10.プール清掃、月の浮かぶプール、小出と関根
この回長いです
爽やかな新緑の季節が終わりを告げて、関東地方が梅雨入りした。それでも週に一度ほどは晴れるもので、そんな日に外体育をした我がクラスは、体育担当の清原に無理難題を押し付けられた。
「今日の放課後、お前らにプール掃除頼むからな」
当然大ブーイングが巻き起こる。不平の声があちこちから上がるが、清原の高さと厚さが兼ね備えられた体躯と、睨まれただけで死んでしまいそうな両目がギロリと光るのを見て、根性のない高校生たちは諦めた。
放課後、一部の生徒たちは再び体操服に着替え、グラウンドと体育館の間にあるプールへ集合する。授業は男女別だったが、どうやら女子も動員されていたらしく、遠くから関根と橋本が歩いてくるのが見えた。
それでも歩いてくる生徒の数は数えられるほどしかいない。部活動や塾、アルバイトなど、予定のある者は華麗にサボりを決めたのだ。清原は持ち前の凄みで生徒を黙らせたものの、自身が拘束されるのは嫌なので、プールの鍵を生徒に預けて帰ってしまった。つまりはそういうタイプの人間なのだ。そういう人間にはあまり期待しないようにしている。
とにかく、その管理体制のずさんさ故に、この場に来ているのは、特にやることもなく、だからといってアパシーに捉えられているわけでもないものがほとんどだった。しかしごく一部は、この場に来ることに利益を見出していた。
そんな危篤な人間は四人いた。僕、ミネタ、関根、橋本だった。
校外学習の日以来、僕と関根は一緒にいることが圧倒的に増えた。ミネタと橋本は最早付き合っているようなものだった。人前でも距離間はほぼゼロ、以前は男友達とふざけていたミネタはずっと橋本にべったり、その橋本も関根といる時間が短くなり、ミネタと歓談していることが多くなった。
その一方、僕と関根は人目のないところでは距離が縮まるものの、人がいる場所、特に学校では今まで通りのそっけない関係を保っていた。関根が言う「何にでもなれる自分」は、ひっそりと息を殺していた。その分抑圧された可能性が、僕に二万色の夢を見させた。僕はそのギャップに完全に脳をやられていた。好きを通り越して大好き、酒で言えば中毒なんてものではなく禁断症状。待てをされても待つことのできない犬のように完全に落ちていた。
しかし、僕らは付き合っている訳ではなかった。公園を出るときの、彼女の発言「寝ているふりをしていただけ」が寝る前になるとフラッシュバックする。
当時の状況を考えると、僕が彼女の申し出を受け入れたことは、彼女の耳にも当然聞こえていたはずだ。その上でいたずらな目をしてそう言ったというのは、僕のことをからかっているのか、いや、でも大事な存在でなければ彼女の色々な側面をさらけ出してはくれないだろう、と考えている間に夜は丑三つ時まで進み、睡眠時間が悶々とした負のエネルギーに変えられてしまう。そのエネルギーは僕に関根の夢を見させる。泣き顔と笑顔が目まぐるしく入れ替わり、僕はその両方を抱きしめたくなる。それでも気づけば夢は終わり、強く抱きしめているのはタオルケットでしかなくなる。
昔の日本人は夢に思い人が登場すると、相手が自分を好いている、という妄想をたくましくしたそうだが、それは男の気持ち悪いエゴだと思う。自分が最早「病み」のレベルで好きなのを認めたくないのだ。それほどまでに好きでいるのに、実際には会えず、好意を寄せてもらえない現実を否定したいのだ。以前はそれを気持ち悪いとしか思えなかった。しかし今ではそんな男たちに少し同情を覚えつつあった。
ミネタの女好きに関しても同じように考えが変わった。特定の相手に一途になると、奴はとても慎重な男になった。嫌われず、できるだけ近くにいることのできるポイントを正確に見極めようとする彼は、僕にとって陰ながら師匠であり共闘者のような存在だった。普段の馬鹿な彼は消えてしまうようだった。
やり場のない感情を抱くことで、かつては異常に思えた他者の行動が理解できるようになった。そのことだけで自分は今幸せだった。
橋本が鍵を持ってきていたので、彼女を待って集団がプールに進入する。ミネタは掃除用具の準備のため倉庫兼着替え室に入っていく。スイッチが切り替えられ水が流れ始める。緑の水は表面だけがキラキラしている。水位が下がるのを待つ間、橋本に話しかける。いつもはミネタがいるので話しかけづらいのだ。
「ミネタについてどう?」
