第10話 珠の夢
第七章「選ばれし名、選びゆく道」も第10話です。
前話まで、慎悟と伊織、それぞれの脇腹の痛みと"救えなかった一射"という悪夢を追ってきました。今話では、その夢が二人だけのものではなかったことが明らかになります。
七月二十七日、夜明け前。境内で交わされる何気ない会話の裏に、静かに、しかし確実に物語の核心が動き始めます。
短い一話ですが、次話への布石として大事な意味を持つ回です。どうぞお付き合いください。
(本作の執筆にはAIを活用しています)
七月二十七日、夜明け前。
慎悟もまた、同じ夜、別の夢を見ていた。
寿満寺の境内には、まだ夜の匂いが残っていた。
杉木立の隙間から、薄い朝靄が地面を這っている。蝉はまだ鳴いていない。聞こえるのは、遠い沢の水音と、時折葉を揺らす風だけだった。
北潟慎悟は、宿坊を抜け出し、一人で石段の上に立っていた。
眠れなかったわけではない。目が覚めてしまった、というほうが近い。脇腹の傷が、昨夜よりも重く疼いている。歩くたびに、鈍い痛みが奥から突き上げてくる。慎悟は無意識に、その辺りへ手を当てた。
――夢を見た。
暗闇だった。何も見えないほどの闇の中で、脇腹の痛みだけが鮮明だった。焼けた鉄線を押し込まれているような感覚。そこへ、青い光が差した。
光の中心には、珠があった。
掌に収まるほどの、青い珠。表面には、銀色の一文字が浮かんでいた。
「理」
その珠を握った瞬間、痛みが消えた。完全に、だ。身体が羽根のように軽くなり、頭の中まで異様なほど澄み渡っていく感覚があった。ところが、手を放した途端、痛みは元通りに戻ってきた。
慎悟は自分の右手を見下ろす。当然、そこには何もない。
「……なんだったんだ、あれ」
夢だと分かっている。分かっているのに、珠の重みも、表面の滑らかさも、手のひらにまだ残っているような気がしてならなかった。
◇
背後から足音がした。
「慎悟?」
振り返ると、坪江南海が立っていた。寝間着の上に薄い羽織を引っかけただけの姿で、髪も少し乱れている。
「起こしたか?」
慎悟が聞くと、南海は首を横に振った。
「ううん。あたしも、なんか変な夢見ちゃって」
その一言で、慎悟の表情が変わった。
二人は並んで境内を歩いた。慎悟は、昨夜の夢について語った。
暗闇のこと、脇腹の痛みのこと、青い珠のこと、そこに浮かんだ「理」という文字のこと。握っている間だけ痛みが消えたことも。
「夢にしちゃ、感覚が残りすぎてる」
慎悟自身、半信半疑のまま呟く。
そこで、南海が不意に足を止めた。
「……慎悟」
「ん?」
「あたしも見たよ」
「何を」
南海は、自分の胸元にそっと手を置いた。
「珠」
慎悟の眠気は、その一言で完全に消え去った。
◇
南海の夢は、慎悟のものとはまったく違う色をしていた。
見渡す限り、桃色の花びらが舞う空間。空も地面も曖昧で、そこがどこなのか、いつなのかも分からない。
淡い桃色の光が世界全体を満たしていて、それは美しいのに、光の届かない縁だけが、やけに冷たく見えた。
周囲には、無数の人影があった。子供。学生。大人。老人。
誰もが俯き、声も立てずに泣いていた。顔は見えない。
南海の足は竦みかけたが、声のほうが先に出ていた。
「大丈夫?」
返事はない。別の影にも声をかける。それでも、誰も答えなかった。
それでも南海は、その場を離れようとしなかった。一人の影へ、手を伸ばす。
掌の先に、桃色の光が集まっていく。やがてそれは、小さな珠になった。
桃色の珠。表面に、銀色の文字。
「慈」
「じ……?」
読み上げると同時に、珠を握った。
その瞬間、それまで聞こえなかった声が、一気に流れ込んできた。
「助けて」「誰か気づいて」「一人にしないで」――言葉にならない声が幾重にも重なり合い、南海の胸を内側から押し潰していく。
呼吸が浅くなり、膝から力が抜けていく。
