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生き方を忘れてきた私たちは  作者: 奈良ひさぎ
第一章 降りしきる悪意の中で
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六、守りたくなるから

「玲央さんは私が知っている人の中で、一番、悪意を感じなくて。だから、……不思議と、玲央さんへの興味が尽きないんです」


 真鈴さんはそう言ったが、俺に悪意を感じないなんて話はさすがに嘘だ。俺だって一人の人間なのだから、少なからず悪意はある。中学生の頃友達どうしでいたずらを仕掛けていた時に、ちょっと相手を困らせてやろうと思っていたあの気持ちは、悪意でなくて何と呼ぶのか。

 結局二度目のお茶はあれ以上話が進展することなく、あっさりと終わってしまった。真鈴さんは俺のことを名前呼びに突然変えて、おまけに俺のことをかなり特別な存在として見ているとアピールしてきた。さすがに俺にも、そういう相手として意識されていることは分かる。俺の方は数か月間船旅に出る仕事だから、彼女に初めて会ってから陸に足をつけている時間はなかなか短いが、彼女にとっては俺のことを考えるだけの時間が十分あった。


『どこか、一緒に遊びに行きませんか』


 俺は俺自身の気持ちを、どうすればいいか分からない。真鈴さんがとてもいい子だというのは分かる。自分に実験を施す連中から受け取る、降りしきるような悪意をくぐり抜けてなお、悪意のごくごく少ない人間がいるかもしれないと希望を捨てなかった。真っすぐに目を輝かせて、俺のことをもっと知ろうとしてくれている。自然と、それに応えなければ、という気持ちが俺の中に芽生えていた。


『いいんですか? それだったら、一緒に行きたい場所があって』


 目つきの悪いウサギが喜びのあまり荒ぶっているスタンプの後、素直なメッセージが返ってきた。面と向かってしゃべっている時はどうにも言葉を慎重に選んでいる感じがあるのに、文章だと思っていることを100%真っすぐに伝えてくれる。思惑通りに振り回されている感じがした。

 真鈴さんが次の休みの日、一緒に向かったのは電車で一時間くらいのところにある博物館だった。ハーフアップにまとめた黒髪に、初めて会った頃と同じように釘付けになる。デニム生地のジャケットにロングスカートも、普段のどこか自信なげな口ぶりとはまるで対照的な着こなしだった。真鈴さんは何を着てもよく似合う、というより、自分にどういう服が似合うかを完璧に理解したうえで、合わせているのかもしれない。


「……っ」


 真鈴さんの意見に同調しておいてなんだが、俺は博物館という場所がどうにも苦手だ。図書館の自習室と同じで、あまりに静かすぎる場所が落ち着かない。ずっと気持ちがそわそわしているし、真鈴さんがトイレに行っている間一人にされると、いよいよ帰りたくなってしまう。それでも小さな展示の前でも不用意に前かがみになって、耳にかかった髪をかき上げつつじっと一字一句を追う彼女を見ると、自然と守らなければという気持ちにさせられる。


「何か、面白い展示はありました?」


 昔から、家族でこういった博物館に来てもものの三十分ほどで出口に行きたがっていたので、一つの展示の前でじっととどまる真鈴さんのことが不思議にすら思えた。せめて感想でも聞かねばと思ってそう言うと、ぱっと彼女は俺の手を取って、ミュージアムショップから一番遠いところにある展示の前まで行き、小さな声で俺の耳元に近づいて説明をささやいてくれた。それがくすぐったいし恥ずかしいしで、途中からとても説明を受けている展示を見る余裕などなく、目線を逸らしていた。


「あの……聞いてます?」

「……聞いてますよ」

「聞いてないです。気持ちが別の方向に向いているの、分かりますよ」

「だったら、」


 俺は反射的に、彼女の手を握って、その吸い込まれそうなほど深いオリーブ色の瞳を真っすぐ見つめる。今度は彼女が、どぎまぎして目線を逸らす番だった。


「……俺をそんなに、困らせないでください」

「……っ!」


 俺の声が少し大きかったか、それとも二人の世界に入ってしまっているように見えたか。俺と真鈴さんの周りにスペースができていて、何人かに見られているような気もした。我に返った俺は、慌てて「見たいものは、全部見れましたか」と尋ねる。ぱあっと花開くように明るい顔で微笑んだ彼女がうなずいたのを確認して、博物館を出た。出口では自然と、俺たちは手をつないでいた。それが恋人つなぎでなければ、背丈も相まってやはり父親と娘のようだった。


「やっぱり、安心します」

「安心?」

「初めて、握ったんです。男の人の手」


 お父さんは、と言おうとして引っ込める。俺がそうであるように、両親について軽々しく触れてほしくないかもしれない、と考えたのだ。


「ごつごつしていて、でもそれでいて筋肉質で……。安心するって、こういう気持ち、なんですね」

「……だから、俺を困らせないでくださいって、さっきも」

「困らせてほしくない、ですか?」

「……俺が、どうすればいいのか分からなくなる、ので」


 隣に並んで手をつないで、ただでさえ距離が近いのに、さらに真鈴さんは距離を詰めて体をくっつけてくる。あまりに積極的で、悪意を感じないことがこんなに彼女を変えるのか、と改めて俺は驚く。


「私も、どうすればいいかなんて分かりませんよ?」

「えっ」

「覚えていますか? こんなに悪意を感じない人を、初めて見たって言ったこと」

「……それは、もう」

「悪意には、ふたつあるんです。その人が身にまとう悪意と、その人の言葉一つ一つに宿る悪意。悪意を身にまとっていなくても、言葉の節々から悪意を感じてしまう人はきっといます。でも、玲央さんはそれすら感じないんです。どうして、こんなに悪意を向けずにいられるんだろう、って」

「それは、まあ。こういう体格には恵まれた男だからこそ、真鈴さんのことを守ってやらなければって、毎回のように思わされているからです」

「守って……守って、くれるんですか?」

「まぶしいくらい、守ってほしそうに見えるので」


 ああ、この子が好きなんだなと、真っすぐに思った。そばで守りたいなんて言った時点で、全部言っているようなものなのに。


「だったら、私にもどうすればいいか、教えてください。これからのことも……」

「俺でよければ、なんでも教えます。真鈴さん」


 そうして、新しい俺と真鈴さんの関係が始まった。

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