「峯田君ねえ、彼、馬鹿で、グイグイくるけど、根ではいい人だよね」
「俺もそう思う」
それで、好きなの? とは聞けない。人の好き嫌いは適切な文脈の中でしか触れることのできない話題だ。恐らくミネタと僕は友人同士だと思われているから、僕が橋本にミネタについての質問をするのに違和感はない。でも僕にとって橋本は友人の彼女候補でしかない。だから二人の関係を模索するより、関根に関しての質問をするのが妥当だと思えた。
水位はちょうど半分くらいまで減っていた。
「じゃあ、関根は?」
「しおりんか……、彼女は、よくわからないや」
「よくわからない?」
「彼女には色々な側面があるでしょ? 私にもいくつか見せてくれているんだけど、そんな風にされるとどれが本当の彼女なのかわからなくなるんだよね。いや、どの彼女だって嘘の彼女ではないんだろうけど、きっと彼女にはまだ隠している面があると思うのよ。ああなっている理由の側面が。小出君には、彼女のその面を引き出してほしいんだ」
「なんで俺?」
「……彼女のこと、好きなんでしょ。それにしおりん、小出君のこと褒めてたよ」「え?」「きっと期待してるの。同性以外であまり話したい人いないみたいだし、話せてるだけで自信持っていいと思うよ」
水が完全に流れた。ミネタが姿を現した。彼は橋本に駆け寄る。僕は二人から離れる。
掃除が始まると、僕は誰と話すこともなく黙々とデッキブラシをプール底に擦りつける。僕も自分から誰かに話しかけるタイプではないし、ミネタと橋本は二人でいるし、関根は現在も無口キャラを突き通している。つまり話したい人はいない。話してくれる人もいない。だからただ作業に没頭する。
オタマジャクシ型の黒ずみを隅から剥がし続けていると、いつの間にか空は夕日の色を湛えていた。掃除は問題のないところまで終わっていた。
ミネタが親切にも掃除道具を片付けてくれるというので、他の生徒たちはぞろぞろとプールサイドへ上がり、ホースで足を洗って楽しんでいる。ミネタを手伝う橋本に、安易に人と関わらない僕と関根。プールの底にいるのは四人で、他者はそれをプールサイドから見下ろしているように感じた。
しかしそんなことはなく、人の関心はホースでの水浴びに寄っていた。誰もこちらを気にしていないので僕は関根に話しかける。関根からまともな返答を受け取るための基準として、自分の中に「知っている他人に見られていないこと」を設けている。関根が選択している生き方に僕も適応するのが、関根のことを理解するのに最適だと考えたからだ。
「今夜会えないかな」
凛とした声の持ち主は、どこで? と答える。
「ここで」と僕は返す。
黒い長い髪の持ち主はびっくりしたような顔の後、表情筋をフル稼働させ笑みながらいいよと言った。
清原教諭に見られるように、我が校の教師陣、特に体育系と管理職たちには責任感が欠如していた。僕が職員室に用で訪れるときには、いつも書類がないやら、君の仕事が遅いからこうなるんだといった発言が上層部から聞こえる。
安全管理のためでさえ現場に来ない教師が体育科の主任なのだから、鍵を返すのが一日遅れたところで何も問題ないと考える。僕は橋本から鍵を借りたい旨と理由を伝えると、橋本は「おもしろそうじゃん?」と言って鍵を差し出してくれた。
僕らは掃除用具を持って底から這いあがる。そして新しい水を入れ始める。
四人でプールが透明な水で満たされるのを確認すると、それぞれが帰路につく。ミネタと橋本は案の定二人で帰る。僕と関根はそうではない。夕方六時ごろの下校時は、部活動上がりの生徒が多くいるので、関根は仮面の中身を見せないように用心していることだろう。まだそのハードルを飛び越えようとするのには時期尚早だった。
自転車のペダルを強く踏み込み、その反動で逆回りに蹴りだすと、軸ごと勢いよく空転する。それが止むと立ち漕ぎをして体全体に風を浴びる。西には太陽が住宅街に沈み、東では学校の校舎裏から月がのぼっていた。
家に着くと母が夕食の準備をしている。これからまた出かけると伝える。なんのため? 友達の相談に乗るため。
じゃあしょうがないわね、と言う母の顔が少し寂し気で胸が痛んだが、痛みが霞むほど月は美しかった。
シャワーを浴び、制服の下に水着を着こんで家を出る。
月が夜空のものになろうとしてきた頃、関根が自転車を転がして歩いてくる。僕が空いた右手で大きく手を振ると、彼女の手がハンドルの上で小さく振り返される。
