第1話 十本の鍵
お読みいただき、ありがとうございます。
『十彩獣団』、第七章
「選ばれし名、選びゆく道」
の開幕です。
全十六話で、夏の一週間ほどを描く章になります。
どうぞ最後までお付き合いください。
◇
まず、これまでの流れを少しだけ。
前章の終わりで、凍珠が加わり、
金津美里の軍団「覇竜十傑」が十人揃いました。
ここで区切りがつき、
物語はひと息つくように見えます。
けれど、第七章はそこから始まります。
十人が揃うことは、完成なのか。
それとも、別の何かの入口なのか。
第1話は、その問いを抱えた美里の視点で進みます。
◇
第七章のテーマは、
「選ばれていた者」と
「自分で選ぶ者」
の違いです。
名前も、力も、役割も、
本人の意思より先に用意されていたとしたら。
それでも人は、
自分の人生を自分で選べるのか。
この問いを、敵味方の両側から描いていきます。
◇
第1話は、地下室が舞台です。
戦闘はありませんが、
静かに背筋の冷える場面が続きます。
音の描写が多い回ですので、
できれば夜、静かな場所でお読みください。
◇
ご注意をひとつ。
本章には、流血や暴力、
宗教施設への襲撃といった描写が含まれます。
苦手な方は、ご自身の判断でお進みください。
この物語は完全なフィクションです。
登場する人物・団体・地名は、
実在のものとは一切関係ありません。
それでは、第1話「十本の鍵」をどうぞ。
棺の中から、声がした。
低い唸り。
低い念仏。
そして、女の含み笑い。
まだ、蓋は開いていない。
――七月二十六日、夕暮れ。
勝川市の山並みへ沈みかけた夕陽が、金津邸の窓を赤く染めていた。
畳の匂いと、蝉の声。
いつもと変わらない夏の音の中で、金津美里は縁側に立ち、庭を見つめていた。
覇竜十傑最後の一人となる凍珠が加わってから、それほど時間は経っていない。
烈王。霧香。牙蓮。魔盾牙。滄爪。棘王。咬覇。牛竜。角羅。凍珠。
美里は指を折りながら、その名を一つずつ思い浮かべていく。
十人。
ようやく揃った。
そう思った瞬間、胸の奥で何かが小さく波打つのを感じた。
達成感とは少し違う。
もっと冷たい、予感めいた感覚だった。
きっかけは、以前巨徳が口にした言葉だった。
「十人が揃えば、次の封印へ進めます」
それだけ言って、巨徳はそれ以上を語らなかった。
美里も、あえて聞き出しはしなかった。
必要な時が来れば、向こうから話す。
そう考えていたからだ。
しかし今、その「必要な時」が来た気がした。
美里は縁側から立ち上がり、廊下を奥へと進んだ。
金津邸の一番奥。
普段は誰も近づかない、地下へ続く階段の前に立つ。
◇
地上ではまだ夏の夕暮れだった。
しかし一段、また一段と降りるごとに、空気の質が変わっていく。
石造りの階段。
古い漆喰の壁。
天井から垂れた電線に、裸電球が一つだけ灯っている。
湿った石の匂い。
足音だけが、やけに大きく響く。
地上の蝉の声は、階段を五段も降りると、もう聞こえなくなっていた。
代わりに聞こえるのは、自分の呼吸と、靴底が石を擦る音だけ。
夏の熱気が、まるで水に沈むように消えていく。
美里は寒さを感じたわけではない。
ただ、体温を吸い取られていくような感覚があった。
普通の人間なら、この時点で足を止めるだろう。
しかし美里は止まらなかった。
腰の脇差――国影――へ、右手をそっと添える。
それだけだった。
呼吸は、乱れていない。
長い階段を降りきると、地下室が現れた。
そこは単なる物置ではなかった。
壁際に並ぶ、古い金津家の家紋が刻まれた木箱。
年代の分からない文書の束。
白や黒の壺。
錆びついた刀が何振りも立てかけられている。
用途の分からない仏具。
蓋の閉じられたままの古い箱がいくつも積まれている。
何代もの金津家当主が「捨てなかったもの」が、そのまま沈殿しているような空間だった。
美里は、この地下室のすべてを把握しているわけではなかった。
祖父も、その前の代も、ここに何を残したのか、正確には語らなかった。
ただ、代々「触れるな」とだけ言われてきた場所。
美里はその「触れるな」を、生まれて初めて破ろうとしていた。
◇
地下室の最奥。
壁際に、一基だけ異様に大きな木棺が置かれていた。
黒く沈んだ木材。
表面には無数の傷。
それは経年による劣化だけではない、明らかに人の手で刻まれたものだった。
