第四章:奈落への転落 03
シャルルが使ったときと同様、施術による転移は一瞬だ。敷地の外から内へと繋げた秘蹟世界を通って、レセナたちはストラスト研究所の内部に侵入した。
転移した先の部屋は、当然のように灯りはなく、暗かった。唯一の光源は廊下側から侵入した月光だけで、薄ぼんやりとしている。ふと、部屋の中に奇妙な模様があるのをレセナは見つけた。大小さまざまな形がまばらに描かれた模様は、壁や天井だけでなく、部屋に置かれた調度品にまで伸びていた。
壁や床に見える黒ずみは、宵闇を更に引き込むような圧倒的な負の存在感を発していた。酷く気持ちの悪い空気がふらふらと漂い、掴めば触れてしまいそうなほどに生臭く濃厚だ。
さっと頭の中に情景が滑り込んで、レセナは思わず口元を押さえた。黒ずみが何であるか、福音伝達者としての感覚がレセナに"視せた"のだ。黒ずみは、雑巾を絞るように"人"から吐き出させた大量の血と体液だ。わずか一日前、地獄がここによみがえった証だった。
「視えたか?」
ロザリロンドが低い声で聞く。レセナは首を振るだけで答えた。目ざとくそのやり取りを見ていたか、ミハエルが二人に向く。
「さあ、どうしますか? 中はあらかた観察し尽くされて整理されています。今になって手掛かりが見つかるとは思えませんが」
ミハエルの声は冷ややかだ。そして、瞳には明確な疑念が浮かんでいた。室内に死体が無いのは、既に対策本部に置かれた捜査員や専門家らが調査に入った後だからだ。有力な物証は持ち去られているから、本来の目的を考えれば、ここに訪れるのは今となっては後手に回る悪手だ。レセナの特殊性を知らぬミハエルには、ここに来る理由が無い。逆に、残留した思念から過去を辿れるレセナらにとって、ここは数少ない明瞭な活路だ。
「現場は見ておく主義でな。実は私も概要しか知らん。奴はどう辿った?」
ロザリロンドがミハエルの注意を引く役を買って出た。いくら公安であろうと、レセナの力を知られる訳にはいかないのだ。これは、なにもレセナの意思を慮っているからではなく、政府内での単純な権力闘争が理由だ。
「今の内に探るんだ」
ヴォルトがさり気なくレセナを促す。
福音伝達者は、過去に起きた出来事を感じ取ることができる。レセナにとって、この力は神から授かった特別な感覚だった。
レセナは、この力を日常的に使うことは殆どない。社会曰く、これは神の力であるから、レセナ・グランジャという一個の人格でもって使うことが躊躇われるからだ。
一度瞑目すると、レセナはゆっくりと目を開いた。世界を抱くように息を細く吸う。世界は己の一部であり、自分は神の指先であると思い込む。
レセナの視界に、神々しい銀色の光が無数に伸びているのが見えた。それは過去の記憶を繋ぐ、この世のものとは思えない美しい糸だった。触れれば切れてしまいそうなほどか細く、弦楽器にも似た気品がある。
レセナは、川のように流れるその中に、目的の糸が紛れていることを知覚した。まさにレセナという存在が人間を超越した感覚でそれだと断じる超感覚だった。愛しい我が子に触れるように、その糸を指先で軽くつつく。糸が音も無く弾けた。糸に籠められた"歴史"が、指先から頭へと巡り、視界に描写される――
――酷死天使を操るゾルデは、ストラスト研究所の所長を殺した後、来た道をなぞっていた。
死の匂いが身体にまとわりつきだした頃、フードを目深に被った人影が、ぽっかりと穴を開けたように廊下の中央に佇んでいるのをゾルデは見つけた。
人影はゾルデの姿を確認すると気やすく片手を上げた。
「全員あらかた済んだみたいだね。少しは溜飲が下がったかい?」
少年の声だった。
「これくらいで下がる溜飲など持ち合わせていない。我らが劇場はこれからだ」
「キミが甘い認識をしていなくて助かるよ。それでこそボクたちに引き込んだ甲斐があるというものだね」
