第一章:人の背には糸がある 01
王立研究所の門扉を潜り抜けたとき、レセナ・グランジャは振り返らなかった。
これで良い。自分で決めた道だ。
けれど足取りは重い。まるで演ずべき台本を失った役者のように、次に何をすべきかわからない。
研究に身をやつしたのは、何も研究が好きだったからではない。ここでなくば達成できない目標があったからだ。それを終えた今、自ら敷いた道が途切れてしまった。
レセナの唇が震える。先を繋ぐ言葉を声にすることができない。きっと誰にも理解されることのない言葉は、投げても虚空に伸ばされた手のひらと同じく何も掴めないから。
先を紡ぐことなく口を閉じ、レセナはひとり歩き出す。
街のあちこちから漂う夕食の匂いが夜の到来を告げる。空が朱色から藍色に覆われ始めるに従い、等間隔に置かれた街灯に明かりが灯る。街路には、仕事帰りの住人たちが溢れていた。
軒を連ねた食事処は窓を見やることなくどこも満員である。東方料理屋満腹堂も長蛇の列が伸び、看板娘のチョウが忙しなく動き回っていた。邪魔することもできずレセナは店を通り過ぎ、普段なら曲がる道を真っ直ぐ進んでゆく。
たどり着いた先は、四方を高い壁に囲まれた異質な場所であった。黄金で彩られた豪奢な門の先には、聖堂が建てられている。
福音伝達者が暮らす住居だ。神の言葉を人々に伝える特別な存在は、この監獄の中で生涯を過ごし、聖都カルヴァリアから出ることを許されない。
この牢獄の中で過ごすなど、レセナには考えられなかった。
しばし聖堂を眺めたあと、レセナは踵を返す。
ふと、レセナの視線が老婆の姿を捉えた。仕立ての良い法衣を着た老婆は、レセナを見やると皺を濃くして柔らかく微笑んだ。レセナも薄い笑みを返すと、左足を下げ、ちょこんと膝を曲げる。
「久しぶりですね、レセナ。元気でしたか?」
「ええ。ミネルヴァ様もお変わりないようで。システィーナ様へご面会に?」
「ええ、ええ。この歳になると孫の顔を見ることくらいしかやることがなくてね」
老婆は目を細めて微笑む。優しい表情でも、瞳の奥には太陽の輝きがあった。ミネルヴァを当主とするレンディッド家は、現福音伝達者を輩出してから有力な貴族家系に駆け上がった一族だった。
ミネルヴァは、見た目通りの人の良い老婆ではない。行動力の伴った野心家である。
「そのようなこと仰らず、お会いになってはいかがでしょうか? きっと、システィーナ猊下もお喜びになられますよ」
事前申請のない福音伝達者との面会は親族であっても謝絶されている。だからこれはただの社交辞令であった。
「そうねえ。でも、隣にロザリロンドのしかめっ面が並んでいると思うと気が引けちゃうわ」
ミネルヴァが苦笑しつつ言う。ロザリロンドの名前にレセナは僅かに眉を顰めた。
「あらあら、少し無駄話が過ぎたわね。お時間を取らせてごめんなさいね」
皺を深くして笑ったミネルヴァが、緩慢な動作で歩き出す。レセナとすれ違うと立ち止まり、ミネルヴァが囁くようにして言う。
「福音伝達者の噂、あなたは知ってる?」
「噂……ですか?」
「福音伝達者は長生きしない」
ミネルヴァの声が急に沈んだ。
「システィーナはもう二十一。私の三分の一も生きていないのに」
老婆の言葉が途切れる。
「一体、あの子はあと何年生きることができるのでしょうね」
レセナの顔から血の気が失せた。
「長生きできるといいわね。システィーナも、あなたも」
ミネルヴァの老いた声に、運命への嘆きが滲んでいた。
「あなたには関係のない話だったわね。歳を取ると無駄な心配をしてしまうものだから」
あまり楽しくない話をしてごめんなさい。そう締めくくって、ミネルヴァは去っていった。
レセナはしばらく放心したように動けなかった。いつか来ることであると理解していたから、泥沼の思考に引きずられまいと頭の中から閉め出していたのである。
不意に、先日観た舞台の台詞が蘇る。
「人の背には糸がある。糸の終端は神の指先に結ばれている」
ツァンパッハ叙事詩の一節だった。世の無常を皮肉った言葉が、なぜか今夜は胸に重く響く。
世界は劇場で、演出家は神なのか。演者は定められた道を辿り、最後の時を迎えさせられるのか。あるいは――
レセナの独り言は、一人暮らしを始めてからの悪癖であった。
時の鐘が鳴った。街の中心部にそびえる時計台の鐘の音である。街が眠りに入る時間であった。