文字とも模様とも判断のつかない、古い刻印が全面を覆っている。
通常の人間を納めるには大きすぎる。
しかし、巨徳ほどの巨躯を納めるにしては小さい。
美里は腕を組み、しばらくその棺を見つめた。
「……誰の棺よ、これ」
呟いても、当然、答える者はいない。
死体だろうか。
白骨だろうか。
それとも、乾いたミイラのようなものが横たわっているのだろうか。
あるいは――鬼。
美里はいくつかの可能性を頭の中で並べたが、どれも確信は持てなかった。
答えは、開けなければ分からない。
美里はゆっくりと歩み寄り、棺の蓋へ両手をかけた。
◇
長い年月で、木材同士が固く食い込んでいる。
最初は、びくとも動かなかった。
美里は姿勢を低くし、両足を踏ん張り、もう一度力を込める。
ミシ、と低い軋みが響いた。
続けて、もう一度。
ゴ、ゴ……。
蓋が、ほんの数センチずつ、内側の暗闇を覗かせていく。
美里の額に、汗が一筋伝った。
熱による汗ではない。
もし何かが飛び出してくれば――斬る。
美里は左手を脇差の柄へ移し、右手だけで蓋を押し続けた。
やがて、蓋は音を立てて完全に横へずれ落ちた。
土埃が舞う。
美里は棺の中を覗き込んだ。
そこにあったのは、想像していたどれとも違った。
死体はない。
白骨もない。
鬼の姿もない。
棺の底には、黒い布が一枚敷かれているだけだった。
「……何、これ」
その黒い布の上に――十本の鍵が、規則正しく並んでいた。
◇
美里は棺の縁に手をかけ、一本ずつ視線を移していった。
一本目。骨を削り出したような、白い鍵。
表面には細かな亀裂が走り、よく見ると、それはまるで人間の指の骨を無理やり鍵の形へ整えたもののように見えた。
二本目。巨大な獣の牙を思わせる、湾曲した鍵。
肉食獣の牙へ、後から無理やり歯型のような刻み目を彫りつけたような、いびつな姿をしている。
三本目。異様に長い。
美里の前腕ほどもある細長い軸に、経文のような文字がびっしりと刻まれていた。
四本目。十本の中でもっとも小さく、子供の小指ほどしかない。
同時に、もっとも黒い。
裸電球の光を、まるで吸い込むように反射しない。
五本目。青黒い金属製。
冷たい光沢を放ち、触れる前から指先が冷えるような気がした。
六本目。石器のように粗い造りで、これが本当に鍵なのか、それとも儀式の道具なのか、美里には判別がつかなかった。
七本目。軸の周囲に、細い鎖が幾重にも巻きついている。
八本目。柄の部分に蓮華を思わせる装飾が施され、美しさと不吉さが同時に漂っていた。
九本目。先端が二股に分かれた異形。
これが通常の鍵穴へ収まるとは、とても思えない形をしている。
十本目。一見すると、ただの古い鉄鍵だった。
しかし、それだけに――残りの九本と並んでいると、逆に強い違和感を放っていた。
美里は、十本すべてを目に焼きつけるように見つめた。
心臓が、静かに、しかし確かに速さを増していく。
これは、ただの発掘品ではない。
そう感じた。
◇
美里は、二本目の牙のような鍵へ、そっと手を伸ばした。
その瞬間だった。
「ゥゥゥゥ……」
低い唸り声。
美里の手が止まる。
反射的に周囲を見回す。
誰もいない。
地下室には自分一人だけだった。
もう一度、鍵へ視線を戻す。
今度は、ギィ……。
金属同士を、ゆっくりと擦り合わせるような音。
続いて。
「……南無……南無……」
遠くから響くような、低い念仏。
さらに。
「ふふ……ふふふ……」
女の、含み笑い。
美里はここで初めて、音の出所が地下室のどこかではないことに気づいた。
音は――鍵そのものから聞こえていた。
耳を澄ませる。
唸り。念仏。金属を擦る音。女の笑い声。
水がどこかを流れるような音。
そして、遠くで何か巨大なものが地面を踏みしめるような、重い振動。
十本の鍵が、それぞれ異なる気配を放っている。
常人であれば、蓋を閉め、階段を駆け上がっていただろう。
しかし美里は、後ずさりすらしなかった。
むしろ、興味が恐怖を押しのけていく。
「……鍵のくせに、ずいぶん賑やかね」
口元に、笑みが浮かぶ。
これは道具ではない。
何かへ繋がっている。
美里の直感が、そう告げていた。
◇
牙のような鍵に、指先が触れかけたその時。
背後で、金属が鳴った。
シャン。
錫杖の音。
美里は振り返らなかった。
音だけで、誰か分かる。
「遅かったわね、巨徳」
