参拾陸、モウ一人ノ蓬サン
「……そうか。こうなるともはや、ボクは死んだも同然だね」
蓬さんが目を覚ましてから初めて彼女の声を聞いた時、俺は別人かと思った。隣で一緒に声を聞いた真鈴さんも驚きを隠せない様子だった。強烈な違和感がある。そこで三嶋さんの言葉をふと思い出した。
『変わったんだよ、お嬢さんは。別人になったのかってくらいにな。それが、奏と藍、お前らが生まれてからだ』
据わった目つきと、周囲を分析しているかのように訝しんだ表情。今目の当たりにしている蓬さんが、奏と藍を産む前の昔の蓬さんなのだとしたら。
「お嬢さん。……あんた、昔のお嬢さんだろ」
「失礼だな、ボクは昔も今も変わらないよ。三嶋、ボクはキミが脳内で作り上げたイメージの通りの人間だ」
「そんな話をしてんじゃねえ。優しい目つきのお嬢さんとあんた、どういう関係だ」
「簡単な話さ。ボクはボクだし、あの子はあの子だ。同じ体を宿主としているだけでね」
「……二重人格、ですか」
髙橋さんが静かに答えを導き出した。その声に反応した蓬さんが、にこりと笑ってうなずいた。
「世間一般ではそう呼ぶのだろうね。ただ知っての通り、ボクが先に生まれた方だ。マリン、キミの知る仁方蓬はあくまで、後天的に生まれた『母親としての蓬』であるに過ぎない」
「……っ!」
「ああ、そうだ。キミのことはボクが一方的に知っているだけだったね。怖がらせたみたいだ」
やはり別人のようだ。俺や真鈴さんの知る蓬さんでないことは間違いない。これが昔の蓬さんなのか?
「二重人格? どういうこった」
「順を追って話そうか。まず、仁方蓬が変わるきっかけとなったのは、結婚、妊娠、そして出産だ。世の一定数の女性が経験する大きな変化に伴って、あの子には母性が芽生えた。狂気的な研究者としての過去を捨て、新しい人間に生まれ変わりたいと思うほど、強い母性だ」
「……奏と藍が生まれたってので、そんなに変わるもんなのか」
「あの子は研究者と母親の二足の草鞋を履いて歩いてゆけるほど器用ではないことを、自分で分かっていた。奏と藍にとって良き母親であるためには、研究者であることを諦めなければならない。だがついぞ、あの子は研究者である自分を否定しきることはできなかった。その結果、宗教団体から研究機関を分離して、その長なんてものになった。まるでトップに立てば、研究者色が薄まるとでも思ったかのようにね」
「母に組織運営の才能がないと言い切った奏は、正しかったのですね……」
才能があるない、それが正しい正しくないというより、蓬さんも人間だったと言う方が正確かもしれない。蓬さんは孤高の研究者であり続けるよりも、母親として子供に愛情を注げる人間になりたかった。
「けれど女性の体の可能性を追求したかった柏柚香にとって、組織の分離はむしろ好都合だった。混乱に乗じて組織を乗っ取りさえすれば、政治と宗教の関連を疑われることなく目的が達成される。当然あの子は抵抗したさ。合意のもと組織を売り渡すのと、悪意を持った人間に奪われるのとでは天と地ほどの差がある。……その結果、柏柚香はどうしたと思う? 拷問だ」
「……っ!」
何か言いたいことがあればすかさず口を開かんとする勢いだった三嶋さんが言葉を継げなかった。
「柏柚香は反吐が出るほどの加虐趣味でね、金や力で組織を奪うなんて造作もなかったのに、優越感を覚えるためだけにあの子を捕まえ、絶食させたうえで痛めつけた。並の人間なら髪の色素も抜け落ちていただろうけど、元が白いから分からない。何度生死を彷徨ったことか。まあ、一度滅亡寸前まで追い込まれた旧人類が新人類を逆に迫害する図と置き換えれば、大したことではないかもしれないけどね」
「それで……かつての先生と、母としての先生が分離したというわけですか」
「ボクも驚いたよ。あんなに不器用なあの子が、逃げるために昔の自分を切り離すなんて。ただまあ、体の主導権すら完全に渡してしまうことになるとは、予想していなかったようだけど」
俺たちが会った時に見せていた「仁方蓬」は、完全に制御下に置かれた仮初めの姿でしかなかった。出てくるタイミングも、記憶さえも操作され、「仁方蓬」と「柏柚香」は完璧に演じ分けられていたのだ。
「柏柚香は……あなたが演じていた仮の姿だった、というわけですね」
「柏柚香は超能力すら持たない出来損ないの癖に、神に相まみえると本気で信じていたみたいだ。けれど当然、キミたちも知るように超能力を持たない者は神への耐性もまた持たない。ちょうどボクたちの分離が終わった頃に遅れて神は現れた。ボクの目の前で、柏柚香は全身の細胞が弾け飛んで死んだよ」
「どうして、柏柚香を演じたりなんかしたんですか。あなたも恨んでいる人間のはずなのに」
「星芒やつくばの人間に柏柚香が死んだと伝えて、どれだけの人間が信じると思う? 奴らは柏柚香の信奉者だ。心酔しているなどという言葉では足りない。盲目になった人間の気が一斉に触れるほど恐ろしいことはないよ」
「……だから、星芒市を動かし続けたと? 私のようなひとたちが生まれているのにもかかわらず」
「言っておくが。超能力研究は必要不可欠だ、人類が進歩を続けたいのならね。研究をやめることはすなわち、進化を諦めるということ。進化を諦めれば、文明はすぐにでも崩壊しきれいさっぱり消えてなくなる。ボクたち『新人類』にとって、超能力研究にまい進する以外に道はない」
「だったら……人生を壊された人間が山のように生まれても、構わないと言うんですか。よもさんは絶対に、そんなことは言わないのに」
「科学に犠牲はつきものだ。たとえアイデンティティだろうと命だろうと、その屍の上に立つ覚悟ができた者こそ真の研究者だ」
「……その結果、自分自身が屍の中に埋もれてしまっても、同じことが言えますか」
「私は一向に構わないよ。そうなれば研究者冥利に尽きる」
「さあ、――そろそろ終わりにしようか」
潤んだ目で必死に言葉を紡ぐ真鈴さんと、さも当然のことかのようにつらつらと冷酷な言葉を並べる蓬さん、いや仁方蓬。その応酬を遮って、ぱんぱんと手を叩く音とともに知らない女性の声がした。振り返るとそこには、水色の長髪を携えた女がいた。会ったことも見たこともないのに、上手く言葉にしきれない神々しさのようなものが彼女には備わっていた。
「なるほど……ボクが再び目を覚ました時点で、既に詰んでいたというわけか」
仁方蓬だけは、この状況を明確に理解しているらしかった。




