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生き方を忘れてきた私たちは  作者: 奈良ひさぎ
第弐章 霞んだ記憶を頼りに
12/24

拾弐、日常の一コマの中で

 部署が変わると世界が変わる。


 県庁勤めの克矢からそう聞いてはいたが、一字一句その通りの感想を自分が抱くことになるとは思ってもみなかった。海上自衛隊の中でいわゆる船乗りの仕事をしていたところから、デスクワーク多めの内勤の部署に異動することになり、俺はカルチャーショックをはっきりと受けていた。


「よろしく、下市(しもいち)二尉」


 異動後の初出勤日は近くの部署へのあいさつ回りで手一杯だ。そんな一大イベントの中で最初にあいさつされるのは、当然自分の上司になる人。ひょろっとして背が高く、心なしか顔が青白く見える、メガネをかけた三佐の上司と握手を交わした時、


(これは筋トレ、前よりしっかりやらないとすぐ筋肉落ちるな)


と強く思ったのだった。



「ただいま」

「おかえりなさい、玲央さん」


 真鈴さんがいる日常に戻って一番に感じたのは、家に帰ってきたら一人じゃないことのありがたさ、だろうか。俺が何か言う前に「私の方が玲央さんのこと、愛してますからね」と先制攻撃を仕掛けてくるのは何とかしてほしいところだが、真鈴さんは俺のことをよほど信用しているのか、真面目な話でもくだらない話でも、積極的に聞く姿勢を作ってくれる。自分の話を聞いてくれていることが態度で分かるだけでも嬉しくなるものなのだと、真鈴さんとの生活のおかげで気づけた。


「そうだ。今度のお休みに、前に言っていた植物園へ行きませんか。玲央さんの異動も無事に叶ったことですし、これを機に家庭菜園を始めてみたいんです」

「いいですね。そうしましょう」


 真鈴さんが星芒市でどんな人体実験をどのくらいの期間受けてきたのか、俺はまだ知らない。だがそんな過去を感じさせないほどに、彼女は明るい。俺は二十五年生きてきて、自分の父親ほどのお人好しを見たことがなかったが、真鈴さんはあっさりと超えてきた。俺ですら何気ないことにムッとして、自分でも分かるくらいに機嫌が悪くなることがあるというのに、真鈴さんはおはようからおやすみまでそんなそぶりを見せない。かといって、溜め込んでいるような様子もない。


「ついでに、真鈴さんの水着も」

「玲央さん?」

「……大丈夫です、パレオをおすすめしようと思っていたので」

「そういう問題ではなく……!」


 俺をじっと見つめるが、悪意ゼロで俺が言っているのを感じ取ったか明らかに動揺して、きょろきょろと目線を逸らし始めた。そんな真鈴さんに一層いたずらがしたくなって、俺はさらに畳みかける。


「いいんですか、二人で海に行って、俺が他の女性に気を取られても」

「どういう脅しですか……っ!」

「真鈴さんがとても似合う水着を着てくれれば、真鈴さんから目を離すことなんてないんですけど」

「い、言いましたね……?」


 実際には別の理由もあるのだが、それをわざわざ言う必要はないだろう。それよりも真鈴さんとそういう買い物に行けることの方が嬉しかった。その夜、真鈴さんの方からやけに積極的に攻めてこられたあたりで、ちょっとやりすぎたかもなと後悔したのだった。



***



「そういえば。真鈴さんは嫌いな食べ物とか、あるんですか」

「……笑わないでくださいね?」

「どうして笑うと思うんですか」

「子どもっぽいと思われるのが、嫌なんです」

「完璧超人でもなきゃ、大人でも好き嫌いの一つや二つ、あるでしょう。俺だって、にんじんが嫌いですし」

「……分かりました。私、……苦いものが、嫌いなんです」

「ピーマンとか、ゴーヤとか」

「コーヒーと……ビターチョコも、苦手です」

「確かに苦いもの全般だ」


 約束通り、植物園へ二人で行って、俺たちはそんな話をしていた。たわいのない会話に聞こえるが、お互いの好き嫌いが致命的なものだと一緒に生活するうえで大きな障壁になるから侮れない。幸い、お互い避けようと思えば避けられるものばかりだった。それに苦いものは、大人になって味覚が少し鈍くなると、「味がある」と感じるようになると聞いたこともある。真鈴さんはまだまだ味覚が鋭くていいことなのかもしれない。

 初めての家庭菜園で何を育てるか二人で悩んだが、真鈴さんが薬味は全般的に得意だというので、何かと使い勝手のいい大葉にしようと決めた。大事そうに苗を抱えて帰る真鈴さんは、いつもの数倍可愛らしく見えた。


「そうだ」


 そんな真鈴さんがふと思い出したように、買い物がしたいから付き合ってほしいと言ってきた。寄ったのは文具屋さん。おばあちゃんがやっている、どこか懐かしい匂いのする昔ながらのお店で、真鈴さんが立ち止まったのは便箋の前だった。


「手紙、書くんですか?」

「はい。どうしても、手書きで感謝をお伝えしたい方がいて」


 そういえば真鈴さんが攫われた時、俺が手がかりにしたのも彼女直筆の手紙だった。その時は書かれた情報を読み取るので精一杯だったが、思い返してみると丁寧な字で、気持ちのこもった文章だった。


「私が独立して、星芒市の外でも生きていけるように、いろいろ手助けしてくれた方で。今は病に倒れていると、聞いています。いつかお見舞いにも行けるといいのですが」

「……それって、」

「……?」


 あの人から聞いた話と一致する。克矢の伯母さんが星芒市の関係者で、特徴が似ていると説明してから、電話をかける。


『もしもし。……どうしたんだ、こんな中途半端な時間に』

「あぁ、すみません。その、この間はありがとうございました」

『お礼なんていいよ。私が病床からできることなんて限られている』


 スピーカーで声を聞かせると、目に見えて真鈴さんの表情がぱあっと明るくなった。どうやら俺の予想は合っていたらしい。


「よもさん……!」

『ん、その声は……マリンか?』

「お久しぶりです、真鈴です……っ」

『無事に戻ってきたんだな、よかった……ごほっ』

「だ、大丈夫ですか」

『なに、心配には及ばない。ただの風邪だ。ちょっとばかり年がいったせいで、この程度の風邪を簡単にこじらせるようになってしまったけれどね。それより……』

「よもさん、玲央さんとお話ししたのに、お名前も名乗られなかったのですか?」

『……ああ、そうかもしれない。克矢くんの伯母だと分かれば、玲央くんにとっては十分だったからね。今さらだけど、自己紹介しておくのも悪くないか』


 俺はその時初めて、これからもお世話になる人の名前を聞いた。


仁方蓬(にがたよもぎ)だ。克矢くんの母の兄が、私の夫。つまり克矢くんと血はつながっていないが、まあいろいろと仲良くさせてもらっている。以後、よろしくね』

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