それでも南海は、珠を手放さなかった。
「全部は無理かもしれないけど……一人にはしないから」
声にした瞬間、桃色の光が広がった。泣いていた影たちの輪郭が、わずかに柔らかくなる。
完全に救われたわけではない。涙も消えない。けれど、「一人ではなくなった」ように、南海には見えた。
そこで目が覚めたのだという。
「『慈』なんて、普段ぜったい夢に出てこないよね」
南海は少し笑ってみせたが、慎悟は笑えなかった。
自分は「理」。南海は「慈」。同じ夜に、同じ珠を、同じように銀色の一文字とともに見た。偶然とは、思えなかった。
◇
境内を歩いている最中、慎悟の脇腹に鋭い痛みが走った。
「……っ」
身体が揺れる。南海がすぐさま支え、慎悟の腕を自分の肩へ回した。無理に動かさないよう、自分の身体を寄せる。
「悪い……」
「謝らなくていいよ」
南海の声は柔らかかったが、その目は慎悟の脇腹から離れなかった。
「昨日より痛いんじゃない?」
「……ちょっとだけな」
「それ、慎悟の『ちょっと』だから信用できない」
頬を軽く膨らませる南海に、慎悟は苦笑した。
「分かった。無理しない」
「ほんと?」
「たぶん」
「そこは『ほんと』って言ってよ」
重くなりかけていた空気が、その一言でふっと緩んだ。
慎悟はいつも「守る側」でいようとする。だが南海は、慎悟が無理をしている時ほど、誰よりも早く気づいてしまう。
差し出された肩の重みが、そのことを黙って教えていた。
◇
痛みが落ち着くと、慎悟は身体を起こした。
「ありがとう、南海」
「どういたしまして」
一瞬、視線が絡んだ。中学時代から続いている二人の距離感は、今更言葉で確かめ合うようなものではなかった。
南海が、周囲へ小さく視線を走らせる。慎悟も、つられるように境内を見回した。
人影はない。宿坊にも動きはなかった。二人とも、確かめた理由を口には出さなかった。
「……誰もいないね」
「ああ」
慎悟が南海の肩へ軽く手を添え、顔を近づける。触れるだけの、短いキスだった。数秒で離れる。
南海の頬がじわりと赤くなり、慎悟も照れ隠しのようにわずかに視線を逸らした。
◇
「朝から何をしているのかしら」
背後からの声に、慎悟と南海の身体が硬直した。
石段の下に、山室綾実と波松伊織が立っている。
綾実は涼しい顔のまま、伊織はそっと視線を逸らしていた。
「ち、違うの!」
南海の声が裏返る。慎悟は小さく息を吐き出した。
「いや、違わないだろ」
「慎悟!」
「別に説明はいらないわ」
綾実が涼しく言い、伊織はそっと頭を下げる。
「……お邪魔をしてしまいましたね」
重い沈黙が流れかけたが、綾実の目つきがすぐに変わった。
「それより、慎悟。私たち、あなたを探していたの」
「俺を?」
綾実と伊織が、顔を見合わせる。
「夢のことで」
慎悟と南海の表情が、同時に強張った。
「……珠か?」
今度は、綾実と伊織の目が見開かれる番だった。
四人は人目を避けるように、境内の石垣近くへと移動した。
◇
綾実の見た夢は、紫色をしていた。
夜のようで、星のない空間。足元には、巨大な水面が広がっていた。
水面には、無数の未来らしき映像が映っている。慎悟たちが勝つ未来。負ける未来。笑っている未来。誰かが倒れる未来。
同じ人物が、別の未来ではまるで違う選択をしている。
普段から占いで未来の可能性を読もうとしてきた綾実の背筋を、冷たいものが伝った。
未来がひとつではない。何が本当かも分からない。どれを信じればいいのかも分からない。
水面へ触れようと手を伸ばす。すると、紫色の珠が現れた。表面には銀色の文字。
「澄」
珠を握った瞬間、荒れていた水面が静まっていった。無数の未来の映像が、一つずつ消えていく。最後に残ったのは、現在の綾実自身の姿だけだった。
そこで、綾実は気づいた。未来を見ることと、未来を決めることは違う。