暗がりの奥から、灰褐色の巨体がゆっくりと歩み出てくる。
首に掛けた百八の黒骨数珠が、一歩ごとに低く鳴る。
三メートルを超える冥土錫杖を右手に携え、その顔には常と変わらぬ、穏やかな微笑があった。
巨徳は棺を見て、深く頭を垂れた。
「ついに、お開けになられましたか。焔羅様」
美里は棺を指し示す。
「これがあなたの仲間? 随分と静かな仲間ね」
短い沈黙。
錫杖の先が、石の床を一度、静かに叩いた。
コン。
「いいえ」
「違うの?」
「これは――棺ではございませぬ」
美里が、ゆっくりと振り返る。
「棺じゃない?」
巨徳の目の奥に、わずかに金色の光がにじんだ。
「鍵櫃にございます」
美里は、その言葉を一瞬、飲み込めなかった。
「……鍵櫃?」
「文字通り、鍵を納めるための櫃にございます。これは棺ではございませぬ。ゆえに――中に眠る者など、最初からおりませぬ」
美里は視線を、木箱の底へ落とした。
黒い布。十本の鍵。そして、誰も入っていなかった空間。
自分は、死体でも骨でも鬼でもなく、ただの「入れ物」を開けたのだ。
そう理解した瞬間、腹の底が、じわりと熱を持った。
◇
「じゃあ、これで何を開けるの?」
美里の問いに、巨徳はすぐには答えなかった。
再び、鍵の一本から低い唸りが響く。
沈黙が、地下室に落ちる。
やがて、巨徳が口を開いた。
「眠っておられます」
「誰が」
「我が同胞たちが」
その言葉は、美里が初めて聞くものだった。
「巨徳、あなたに――同胞がいたの」
巨徳が、短くうなずいた。
「私はかつて、無選涅槃宗という教えに連なる僧の一人でございました。同胞たちとともに、冥嶽十一尊と呼ばれておりました」
美里は、その名を口の中で繰り返す。
「冥嶽、十一尊……あなたを入れて十一人ってこと?」
「左様にございます」
「じゃあ、残りの十尊は?」
巨徳は答える前に、わずかに目を伏せた。
「私だけが、先に現世へ戻りました。残る十尊は――いまだ、封印の中にございます」
「どこにいるの」
「勝川市の山中にございます」
美里の眉が、かすかに動いた。
そこは金津家所有の山林。
そして、かつて自分が人間としての人生を捨て、焔羅となった土地でもある。
「あの洞窟?」
「正確には」
巨徳の声が、一段落とされる。
「そのさらに奥にございます」
美里の中で、これまで断片だったものが、少しずつ繋がり始めていた。
「だったら、どうして今まで開けなかったの。鍵ならもうずっと前からここにあったんでしょう」
「鍵がなかったからではございませぬ」
「じゃあ何」
「開ける者が、揃っていなかったからにございます」
沈黙。
美里は自分の中で、数字を並べていく。
十本の鍵。十個の棺、と巨徳は言った。
そして――覇竜十傑、十人。
「……まさか」
「凍珠殿がお加わりになったことで」
巨徳が、深く頭を下げる。
「十の席、すべてが満ちましてございます」
烈王。霧香。牙蓮。魔盾牙。滄爪。棘王。咬覇。牛竜。角羅。凍珠。
十人。
覇竜十傑は、完成形ではなかった。
十人という数字そのものが、次の封印を開くための、ただの鍵穴だったのだ。
足の裏は、床に張りついたまま動かない。
指先が、無意識に鍵の輪郭をなぞっていた。
自分の計画の先に、自分すら知らなかった計画が存在していた。
美里は一本目の鍵――あの白い、骨のような鍵を持ち上げる。
念仏の声が、わずかに大きくなる。
「つまり、覇竜十傑が十人揃ったことで」
光へかざす。
「次の扉が開いたってことね」
「左様にございます」
美里の口元に、深い笑みが浮かぶ。
「面白いじゃない」
その時、地の底から見上げるように、巨徳の目がわずかに美里を映していた。
十五歳の少女を見ているのか、それとも、その奥にある別の何かを見ているのか。
それは、美里自身にも分からなかった。
◇
美里は鍵を布の上へ戻すと、懐からスマートフォンを取り出した。
覇竜十傑全員へ、一斉に文面を送る。
『全員、金津邸へ来なさい。今すぐ』
送信してから、数秒。
既読の通知が、次々と画面に並んでいく。
霧香。烈王。牙蓮。魔盾牙。滄爪。
一つ、また一つと増えていく。
最後に既読がついたのは、凍珠だった。
十。
美里は画面を見つめ、小さく頷いた。
続けて、別の相手へ連絡を入れる。
鬼の医者団所属兼運転手・幽響こと畝祐介。
鬼軍団輸送・兵站担当・轟甲こと樋山敏明。
