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生き方を忘れてきた私たちは  作者: 奈良ひさぎ
第一章 降りしきる悪意の中で
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十一、星芒市の闇

「玲央、さん……っ!」


 俺の姿を認めた真鈴さんが、人目もはばからずにそう叫んで俺に抱きついてきた。俺のシャツをぎゅっとつかむその力が、これまでの不安を何よりも表していた。


「ケガはないですか。痛いところは……」

「ご無事で、よかったです」

「真鈴さんの方こそ」

「手紙、気づいてくださったのですね」

「分かりやすくて、助かりました。おかげで迷う時間も、最小限で済んだと思います」


 真鈴さんが涙で俺のシャツを濡らす。やはり、もっと近くで彼女のことを守れるようにならなければダメだと、強く思う。


「……私の娘から、離れなさい」

「あなたに娘と呼ぶ資格はない……っ」


 柏菖蒲がまた俺に向かって電撃を放つ仕草を取ったが、不発に終わる。電撃さえ来なければ、ただ一般的な力を持つだけの女性だ。いなすくらいは簡単にできる。殴りかかるようにして近づいてきた腕をつかんでひねると、「いっ」と声を上げてその場にへたり込んでしまった。


「返、して……私の娘を……」

「俺が責任をもって、妻として迎えます。……あなたには任せられないと、さっきも言ったはずだ」

「私の希望を……奪わないで……」

「……私は」


 一歩、強く踏みしめて真鈴さんが前に出る。横から見るその目には確かに、覚悟が宿っていた。


「この方と一緒にいる方が幸せだと、強く感じています。私は、私自身の運命を自分で切り拓くと、そう決めました。だからあなたも、私に構わず、前を見てください」

「真鈴……あなたがいないで、私が前に進めるとでも?」

「私はもう、あなたのことを母親とは認めていません」

「……っ!」

「お腹を痛めて産んでくれたお母さんこそ、本当の母親です。あなたからは、どれだけ好意的に見ても、結局悪意しか感じられなかった」


 その一言は、想像以上に重い。真鈴さんは人の悪意を他人の何倍も敏感に感じ取れるからだ。真鈴さんが悪意しか感じないというなら、それは疑いようのない事実なのだ。


「私に……もう、悪意を感じさせないでください」

「……っ」


 抵抗できなくなった柏菖蒲が脱力するのを見て、警察官たちが一斉に取り押さえにかかった。俺ですら簡単にできたのだから、警察官にとっては造作もないことだ。事態の収束に協力したことで俺は感謝を告げられ、真鈴さんと二人、何とか無事に帰ることになった。


「どうやって、母に近づいたのですか?」

「どうやって、というと」

「母は私を連れ出した後、『レベル1』境界線近くの倉庫に軟禁していたんです。でも突然、私の身柄と引き換えに交渉する人物と接触してくる、と言って、私を置いて出て行ってしまって。どうして突然そんなことをしたのか、説明が自分の中でつけられなくて」

「……勘ですよ。いきなり娘を連れ去って、元の場所へ帰ることはないと思っていました。だから近くを探していたら、たまたま真鈴さんに似た女性を見つけたんです」

「…………ん」

「痛いっ」


 ふいに真鈴さんが俺の脇腹をつねってきた。どうやら真鈴さんの悪意センサーは、嘘を見破ることもできるらしい。かなり万能なようだ。


「……私にこれ以上悪意を感じ取らせないでほしい、とさっき言ったはずです」

「今はまだ言えない、と濁してもいいですか」

「どうして言えないのですか?」

「いろいろと、真鈴さんに教えるには不都合がありまして」


 正直に克矢の伯母さんのことを話すかどうか迷った。あの人は、真鈴さんのことを第二の子どものようだと言っていた。つまり血はつながっていなくても可愛がっていたし、目にかけていたということ。しかし真鈴さんが同じようにあの人を慕っているかどうかは分からない。少しの悪意を感じたのか一定の距離を置いていた、とあの人は語っていたが、真鈴さんの印象はもしかするともっと悪いかもしれないのだ。


「……分かりました。でも、いつかは話してくださいね。そのために、夫婦になることを約束したのですから」

「分かってます」

「とはいえ……すぐに、その時はやってきそうな気がしていますよ」


 もしかすると、何となく真鈴さんは察しているのかもしれない。星芒市の中にいた頃、雨のように降りしきる悪意の中で、あの人だけが真鈴さんに手を差し伸べたのだとしたら。その恩を忘れることはないだろうし、俺が攫われた真鈴さんや、柏菖蒲にたどり着く手がかりをあの人から得たということは、少し考えれば分かるのかもしれない。


「今教えてくれれば、私の秘密ももう一つ、教えようかなと思ったのですが」

「えっ」

「でも……もしかすると玲央さんも察しているかもしれませんし。それに、夫婦になると言っている以上、私の口から、自分の意思で言わないといけないことですから。……お互い秘密を一つずつ抱えたまま日常に戻るなんて、なんだかドキドキしますね」

「……疲れているんでしょう。非日常に振り回されて、興奮状態にあるとか。休みましょう」

「……どうしてそんな意地悪なことを言うんですか」


 結局その帰り道、真鈴さんからはいつもより激しめのスキンシップをされた。少しも怒っているふうはなかったのに、俺への甘え方が明らかにいつもより激しかった。俺も俺で疲れていたというのに、真鈴さんに命じられ、彼女がお風呂に入っている間に例の洋菓子屋のプリンを買ってくることになったのだった。



***



「よかったな、玲央。無事に元の生活に戻れて」


 後日、俺は克矢に呼び出され、二人で飲むことになった。あれから、真鈴さんとも二人きりでいっそういろんなところへデートに行ったが、克矢との時間も大切だと思っている。


「お前のおかげだ。ありがとう」

「俺? 俺は大して何もやってねえよ、伯母さんがって話だろ」

「そうだけど、つないでくれたのはお前だからな」

「まあ、そこまで言うならありがたく受け取っとくか」


 克矢はおっさんのように、生ビールのジョッキを持つ格好が様になっている。ぐいっと飲み干して一息ついてから、そうだ、と話題を変えてきた。


「異動希望の話、どうなったんだ」

「ああ。まあいろいろ無理は言ったけど、なんとか通りそうって感じかな。上司に文句は言われたけど」

「妻帯者になるんだろ? それくらいのわがままは通してもらわないとな」


 今の部署は業務上、いつからいつまで不在になるとか、どこへ行くとか、情報をたとえ家族でも言えない決まりになっている。しかしそれでは肝心な時に真鈴さんのそばにいられない。実際、今回そのせいで真鈴さんを助けるのが遅れてしまった。もしかすると柏菖蒲は、俺の仕事の都合を理解した上で、タイミングを見計らっていたのかもしれない。

 そこで、常日勤で働ける部署に異動希望を出していた。通るかどうかは五分。上司も渋ってはいたが、今回の真鈴さんの騒動は想像以上に広まっていたようで、最終的には上に話を通してくれた。


「けど、あんだけの騒動になっといて、星芒市の話は伝わってないんだな」

「ああ。うちの上司も特に言ってこなかったな」

「いったいどうやってんだか。もしかして、記憶処理できるとか?」

「できるのかもな」


 星芒市にいる育ての母を追い返し、真鈴さんを助け出した。俺の中で、星芒市とはもう縁が切れたという気持ちがあった。


 これからさらに、星芒市の闇へ足を突っ込むことになるとは、夢にも思わずに。

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