13
泥が舞を終え、舞台袖に下がっても、沈黙が流れた。
そして最初に口を開いたのは王であった。
「左大夫」
そう左弦直に声をかけると、皆弾かれたように王を見た。
「今の娘と少し話をしたい。もう一度呼んでまいれ」
微笑みながら穏やかに言う王を見て、すぐに左弦直は動いた。
舞を見ていたときに王が暗い顔をしていたことは、左弦直は知らない。いや、この場にいる客は皆、舞に見惚れていたため、それを知らなかった。ただ雲洛邦だけが知っていた。
相変わらず物陰から観察を続けていた雲洛邦は、舞の最後に王の表情が再び変化したことも気付いていた。それは思い煩いを吹っ切ったかのような変化であった。
どちらにしろ、王が泥に関心を抱いたのはよい傾向である。あとはその関心を掻き立てるだけであり、そのための手もすでに打ってあった。
雲洛邦はその場をゆっくりと離れ、左弦直の後を追った。
「いない?」
「は、舞を終えると、すぐに屋敷を出たそうでして……」
「娘の前に踊っていた二人は?」
「その者たちはおりましたが、あの娘のことなど知らないと申しております」
左弦直は途方にくれた。王から連れてくるように言われている娘が、さっさと帰ってしまったなど、報告できるはずもない。
困り果てていると、そこに雲洛邦が姿を現した。
「先生、あの娘はどこから呼ばれたのですか」
「どうかしましたか?」
分かっていながらも、知らない振りをして聞き返した。
「先ほどの秦踏を舞った舞妓との面会を、主上が欲しております。ところがすでに帰ったとかで、この屋敷にもういないのです」
「ほう、そうでしたか。いや彼女は次の仕事があると言うことで、ここが終わったらすぐに帰ると言っておりました。これは申し訳なかった」
その返事に、左弦直は血の気が引く思いであった。
「そんな……では主上に何と言えば」
「正直に言えばよろしい。なまじ適当な物言いで取り繕うなら、かえってご不興を買うことになりましょう」
その言葉に左弦直は悩んだが、結局は彼の助言を聞き入れることにした。
宴席に戻った左弦直は、王に雲洛邦から聞いた話をそのまま伝えた。
「申し訳ございませんでした。まさかこの宴の後にさらに予定を入れる者がいるとは思っても見ませんでしたので。私の手落ちでございます」
そう伏して謝ると、王は鷹揚に頷いた。
「それならば仕方がない」
王はただそれだけ言って、深くは追求しなかった。
その様子にほっとしたのは左弦直だけではなかった。その場にいた他の者たちは成り行きを黙ってみていたが、王の言葉にほっとしたのか、再び談笑を始めた。
しかし王はさらに左弦直を呼び寄せ、他の者に聞かれないように囁いた。
「あの娘の舞をもう一度観たい。見つけ出しておくように」
「承知いたしました。必ずお見つけいたします」
左弦直はただ頷くだけだった。
その時、馬範が再び口火を切った。
「まったく、程の重臣とは能天気な連中ばかりだな」
突然の大声に、将軍の李芳然が反応した。
「馬大夫、その言葉は聞き捨てなりませんな」
程の全軍を任されている彼に睨みつけられても、馬範は動じることなく言葉を続けた。
「たかが舞妓でさえ、この国を案じ、秦踏を舞うように命ぜられても心まで賢には売らないことを示したのですよ。このことに感じ入らないのは能天気な証拠です」
彼の言葉に、李将軍は言葉に詰まった。
「彼女が歌った歌の意味が分からなかった者が、この場にいるとは言わせませんよ。さあこの国が辿るのは、歌で歌われていた藷のようになるのでしょうかね」
藷というのは、凡そ千年前の青白時代に、この辺りを支配していた国の名である。一時は南華全体を支配するほどの隆盛を誇ったが、国政の改革を怠ったために時流に乗り遅れ、外交上の失策を重ねた挙句に、摩滅するように滅ぼされた国である。
不遜ともいえるその比較に声を荒げたのは、賢との同盟を進めていた氾欧休であった。
「程の外交が間違っていると言うのか!この痴れ者めが!」
しかし馬範は、喧しげに耳を押さえながら冷静に言い返した。
「そう思ったのなら、そうなのでしょう。しかし今のこの国に、本当に政治外交の何たるかが分かっている者がいるとは思えませんがね」
「どういう意味だ!」
「この国は外交と言えば中原の国との同盟しか選択肢がありません。これなら子供にだってできると言うことですよ」