「ワゴンを二台。それからトラックを一台。勝川市へ行くわ」
短い間を置いて、美里は付け加える。
「山へ行く」
鬼軍団は、単なる怪物の群れではない。
車両を手配し、人員を招集し、目的地へ向けて動く――それは、一つの軍事組織としての動きだった。
美里はスマートフォンを懐へ戻した。
◇
地下室を出る前、美里は一度だけ、鍵櫃を振り返った。
十本の鍵。
先ほどまでと、見た目は何一つ変わっていない。
しかし今は、まるで違うものに見えた。
何百年も、自分たちが来るのを――ずっと待っていたように感じられた。
美里は照明の紐に手をかけ、引いた。
裸電球が消え、地下室が闇に沈む。
その暗闇の中で、十本の鍵からそれぞれ異なる淡い光が、一瞬だけにじんだ。
念仏。唸り。金属の擦れる音。女の笑い。
すべての音が一瞬だけ重なり合い――
そして、完全な沈黙が訪れた。
◇
金津邸の前庭には、二台の黒いワゴンと、一台の大型トラックが停められていた。
覇竜十傑が、次々と集まってくる。
烈王。霧香。牙蓮。魔盾牙。滄爪。棘王。咬覇。牛竜。角羅。凍珠。
十人。
その中央に、美里が立つ。
隣には巨徳。
十本の鍵は、それぞれ黒い箱へ一本ずつ丁寧に収められていた。
どの鍵が、誰の手で使われることになるのか。
それを知っているのは、今のところ巨徳だけかもしれなかった。
美里は車列を見渡し、短く言った。
「行きましょう」
エンジン音が重なり、車列が動き出す。
七月二十六日の夕陽が、金津邸の屋根を最後に赤く照らしていた。
伸びていく車列の影が、庭の敷石の上を長く這っていく。
その先にあるのは、勝川市の山。
何百年も閉ざされていた洞窟が、そこで静かに待っている。
美里はまだ知らない。
そこで眠る者たちの正体を。
四百年以上前から、「焔羅」という名前がすでに存在していたことを。
自分自身もまた、もっと巨大な何かに選ばれている可能性があることを。
――十人が揃ったことは、本当に「完成」だったのだろうか。
それとも――。
第1話を最後までお読みいただき、
ありがとうございました。
第七章の入口として、
まずは静かな一話から始めてみました。
◇
今回いちばん大切にしたのは、
「棺を開けたら、何も入っていなかった」
という反転です。
美里は死体か、白骨か、
あるいは鬼が出てくると身構えて蓋を開けます。
ところが、そこにあったのは
十本の鍵だけでした。
しかもその鍵が、
唸り、念仏を唱え、女の声で笑います。
何もいないのに、何かがいる。
この居心地の悪さを、音で描きたいと考えました。
◇
巨徳の
「これは棺ではございませぬ。鍵櫃にございます」
という一言も、気に入っている場面です。
棺だと思っていたものが、
実は誰も眠っていない入れ物だった。
つまり本当に眠っている者は、
別の場所にいるということになります。
◇
もうひとつ、重要な点があります。
覇竜十傑が十人揃ったのは、
軍団の完成ではありませんでした。
十人という数そのものが、
次の封印を開くための条件だったのです。
自分の計画の先に、
自分も知らない計画がある。
普段は誰にも屈しない美里が、
初めて「見えない大きな流れ」に触れた回でもあります。
美里が最後に浮かべた笑みを、
どう受け取るかは読者の皆様に委ねます。
◇
今回、はじめて名前が出た
「冥嶽十一尊」。
巨徳が「同胞」と呼ぶ彼らが何者なのか。
勝川市の山の奥で、何が待っているのか。
そのあたりは、
少しずつ明らかにしていきます。
◇
さて、次回は
第2話「墓の中の遺物」
です。
舞台は、同じ日の夕方。
場所は、慎悟たちが合宿を続ける寿満寺。
老猿が何度も頭を下げていた、
あの古い無縁墓。
その奥に、何が隠されているのか。
地下で開いた「鍵」の物語と、
墓の中から出てくる「遺物」の物語。
離れた二つの場所で、
同じ夕暮れに、別々の扉が開きます。
そして夕食のあと、
一同の言葉を奪う一枚の絵が広げられます。
どうぞ、お楽しみに。
◇
最後に、お願いです。
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執筆の大きな励みになります。
誤字脱字を見つけられた場合は、
誤字報告でこっそり教えていただけると助かります。
それでは、また次回。
ここまでお読みいただき、
本当にありがとうございました。