未来を知ろうと焦れば焦るほど、自分の心のほうが濁っていく。だからこそ、先に自分自身の心を澄ませなければならない。
夢の中の自分が、静かに呟いていた。
「……運命は、命令じゃない」
綾実の脳裏に、前日の朝に引いた「戦車」の絵柄が重なった。二頭の獣は、まだ別々の方向を向いたままだった。
けれど今、この寺の下で四人が同じ夜に、それぞれ違う色の珠を見ている。もしかしたら――あの二頭がひとつにまとまる条件は、もうすでに動き出しているのかもしれない。
そこで目が覚めたのだという。
「俺が『理』。南海が『慈』。綾実が『澄』……」
慎悟が整理するように呟くと、三人の視線が、自然と伊織へ向いた。
◇
伊織の表情が、それまでより明らかに硬かった。
「私は……皆さんとは少し違います」
そう前置きしてから、伊織は語り始めた。
夢の場所は、中学時代の弓道場だった。夕暮れの、誰もいない射場。的の前に、布目優が立っていた。
「優」
呼びかけると、優が振り返る。一瞬だけ、昔と同じ笑顔があった。
だが直後、空気が凍りついた。皮膚が装甲へと変わり、手には凍珠弩が現れる。布目優が、凍珠になった。
伊織の手には清澄弓があった。凍珠が躊躇なく矢を放ち、伊織も応戦する。
かつて同じ弓道場で、同じ的を見ていたはずの二人が、互いを殺そうと矢を放ち合っていた。
「優、戻ってきて!」
呼び続けても、返事はない。伊織は攻撃できなかった。凍珠を撃てば優も傷つく。だが撃たなければ、自分が死ぬ。
そこへ、白い光が差した。白い珠。表面に銀色の一文字。
「浄」
珠を握った瞬間、清澄弓が白く輝いた。「これなら倒せる」と、直感が告げていた。
矢をつがえ、照準を定め、放つ。白い矢が、凍珠の胸を正確に貫いた。
凍珠が倒れる。勝った――そう思う間もなく、伊織は弓を放り出すように駆け寄っていた。
「優!」
装甲が消えていく。横たわっていたのは、布目優だった。
その胸には、伊織自身が放った矢が突き立っていた。呼吸は、なかった。
倒したのは凍珠だった。だが同時に、殺したのは優だった。
弦を弾いた指先の感触。矢を放った瞬間の、あの確かな手応え。倒れた優の重さ。夕暮れの弓道場に落ちる静けさ。
それらすべてが、身体に染みついたまま、伊織は目を覚ましたのだという。
朝の境内に、初めて本格的な蝉の声が一つ響いた。
沈黙が落ちる。伊織の唇が、二度、開きかけては閉じた。
三度目に、ようやく声になる。
「……手が、まだ震えています」
弓を引いていた指先を、もう一方の手できつく包み込む。
「凍珠を倒すことではありません。私が優を救おうとした結果……私自身の手で、優を殺してしまうことです」
普段、感情をあまり表に出さない伊織だからこそ、その小さな震えは、他の誰の言葉よりも重く三人の胸に落ちた。
◇
伊織の言葉を聞いた瞬間、慎悟の脳裏に自分の言葉が蘇っていた。
――次に会った時は、凍珠から優を取り戻す。
あの時は、本気だった。今も、優を救いたい思いに変わりはない。
だが、凍珠と優は同じ身体だ。鬼だけを倒し、人間だけを残せる保証など、どこにもない。
鬼化を解除する方法も、まだ確立されていない。霊護獣にそんな力があるとも聞いていない。
それなのに自分は、「取り戻す」と言い切った。
「……俺、簡単に言いすぎたのかもしれない」
慎悟が呟く。
「優を救える保証なんてない。なのに俺が『救える』みたいに言ったから……伊織も、綾実も、それを信じたんじゃないのか」
南海が、慎悟の袖をそっと掴んだ。
「でもさ、慎悟。希望を持っちゃいけないわけじゃないと思う」
慎悟を見つめる南海の目には、迷いがなかった。
「ただ、『絶対なんとかなる』って思い込むのと、『なんとかする方法を探す』のは、違うんじゃないかな」
綾実が続く。
「可能性が低いことと、可能性がないことも違うわ。未来は一つではない。少なくとも、私はそう思っている」
