第五章:暗雲を裂く 06
転移の青い世界が消え去ると、そこは神天院法院長執務室だった。壁には歴代法院長の肖像画が並び、暖炉の炎が室内を温かく照らしている。
部屋の奥に、三つの人影が待っていた。
一人は普段柔和な笑みを絶やさない青年シャルルだった。片眼鏡の奥の瞳に、安堵が浮かんでいる。
そして、もう一人。
「よく戻られました」
フィアラル法院長の落ち着いた声が執務室に響く。白髪の老政治家の姿を見た瞬間、レセナは神天院が持つ危機感を理解した。法院長自らが明け方でありながら待機しているのだ。
威厳に満ちた初老の女性が、安堵の表情を浮かべながら三人を迎える。
三人目は、神天院の修道服姿の青年だった。歳の割に幼い顔立ちをしており、小柄な体格も相まって少年のような印象を与える。
「パスカルです」
青年が軽く会釈する。情報部の制服を身に着けているが、その童顔と小さな体格のせいで、まるで子どもが大人の服を着ているかのようだ。
「お前のおかげで助かった。転移陣の設置、礼を言う」
ロザリロンドが頭を下げる。ローザンヌにとって、情報部の評価は高いのだろう。
「とんでもありません。当然の職務です」パスカルが頬を染めて笑みを浮かべる。「それに、シャルル様のご指導があってこそです」
「会長、よくぞご無事で」
シャルルが深々と頭を下げる。パスカルの尊敬の視線を受けながらも、穏やかな微笑みは変わらない。
レセナは周囲を見渡す。ここに来るのは一体何年振りか。だが、感傷に浸る暇はない。
「フィアラル様」
レセナが一歩前に出る。
「特位として報告があります。緊急事態です」
フィアラルの目が少し開き、すぐに表情が引き締まる。
「聞きましょう」
レセナが深呼吸する。
「わたしたちの転移に便乗して、四人の敵がカルヴァリアに入り込みました」
室内の空気が凍りついた。パスカルの顔から血の気が引き、シャルルが瞠目した。
フィアラルだけが冷静さを保っていた。ストラストで行った事前の報告から、この最悪を思考していたのだろう。
「あなたの口から詳細を話してください」
「ゾルデ・クーパーと、ツウェルベル連邦の組織の人間です。彼らの目的は――」
レセナの声が震える。それでも、はっきりと告げた。
「査問法院、学術院、王国議会議事堂、そしてアウラ大聖堂への同時攻撃。福音伝達者の暗殺も含めた、国家中枢への総攻撃です」
「そんな――」
パスカルが椅子にもたれかかった。その童顔に、純粋な恐怖が浮かんでいる。彼にはシャルルから連絡がいっている。それでも、特位福音伝達者からの言葉は重い。福音伝達者の言葉は、ここアレラル王国では”絶対的な事実”だ。
「わたしが感覚で確認したことです」
レセナがパスカルを見つめる。そのとき、微かな違和感を覚えた。なぜかは分からない。
フィアラルが顔の前で指を組んだ。
「すぐに緊急体制を敷きます。ロザリロンド、すべてのローザンヌを召喚してください」
「承知いたしました」
ロザリロンドが応える。
「シャルル、各部署への緊急連絡を」
「はい」
シャルルが厳粛な声を返す。
「パスカル、現地情報を詳細に報告してください」
フィアラルの指示が飛ぶ。
「法院長、わたしも動きます」
レセナの宣言に、全員の視線が集まった。
フィアラルが即座に首を振る。
「なりません。敵の最終目的が判明した以上、レセナ、あなたには安全な場所にいていただく必要があります」
法院長の声には、議論を許さない重さがあった。
「福音伝達者を危険に晒すわけにはいきません。これは神天院の判断です」
咄嗟に、レセナは己の胸を鷲掴みにした。身体の芯が熱を持っていた。強烈な憤怒だ。
フィアラルは勝手に特位の任を命じ、現場に放り込み、必要な情報が揃ったら、今度は安全な檻を用意するからそこで震えて待てと言っている。そこにレセナの意思は介在しない。まさに便利な駒。
理性の糸が切れそうだった。
「わたしの意志は関係ないと?」
「物事には優先順位があります」
フィアラルの表情は政治家のそれだ。
「あなたの身になにかがあれば、それだけで国家の損失です。それに――」
「法院長」炎の声が割り込む。「レセナに協力を仰いでもよいのでは?」
フィアラルが眉をひそめる。
「ロザリロンド、あなたは一体何を言っているのです?」
「この数日、レセナ・グランジャと行動を共にしました。彼女は変わりました」
ロザリロンドの視線がレセナへ移る。
「もはや守られるべき子どもではありません。自らの意志で立ち、戦う意思を宿し、類まれなる施術技術を保有する、我らがかしずくに足る福音伝達者です」
フィアラルの瞳がロザリロンドを射抜く。だが、炎の修道女は引かない。
「法院長。我々ローザンヌが何のために存在するか、ご存知のはずです」
ロザリロンドの声が一段と低くなる。
「我々の存在意義は、福音伝達者システィーナ猊下をお守りする。それが唯一であり、絶対です。そして、そのために最も適切な布陣を敷く必要があります。彼女がいれば、猊下の安全はより確実になります」
そして、と彼女が続ける。
「神天院がレセナの任を解けば、ローザンヌは彼女と対等の協力関係を築ける」
ロザリロンドの言葉は、政府として考えるなら異質だ。特位の存在を知り、守護すべきレセナを、それでもその意思を尊重し、あえて危険な戦場へ飛び込まんとする様を厭わない。そして、”対等”に協力できると言った。