くつくつと少年が笑った。無邪気であっても、秘めやかな殺意が滲んだ気持ちの悪い笑みだった。
彼にとって、ゾルデは盤上の駒だ。そして、己自身も。
十年かけて育った復讐者が定められた手筋通りに動く。指し手の思惑など知る由もなく、記された命令書がたったひとつの道筋。寄る辺など微塵もない。
「さて、回収できた酷死天使はどれくらいかな?」
「試験管七本だ」
「研究者としての見解が聞きたいな。七本で足りる?」
エミールは既に答えを知っている。確認に過ぎない。
「アレラルでなければ一本で首都を滅ぼせる」
おお怖い怖い、と少年がおどけてみせた。
「間違ってもうちでは使えないね」
「案ずるな。ツウェルベルの研究施設にある情報はすべて破棄してある」
へぇ、と少年の笑みが広がる。感情の読めない、無機質な笑みだ。
「福音伝達者を殺すのだろう? こちらも恩義は返そう。だが、分かっているだろう?」
「もちろん。目標は査問法院、それに学術院だ。ボクたちは、それとは別に王国議会議事堂、アウラ大聖堂、そして福音伝達者を殺す。それでお互い祝杯を上げられるのなら言う事はないね」
計画は最終段階は間近だ。潜入工作員からの情報で神天院の動きは把握済み。もう死の行軍は誰にも止められない。止めさせなど、しない。
「この国は一度滅ぶべきだ。滅びの後の再生こそ私の望みだ」
「キミは死と再生の主になるつもりかい?」
「そんな大層なものではない。間違っているから壊し、作り直す。神が不義を正さぬのなら、"人"が行うしかあるまい。その役目が私になっただけだ」
眼前に広がる悲劇は再生の証だというように、ゾルデが力強い足取りで進む。少年は、小さく笑うとゾルデの横に並んで歩いた――
――記憶が途切れる。研究所を出たから、この場から辿れなくなったのだ。視界に暗がりが飛び込んで来て、今まで見ていた光景との落差に眩暈がした。現実に戻ったレセナはもの言えぬまま、その場に立ち尽くすしかない。
「福音伝達者が狙われてる」
「なに?」
レセナの呟きにいち早く反応したのはロザリロンドだった。
だが、目だけで振り返ったロザリロンドが激昂の表情をすぐに消した。
その様を不審に思ったのもつかの間、レセナは場所が最悪だったと己の過ちに気づく。ロザリロンドの背後、公安のミハエルが無表情でこちらを眺めていたのだ。
「少し中を探ろう。まだ手掛かりが落ちているかもしれない」
ロザリロンドが告げて部屋の外へ歩み出る。ミハエルはまだレセナに視線を向けていた。いまは些細なことだと過ちを頭から締め出してレセナは考える。
状況は最悪から更に底に堕ちた場所に転がっていた。ゾルデたちの目標は、福音伝達者の殺害だ。いや、正確にはその仲間と言うべきか。ゾルデの背後に組織の影が見えていた。統合するに、最終的な目的は国家の転覆だ。まさしく国家の危機だった。
足の爪先から頭まで総毛立った。
七本ある酷死天使がカルヴァリアの主要機関に撒かれたときの被害を想像してしまった。酷死天使の封じ方は、物理的に封じるか炎で滅却するかの二択だ。封鎖は現実的に不可能。残る一手は燃やすしかない。間違いなく、カルヴァリアという都市は滅びる。
首都の壊滅は、アレラルという国家そのものの滅亡だった。
予想が現実味を帯びて背後から忍び寄っているようだった。
だが、レセナにとって最も重要なことは別にあった。
少年が見ていたのは、ゾルデを駒として扱う視線だった。そしてその視線は、レセナ自身にも向けられるだろう。神も、国も、敵も――すべてが自分を道具として扱っている。
ならば、どうする?
このまま運命の糸が導くまま、歩むほかはないのだろうか。
そんな馬鹿げた話はない。
わたしだ。
わたしが、わたしの意思で、己の未来を掴むしかない。
誰のためでもなく、自分のために。




