章:人の背には糸がある 02
レセナが一人暮らしをしている集合住宅の自室に戻ると、沈黙を返すはずだった部屋の中からベルが無機質に響いた。電話だった。荷物を置くのもそこそこに慌てて受話器を上げる。
「はい、グランジャです」
「俺だ。元気かレナ」
聞き慣れた声がした。レセナの兄代わりのヴォルト・ハーデルであった。胸の奥がぽっと温かくなるのを感じた。
「うん。なんとかやってるよ。ヴォルトこそ、ちゃんとご飯食べてる?」
「レナに心配されるほど落ちぶれちゃいないさ。それより今日は退職の日だろ? 折角だ、出てこないか? たまには兄らしいことしてやるよ」
「なあに? 奢ってくれるんだ? だったらセーテムのケーキが食べたいな」
悪戯を思いついた子どものように、レセナは楽しそうに受話器に言う。
十年前、両親を失ったレセナとヴォルトは、互いを唯一の肉親とし、協力しながら社会の波間を漂い生きてきた。だからレセナにとって、ヴォルトと会話をするこの時間は何よりも大切だった。
「相変わらずレナは甘いもの好きだな」
「ヴォルトは相変わらずお酒が飲めないんだよね」
「酒の何が美味いのか俺には分からんよ」
レセナは無邪気に笑う。ヴォルトは極端に酒に弱いのだ。昨年、成人の日を迎えたヴォルトが始めて酒を口にしたときのことを思い出す。たった一口で猿のお尻のように顔を真っ赤にし、酔い潰れたのだ。
「いいから出てこいよ。この時間ならまだ店開いてるだろ。そこで落ち合おう」
「うん、分かった。すぐに行くよ」
受話器を置いて、レセナは身支度を始める。最後にヴォルトと会ったのは三ヶ月前だ。だから、少しは成長した姿を見せて驚かせてやりたかった。
化粧台の前に座りながら、未だ慣れない化粧を顔面に施していく。私服に袖を通した頃には、時計の分針が半周はしていた。レセナは慌てて自室を出て店へ向かう。
夜の帳が下りたカルヴァリアの街は、昼間とは一転して大人の空気が宿る。潔白な白が目立つ昼とは異なり、夜になると街灯の燈色が白を照らすから、大人の雰囲気が滲み出すのだ。
カルヴァリアは行政機関が集約される首都だ。遠方から単身でこの街に住まう者も少なくない。こうした単身者を顧客層とした店が必然的に軒を連ねるから、レセナのようにまだ成人していない女性には、この街は少し住み辛い。
「そろそろ引っ越そうかな。聖堂学院の方なら学生向けの店も多いし」
早くも酒に酔った男性の群れにすれ違ったレセナが、ぽつりと漏らす。道をしばらく歩き、レセナは聖堂学院の区画へ近づいていく。道を歩く層が大人の人間から家族連れに変わる。
春になると満開の花を咲かせる並木道に辿り着くと、セーテムの看板が目に付いた。ガラス張りの店の前には、長身の青年の姿があった。青年がレセナの姿に気がついたか、軽く手を上げた。
「よう、遅かったな……って、どうしたその顔。新しい芸術か?」
一見すると軽薄そうな顔をしたヴォルトの表情が、珍妙な絵画作品でも見たかのような驚きを貼り付けた。努力を笑われたようでレセナは面白くない。
「化粧って言ってくれないかな?」
「化粧? お前が?」
ヴォルトの目が丸くなる。
「施術にしか興味のない、身なりに一切気を使わなかったお前が化粧?」
「なに? 悪い?」
あんまりな反応だ、とレセナは憤慨する。三ヶ月ぶりの再会だからと着飾った努力を一蹴されたのだ。
レセナの怒気にようやく気づいたか、ヴォルトが乾いた笑い声をあげて一歩下がる。
「いや、全然。まあなんだ、妹がいきなり綺麗になって現れれば、一般的な兄貴は俺みたいな反応するだろう、普通」
えっ、とレセナは俯きかけた顔を上げる。ヴォルトは頭をかいてそっぽを向いていた。
「わたし、綺麗?」
「元はいいからな。いいから中入るぞ。ここももうじき店じまいする時間になる」
ぽんっ、とレセナの頭に手を置いたヴォルトが店の中に入っていく。あっけに取られたレセナは一瞬だけ放心し、すぐにヴォルトの後を追う。
扉に設えられた鐘の音を鳴らしながら店に入った瞬間、蕩けそうなほどに甘い独特の空気がレセナを包み込んだ。ショーケースに置かれた多種多様な宝石のように輝くケーキが、レセナの視線を釘付けにした。条件反射で垂れそうになった口元の涎を拭う。
店の奥から、満月のようにまん丸と太った人の良さそうな店長が出てきた。
「おやおや、レナレナにボルボルじゃありませんカ。いらっしゃ~い」
白い職人服姿のクイナ店長が、ぽわぽわとした雲のような声でふたりに声を掛けた。
「クイナ店長。俺のことをボルボルって呼ぶのは勘弁してくれないか?」
「ごめんねえ。ワタシ、人の名前は二文字までしか覚えられないんだア」
「驚異的な記憶力の無さだなあんた」