だから、どれだけロザリロンドがレセナを認めたかが理解できる。
「わたしは、この事件に関わります。誰に言われるわけでなく、わたしの意思で」
フィアラルとレセナの視線がぶつかった。政治家の計算と、少女の意志が対峙する。
長い沈黙の後、フィアラルが息を吐いた。
「率直に申し上げます。戦力が足りません」
法院長の表情に、政治家特有の冷徹な計算が浮かんだ。
「酷死天使を持つ敵は四人。ローザンヌ修道騎士会全七名では、護衛と迎撃の両立は困難です」
シャルルが資料を広げる。
「現在の想定配置では、猊下の護衛に最低三名、残り四名で敵四人を相手取ることになります」
それが限界。レセナもそういう配置になるであろうことは分かっていた。
ローザンヌの致命的な弱点。正気の埒外にあるほどの徹底した実力主義。だからこその七名という少数精鋭。
ローザンヌが迎撃に入ることが、本来の組織目的から完全に逸脱している。
でも、神天院はそうせざるを得ない。この土壇場ですらすべてを疑っているからこそ、他組織との連携が取れない。
ならば、いまが自分を売り込む最高の好機。
「わたしに考えがあります」
レセナが口を開く。全員の注意が彼女に向いた。
「ヴォルトと二人で、ゾルデ・クーパーを捕らえます。彼は利用されているだけ。真実を知れば、背後関係への重要な証人になる」
レセナの声に確信があった。
「それに、敵の戦力を一人でも削れば、ローザンヌの負担が軽くなります」
ロザリロンドが頷く。
「確かに、戦術的には理にかなっています。敵戦力の分散と証人確保、一石二鳥です」
フィアラルが黙考する。老婆の沈黙がどうにも耳に痛い。
「ゾルデ・クーパーを生け捕りにできれば、十年前の真相解明にもつながる」パスカルが純粋な表情で口を挟む。「当初の目的が達成されますね」
「利害は一致しているということですね」
フィアラルが眉間に寄った皺を指でほぐす。
「わたしの意志と、神天院の必要はいま、同じ方向を向いています」
フィアラルが重い吐息を漏らした。
「よいでしょう。あなたの提案を呑みましょう」
「ですが、それでも戦力が足りないのでは? 猊下の護衛、敵戦力の制圧、市民への対応、人手が足りません」
情報部であるパスカルの推察はきっと正しい。それでも、ここに最後のカードがある。ずっと隠してきた切り札がここにある。
「不可能なら、可能にします」
フィアラルが鋭い声を放つ。
「使えるものはすべて使う。それが私の主義です」老婆がレセナを見つめる。「レセナ、対極剣の封印解除は技術的に可能ですね?」
レセナが驚いたように目を上げる。
「はい、第三封印のみの限定解除なら完全に制御可能です」
「結構」
フィアラルが、即座に決断を下す。
「国家非常事態宣言下における神天院法院長権限により、対極剣の第三封印限定解除を正式に許可します」
その言葉に、部屋中の空気が凍りついた。暴走すれば街ひとつ吹き飛ばす。そんな剣の封印の解除を宣言したのだ。普通に考えれば正気を疑う。
ヴォルトの手が、腰に下げた剣鞘に触れる。
「レナ――あれを、使えっていうのか?」
ヴォルトの声が震えていた。
レセナも十年前の記憶が蘇る。対極剣の暴走により、すべてが破壊された悪夢の日。
それでも、レセナはヴォルトの手に自分の手を重ねる。
「大丈夫。あの日とは違う。わたしの技術があれば、完全に制御できるよ」
すべてはこの日のためだ。
「ヴォルト、わたしが王立研究所に入った本当の理由がそれだよ」
決してヴォルトに教えなかった、唯一の秘密。
「わたしが研究所に入ったのは、すべてこの技術のため。対極剣の封印制御技術を開発するため」
フィアラルが感慨深げに頷く。
「あなたが王立研究所にいた真の目的は、やはりそれだったのですね」
レセナの指先に、青白い光が灯り始める。秘蹟体系の美しい輝きが、空中に複雑な幾何学模様を描いていく。
「封印施術制御指示式――三層封印を段階的に制御し、使用者の意図に応じて力の出力を調整する技術」
ロザリロンドが唸る。
「第三封印のみを部分解除――拒絶と簒奪の力だけを約三割開放するということか」
「そういうこと。これなら、酷死天使の施力を完全に遮断しながら、破壊的な副作用を完全に抑制できる」
レセナがヴォルトの剣鞘に手を触れる。
「封印制御指示式、開放条件にフィアラル法院長の許可音声を組み込み――完了。
開放条件の承認――完了。
封印制御三式の限定解除開始。拒絶の黒剣、簒奪の白剣の部分開放――完了」
左の剣から、僅かに漆黒が空気を浸蝕する。右の剣から、大気へ干渉を始めようとする白が滲む。
しかし、それはすぐに止まった。かつてのそれとは違う、完璧に制御された力だった。
「封印制御、成功」
かざしていた手を下ろす。十年ぶりに感じる対極剣の力に、確かに制御できていることが分かって、レセナは人知れず安堵の息をこぼす。
ヴォルトが剣の柄を握る。
「ああ、そうか――」
一度瞑目したヴォルトがまぶたを開いたとき、瞳には不退転の意思があった。
「やるか」
本当は、ヴォルトはもっとレセナに仔細を聞いてもいいはずだ。なのに何も言わず信頼を返した。何かを言いたかった。何かを聞くべきだとも思った。それなのに、感傷を挟む余地なんていまは一切ない。
すべての手札が揃った。フィアラルが立ち上がる。
「作戦を決定します」




