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それから三日過ぎた日の夜、辛家の屋敷の離れで泥は一人で舞の練習をしていた。
一度見ただけの踊りを、その記憶だけを頼りに再現しなければならないのは、大変であった。しかし彼女はその難しさよりも、何事も忘れて舞のことに没頭できることを楽しんでいた。
「やあ、うまいうまい」
突然、部屋の隅から声がしたため、驚いて振り向くとそこに一人の老人が座っていた。
「あなたはだれですか?」
本当なら大声を出すところであるのだが、先に声を掛けられたことと、自分の舞を褒めてくれたことがあり、彼女もつい相手の名前を聞いてしまった。
「私は先日、おまえさんから食事を頂いたものだよ。覚えているかな」
「あ、あのときの道士の方……」
あの時は薄汚れていたが、今日はあのときよりも綺麗な格好をしていた。
「私の舞を褒めてくださってありがとうございます」
泥は心から礼を言った。自分ひとりで練習をしていても、本当にこれで良いのか分からなくなるものである。そうしたときに他の人からの感想を聞けるのは、本当に嬉しかった。
「おまえさんに上手な舞を見せてもらった礼をしよう。おまえさんの舞っている舞は秦踏だな」
「はい。その通りです」
「秦踏は本来、詞を歌いながら舞うものだが、自分の舞いに合わせて歌う詞は、もう決めているかな」
「いえ、まだ決めていません。なにしろ舞の形が決まらないものですから」
「秦踏は詞を歌い、その詞の思いを乗せて舞うとき、その形が決まるのだよ。だから本来は決まった形といえるものがなく、それゆえにこの地では今は軽んじられているのだ。だから先に、舞のときに歌う詞を決めなくてはいけないのだよ」
それを聞いた泥はぱっと顔を明るくした。
彼女は以前に一度だけ、先生が秦踏を舞うのを観たことがあった。そのときは舞の名前を聞いただけで、舞いそのものについては教わらなかったのである。そのときの記憶だけを頼りに舞っていたのだが、この老人の話が本当なら、もっと自由に舞ってよいということである。
それを聞いただけでも、彼女の気持ちはずいぶんと楽になった。
「ありがとうございます。おかげで何をすべきかが分かりました」
泥は再び深々と頭を下げた。しかし老人はそれを止めた。
「礼を言われるのはまだ早い。私はおまえさんに秦踏を舞うときに歌う詞を持ってきた」
「えっ?」
「おまえさん、近いうちにお偉いさんたちの前で秦踏を舞うのだろう」
「良くご存知ですね」
「私は道士だから何でも知っている。その席でおまえさんが歌う詞を教えてやろうと言うのだ」
そういうと老人は一枚の紙を彼女の前に置いた。
「ここに書かれている詞を覚えて、その詞の思いに心を乗せて舞いなさい。そうすればおまえさんは成功するだろう。だが舞い終えたならすぐにその屋敷を出ないといけないよ。それから、お前さんの素性もその場では知られないように。そうしないと、おまえさんは不幸になる」
泥はその紙を拾うと、熱心に詞を読み始めた。
読み終えて、老人にもう一度礼を言おうとしたとき、その老人は既に部屋の中にはいなかった。
「あのおじいさんは本当に仙人なのかしら……」
一人残された部屋の中で、手にしている紙だけが、今まで話していた老人の存在を証明していた。
泥はしばらく呆然としていたが、すぐに再び舞の練習を始めた。今度は老人から受けた助言を心に留め、紙に書かれている詞の思いを探りながらの練習であった。
左弦直の屋敷で開かれる宴は最初、少人数の小さなもののはずであった。しかしお忍びとはいえ国王も同席することが決まり、にわかに注目度も上がり、最初は出席を断っていた関丞相や馬大夫だけでなく、呼ぶ予定ではなかった虞太尉や李大将軍も出席することになった。
当然、これだけの宴になると市井にも噂は広まる。泥の義理の母親である友夫人の耳に、彼女が舞を舞う席が、国のお偉いさんが一堂に会する場となったという話が入ったのもただの偶然ではなく、必然といってよいだろう。
これだけの場で舞う事になれば、高官の誰かの目に留まり、一夜にして愛妾となることも夢ではない。その場にたかが先妻の娘だけをやるなんて、もったいない話である。
彼女はすぐに自分の二人の娘を呼んだ。
「おまえたちは今度の左大夫の宴を知っているかい」
「いいえ。知らないわ」
「泥がそこで舞を舞うことになっているのだけど、その席に主上もお越しになられるのよ。他にも権門の方々が多数お見えになるようだし、おまえたちもその場で舞を舞いなさい」
「え?だけどわたしたちは舞など踊れないわ」
「大丈夫。亡くなったおまえたちの父親は、あの舞の名手である虞操と付き合いがあったんだよ。おまえたちは虞先生から教えてもらうんだ。練習できるのは二、三日しかないけど、頼まれているのは中原の舞だから、そんなに難しくないだろう」
強引に決めた友夫人は、その日から二人の娘を虞操の元へ通わせた。