ヴォルトががっくりと肩を下げる。レセナは後ろでくすくすと笑みを漏らした。
クイナは総合菓子店セーテムの職人だ。政府高官すら虜にする菓子を作る有名な職人ではあるが、菓子作り以外の頭の作りはやや残念なのだ。
「クイナ店長、まだお店大丈夫? ここで食べていきたいんだけど」
「もちろんだよオ。すぐに用意するから好きなところに座ってるんだなア。注文待ってるよオ」
クイナがにこにこと笑いながら店の奥へと戻っていく。店内にいた給仕がレセナとヴォルトを最奥部の席へと案内する。手渡されたメニューを開いて、レセナは吐息。
「うんうん、ここ久しぶり。やっぱり研究所に勤めてるとなかなか外に出れないから、たまにはこういうのもいいよね」
「喜んでくれてこれ幸い。ま、好きなのを選んでくれ」
嬉々としてレセナはメニューに目を走らせ、チョコレートケーキと紅茶を頼む。ヴォルトはその間、満足そうに微笑みながらレセナを見つめていた。
「それで、これからどうするんだ? 何か宛てはあるのか?」
「いきなり痛いところ突いてくるね」
「そりゃ出来の良い妹でも心配するさ」
ヴォルトが続ける。
「聖堂学園を主席卒業、王立研究所で優秀すぎるほどに新規施術を開発し続けてきた。ここまで来るとさすがに頭が下がるけど、退職するとは考えてなかった」
レセナが曖昧に笑う。他者の視点から客観的に経歴を言われると、自分が自分ではないような錯覚を覚えた。
「色々なことを犠牲にしてきたからね。それくらいの結果は出さないと自分に納得できなかったんだよ」
「民間なら引く手数多だろうが……」
「民間への転職は一生無理だろうね。政府がそれを許さない」
ヴォルトが長い息を吐く。
「しばらくはゆっくりしろ。やりたいこともいずれ見つかるさ。金、大丈夫か?」
「仮にも王立研究所だよ? ヴォルトよりは貰っていたつもり。ちょっとの間なら遊んで暮らせるよ」
「可愛げのない妹だ」
注文の品がテーブルに届く。黒い光沢を放つチョコレートケーキに早速フォークを刺し込み、一口。えも言われぬ絶妙な甘みと苦味が口いっぱいに広がり、最高級の美味さに頭を痺れさせる。
すぐにケーキを平らげてレセナは、給仕を呼んで別のケーキを注文する。何度かそれを繰り返し、胃袋が満足したところでレセナはようやくフォークを皿に置いた。その様を見続けたヴォルトが呆れ顔で一言。
「太るぞ」
「頭使うからいーの」
口元を拭いつつレセナが続ける。
「それより、ヴォルトはどうなの? いつ辞めるの?」
「辞める前提で話されても困るな。辞めるつもりなんてないぞ?」
「王立騎士団なんてところにどうして入ったの。死んじゃったら元も子もないでしょ」
ヴォルトは王立騎士団に所属している、アレラル王国の騎士だ。真っ先に前線に赴く彼らは、いつだって死と隣り合わせの危険な職業だ。
「別にいま戦争が起こってる訳じゃないだろ。この前行った国境警備だって、そこまで物騒じゃなかったぞ?」
「いつ起こるのが分からないのが戦争でしょ。国境なんて最前線じゃない」
レセナが心配そうに言う。
「何かひとつでも間違えれば戦火に巻き込まれる場所でしょ。この三ヶ月間、はっきり言って生きた心地がしなかったよ」
「派遣場所を伝えたのは失敗だったな」
「言わなくても分かっちゃうから無駄」
ヴォルトが苦笑する。
「昔からそうだったな。レナは勘がいいからな」
でも、とヴォルトが声を細める。
「外で言うな。余計に目をつけられる」
兄との愉しい時間が壊れるようだった。ふたりを繋ぐ家族の絆が、関節を外したようにぼろぼろと落ちていく。それはレセナだけが感じているただの幻覚だとは分かっていても、ヴォルトとの間に見えない壁がそびえ立っているようで気分が悪い。
「その話はやめよう。ヴォルトの口から聞きたくない」
「そうだな、三ヶ月ぶりなんだ。楽しい話をしよう」
それから、レセナは兄と害のない世間会話をした。無意味な会話は、それでも三ヶ月の空白を埋めるには十分だった。
だが、レセナはヴォルトと自分の間にある決定的な違いを痛感せずにはいられない。彼は自らの意思で現在の立場となり、できることをやり続けている。対してレセナはその実、場当たり的に行動しているだけだ。彼とは異なり、"己の立場を拒否し続けている"のだ。
レセナが王立研究所に就職した最大の理由はヴォルトだ。十年前、両親を喪ったあの日から、レセナは理由をヴォルトに預けたままだから、自らの意思で立つという、人として当たり前のことが出来ていない。
彼と会話をしていると、自分の底の浅さを思い知らされるようで、楽しさの中に空虚さが滲み出てしまう。それが、レセナには辛かった。