伊織が、静かに首を横に振った。
「私は慎悟さんの言葉を恨んでいません」
少しの間があった。
「でも――次は、希望だけではなく方法も探したいです」
誰か一人が正解を口にして終わる話ではなかった。
四人それぞれの言葉が重なり合い、その重なりの中で、慎悟自身の考えが少しずつ更新されていくのが分かった。
◇
慎悟の中に、昨夜見た一文字が、静かに蘇ってきた。
「理」
冷たくなることではない。仲間を見捨てることでもない。希望を否定することでもない。
救いたいという願いを、どうすれば現実にできるのかを考えること。
救えると信じる。同時に、救えない可能性からも目を逸らさない。どちらからも逃げない。
それが「理」なのだと、今なら分かる気がした。
慎悟は、握っていた拳をゆっくりと開いた。伊織を見る。
「約束を取り消す気はない。優は取り戻す」
そこで一度言葉を切り、続けた。
「でも今度は、『絶対できる』なんて根拠なしには言わない」
「凍珠だけを倒して、優を生かす方法があるのか。鬼から人間へ戻す方法があるのか。まず、それを探す」
南海が、柔らかく笑った。綾実がわずかに頷く。伊織は、少し間を置いてから答えた。
「……はい」
伊織の中で、静かに何かが動いていた。夢の中で見た「浄」は、確かに凍珠を倒した。だが優は救えなかった。
ならばあれは、まだ完成していない「浄」なのかもしれない。倒す力ではなく、いつか鬼の力だけを洗い流し、凍珠と優を切り離す一射――そこへ辿り着ける日が、来るのだろうか。
分からない。それでも、「分からない」と認めることと、「諦める」ことは違う。伊織はその考えを、自分の胸の内だけに留めた。
◇
四人で、それぞれの夢を整理した。
慎悟――「理」の蒼珠。南海――「慈」の桃珠。綾実――「澄」の紫珠。伊織――「浄」の白珠。
四つとも、今の本人の性格と奇妙なほど重なっている。
だが同時に、それだけではないのではないか、という疑問も残った。今の自分を映しているだけではなく、これから身につけるべき心を示しているのかもしれない。
誰も、その答えを口にはしなかった。
「宿坊に戻ろう」
慎悟が言った。
「みんなにも聞いてみる」
「まさか……」
南海が呟くと、慎悟は小さく頷いた。
「ああ」
宿坊のほうへ視線をやる。
「俺たち四人だけじゃないかもしれない」
四人は歩き出した。朝の光が、少しずつ強くなっていく。慎悟は、もう一度「理」という文字を思い浮かべていた。
昨夜までの自分にとって、「救う」とは、諦めないことだった。だが今朝から、その意味が少しだけ変わっている。
諦めない。でも目を逸らさない。願う。でも考える。
希望を示す者だからこそ、その希望をどれだけ現実に近づけられるかにも、責任を負わなければならない。
それが、「理」という一文字が慎悟に与えた、最初の意味だった。
四人の背中が、宿坊のほうへと歩いていく。
友紀は。蓮は。翼は。翔一は。健太は。歩美は。美奈子は。莉奈は。
彼らもまた、同じ夜に、それぞれ違う色の珠を夢に見ていたのだろうか――四人は、まだその答えを知らない。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
慎悟の「理」、南海の「慈」――二人がそれぞれ違う色の珠を見ていたという事実は、まだ小さな違和感にすぎません。しかしこの違和感は、次話で一気に全員を巻き込む形で膨らんでいきます。
次回、第11話「十二個の珠」。
宿坊に戻った慎悟たちを待っていたのは、自分たちだけではなかったという驚きです。十彩獣団全員、そして美奈子・莉奈までもが、同じ夜に珠の夢を見ていたことが判明します。夢と現実の境界が崩れる回になりますので、ぜひ楽しみにしていてください。
次話もよろしくお願いいたします。