それに対して于文順が疑問を挟んだ
「分裂時代の遠交近攻は外交の基本だろう」
その言葉を馬範は鼻で笑った。
「書を文字面だけ読んで理解した気になっては、恥をかくだけですよ」
「何だと!」
「遠交近攻というのは天下統一を現実として目指すための外交策だと、理解できていない証拠だと言うことです。果たして、あんたがたは本気で程が天下を治める日が来ると思っているんですか?」
それに対して今度は司馬遥環が口を開いた。
「国政とは時に建前も必要なのだ。わが国はあくまでも涼の再興を目指さねばならない」
「あんたはその建前の意味を本当に分かって使っているのか?真に涼の再興を願うならば、劉氏を我らの主として立てなければならないのだぞ」
それは程という国の持つ、根本的な矛盾であった。
反論できなくなった司馬遥環に対して、今度は弟の遥瑞が兄を弁護した。
「劉氏は天命を失い、国を譲ったのだ。賢が涼の正統な後継である以上、われらが同盟するのは賢以外にありえないであろう」
馬範は哀れむかのような目で遥瑞を見た。
「程が涼の再興を掲げ、かつ賢を涼の正統な後継と認めるというのであれば、程は賢の傘下に入るのが正しく、対等な同盟など論外でしょう。それとも国を挙げて賢に降る覚悟がおありですか」
まさに遥瑞の失言であり、彼は顔を赤くして俯いた。
「お前はただ相手をけなすだけだが、では何をすべきだと言うのだ?」
陰譲活が低い声で尋ねると、馬範は真面目な顔で答えた。
「それは国の方針によって変わりますね。今の程を保ちたいのか、それとも更に国を大きくして、せめて南華の統一を目指すのか。建前ではなく、本音としてどちらにするかによって、当然違うでしょう」
さらに続けようとしたのを、関史軒が遮った。
「今は宴の席である。国政を語る場ではない。慎め」
その言葉に、馬範は興醒めしたように肩を竦めながらも従った。
結局、その後はなんとなく場が白けてしまい、余り遅くなることもなく宴は終わりを告げた。
泥は一人、帰り道を急いでいた。
左弦直の屋敷をすぐに出たのは、単に謎の老人の助言に従っただけではない。実際に帰ってからも仕事があり、明日も早くから仕事があったからである。この点、彼女の義母は決して手綱を緩めることはしなかった。
それでも、屋敷から帰る前に、自分の義姉妹たちに、自分が早く帰ることで姉さんたちに迷惑をかけるといけないから、万が一私のことを聞かれても、他人の振りをしてくださいといった。泥の舞を見ていなかった彼女たちも、単純に自分がこの娘と義理の姉妹だなどと思われたくないという自尊心から、当然のようにその言葉を受け入れた。
それは老人から自分の素性を明かさないようにと言われたことを思い出したからであったし、舞の席で一番奥に座っていた最も高貴な方と思しき人物が、暗い顔で自分を見ていた事に気付いたからでもあった。
――噂が事実なら、あの方は国王に違いない。
その人物が自分に暗い顔を向けていた、という事実は、少女を恐れさせるのに十分であった。
夜道を一人で歩いたことなどないため、恐怖は倍増した。今にも後ろから誰かが追いかけてくるのではないか、と思った。
やっと自分の住む屋敷が見えてきて、ほっとしたとき、突然、目の前に何者かが現れ、声を上げそうになった。
「泥、俺だ、傑だ」
その声に聞き覚えがあり、辛うじて叫び声はあげなかった。
「……傑兄さん?」
半信半疑でそう聞き返すと、その人物が頷いた。月明かりの中、目を凝らしてよく見ると、確かに兄のようであった。
「いままでどこに……」
泥がそう問おうとしたが、相手はそれを遮った。
「俺のことはどうでもいい。お前の周囲はこれから騒がしくなるだろう。そしてお前はこの屋敷を追い出されることになるはずだ」
その言葉に泥は息を飲んだ。
「だが心配することはない。お前は黙って言われるとおり、屋敷を出るように。決して悪いようにはならない。忘れるんじゃないぞ。この屋敷に留まろうと思うな。必ず屋敷から出るんだ」
意味が分からなかったが、それでも泥はただ頷くしかなかった。
「それで兄さんは……」
泥が兄のことを尋ねようとすると、彼は首を振った。
「俺は表立ってお前と会うことはできない。お前の兄は死んだと思え」
それだけ言うと、闇の中へと姿を消した。
泥は呆然とそこに立ち尽くした。