この小一時間で、彼女はすっかり変貌を決めた。先程展開されたような、真顔から小悪魔的笑みへの表情の変化の過程には存在しなかった照れ笑いがそこにはあった。その顔がどんどん近づくにつれ、その表情に違和感がないことを確認する。自分の心拍が早まっていることも否応なしに認識する。
金網脇に自転車を停め、錆びた鉄扉の南京錠を開ける。金属と金属が擦れあう音が鳴る。人のいない学校にその音は昼間よりも響いて聞こえる。
小階段を上りトイレの角を曲がると、そこにはやはりプールがある。水全体が黒に染まり、遠くの街灯が鈍角で反射し薄ぼけている。それよりも確かな丸い光が波に揺られながら浮かんでいる。僕らが移動するたびに、その光もついてくる。
その光は、僕と月を結ぶ光だ。月との距離は遠すぎるから、僕は手近な水にその姿を投影する。すると似たような形の光が触れられる場所に再現されるから、僕はそれに触ろうとする。実際にその光に触れてしまうと、波が強くなり、その像はめちゃくちゃになってしまう。水を掬うと両手の平の中で新しい光が生まれる。その光を関根に見せる。きっと彼女に見えている光は違う形をしているだろうし、水面には僕の顔も映っているだろう。僕は水面に映る関根の顔を凝視した。そして本物の関根を見つめた。彼女は不思議そうな顔で笑った。新たな一面だ。
水を思いっきりプールに投げ返して、準備運動をする。体の末端から、中心にかけて、徐々に血を巡らせていく。盗み見た屈伸する関根のくるぶしが、月明りに照らされ輝いている。
最低限の準備運動だけ終えると関根は制服を一目散に脱ぎ捨てスクール水着姿になった。そして月の上弦をなぞるような軌道で水に飛び込む。揃えた両手からの着水。それは錐で木材に切り込みを入れるように不乱で、水しぶきはあまり立たなかった。微かな飛沫だけが僕の白ワイシャツを濡らし肌色が透ける。僕も制服を脱ぎ捨てる。そして足から思いっきり飛び込む。続いて浮上。
まつ毛が濡れると世界がきらめく。全ての光が目の前で屈折して美しく映る。きれいな光はもちろん、どんなに汚い光でも、ぼやけてしまえばそれなりに美しい。だから涙が出るような瞬間、僕は世界を美しいと思う。悲しんでいる僕が存在していながら、それを賛美している僕がいる。
関根は飛び込み台の下に行くと、一度沈み込み壁を強く蹴りだす。そして泳ぎだす。水面下で数秒伸びると再浮上し、手を動かし始める。
見事なストロークだ、と思った。水泳に明るくない僕にも伝わるのは、洗練され無駄を省きとったその機能性の美だった。関根についてまだ掴みきれないところがあるものの、乱れなく進み続けるためのその動きに、彼女の核のようなものを垣間見た気がした。
僕も泳ぎ始める。不完全な平泳ぎで不格好に泳ぐ。時々すれ違う関根が「犬かきみたい」と言う。足の動きは推進力を生まず、手は水を上手くかきわけられず力を逃がしてしまっている。息継ぎが頻繁でほぼ顔を出しっきりになっている、とのことだった。「いや、犬かき以下だな」と彼女は後から付け加えた。
泳ぎ疲れてプールサイドに二人で寝転ぶと、いつの間にか星が出ていた。ネオンの少ないこの町では、季節に関係なく星が見える。夏の大三角はまだ夜空の端の方に見えるだけだが、名も知らぬ星々が夜空を彩っている。
「泳ぎ上手かったんだな」
「一応ね。今も続けてるんだけど、もう選手になりはしないの。あくまで泳ぎを楽しんでいるだけ」
「もちろん泳ぎは好きなんだよね? でなきゃあそこまで上手くなれない」
「うん、でももういいの」
「好きなら続けてみればいいんじゃない? 俺、関根の泳ぎ好きだよ。もっと見てたい」
月夜のプールに沈黙が訪れる。この間は作られた間か。素の彼女が必要としている間か。
再び言葉が生まれる。
「なら、また一緒に泳ごうよ。小出君だってたくさん泳げば犬じゃなくなるかもしれないよ」
犬というのは、あくまで泳ぎのことだけを言っているのか。それとも僕の関根に対する姿勢のことに含みを持たせているのか。どこまで考えが及んでいるのかは、夜のプールのように透明のはずで不透明だ。
もっと強い光が必要なはずだと思った。月よりも明るい存在に、彼女にとってならなくてはならない。そうも思った。
気づいたらもう一度プールに飛び込んでいた。無我夢中で泳ぎ始めると、関根もまた泳いでいた。夜風と二人の動きだけが水面を揺らしていた。