第一話 勇者、うつになる
メンシス王国は長い間、「魔物」という思考回路を持たない下等な生物の討伐に力を入れていた。メンシス王国が建国した数百年前にはすでに、人間と魔物は、奪い、殺し合う関係だった。
魔物の中で知能ある生物を「魔族」と呼び、彼らが魔物を生みだしている元凶と言われている。
近年は魔族や魔物の活動が緩慢だったが、それでもメンシス王国と魔国の境目付近では、頻繁に争いが繰り広げられていた。メンシス王国にとって魔族は悪である。それを倒す「勇者」は英雄に相違なかった。
◇
「ユースティティア」――「正義」という姓を与えられ、勇者となってからクラリスの毎日は戦闘一色だった。
クラリスは国から指示され、精鋭部隊の指揮を任されている。勇者補佐役であり情報収集役のウンブラや、長身の剣士・ロスを中心とした部隊だ。
メンシス王国の境目の街に住む辺境伯の娘が魔物に攫われたと報告が上がったのは、ほんの二刻前。
クラリスたちが魔国領付近に向かうと、そこにはクラリスの部隊の人数をはるかに超える魔物たちが屯っていた。さすがに小部隊では危険が大きすぎる。一度体制を整え直して応援を呼ぼうとクラリスは考えた。
しかし、戦闘狂のロスが過失を起こしたことで、魔物たちに気づかれてしまう。
「ロス、この始末書はすべておまえが書け!」
青い光の刃で続けざまに三体の魔物を切り捨てて、クラリスは怒鳴った。
「分かってるよ、勇者様ぁ! 始末書なり何なり、何でも書くからさー‼」
「まったく調子の良いことを!」
クラリスは額に血管を浮かばせて顔を歪ませる。
襲いかかってくる魔物の動きを躱し、血しぶきを飛ばす。ロスの軽い傷を治してやるよう後方に指示を出しながら、目の前の魔物を上段から捌いた。
魔物の数が少しずつ減っていく中で、クラリスは胸に焦燥を抱く。絶え間ない頭痛は平常と変わらず、どこからともなくやって来るのか分からない、ぞくぞくとした焦りの正体を図れずにいた。
激しくなる頭痛を無視し、クラリスは雷のごとき速さで中心を突き抜ける。魔物の中でも主級に近づくにつれて勢いは激しくなった。主級のそばに、捕えられた娘がいるに違いないと踏んで畳みこんだ。
小者を剣風で吹き飛ばし、主級とはいっても知能のない、図体が大きいだけの魔物の首を一瞬で討ちとる。小者たちは本能でクラリスを危険だと判断したのか、一目散に逃げていく。ウンブラの暗器がその小者の逃亡を許さない。
クラリスは足をとめることなく、御車の周りにいる魔物の首を一刀両断し、中に足を踏みいれた。
そこには確かに辺境伯の娘が気を失って倒れていた。息があるかを確かめ安堵する。
油断してはいられない。仲間たちが足止めしている間に移動を決めるに越したことはなかった。
そのとき、複数の吐息が耳に届く。クラリスは暗い奥に視線をやった。そこには辺境伯の娘以外に、人型の魔族が数匹、体を寄せ合ってこちらに目を向けていた。
おそらく魔族の中でも力の弱い者たちなのだろう。本能で生きている魔物と違い、知能があっても力を持たない魔族は多いと聞く。
奴隷の足には黒い鎖が巻きついており、手錠もされている。外には形さえ保てない魔物も多い中で、見目が麗しい種類ばかりだ。同族で惨いことをする、とクラリスは眉間に皺を寄せた。
「……おい」
呼びかけると、目に見えて奴隷の少女たちはびくりと体を揺らした。一番年齢の高そうな耳の尖った小妖精が、年少のモノの前に素早く身を乗りだす。その体は可哀想なほど震えていた。
「お願いします! 私たちはこの人間の娘に何もしていません。私は何をされてもかまいません。だからどうかほかの子たちは見逃してください!」
少女は目にいっぱいの涙をたたえ、震える体を叱咤するように唇を噛んでいる。
一歩クラリスが前に進むと、少女は覚悟を決めたように目を閉じた。
「手と足を出せ」
「え……」
「早く出せ」
静かにそう呼びかけると、少女はおずおずと手と足を出す。それ以上は何も言わず、クラリスは剣を垂直に持ちあげると、一気に鎖を断ちきった。驚きの瞳で少女はクラリスを見る。
「他の者も。急いで、外の奴らが来る」
意図を理解した少女らは急いで手足の鎖を差しだした。全員の鎖を断ちきると、困惑した様子の奴隷たちが口々に感謝を述べる。
「感謝はいらない。……おまえたち、魔国に戻っても帰るところはあるか?」
「……慈悲深いお方、ありがとうございます! 風の噂で今の魔王は奴隷も優遇してくださると聞いたことがあります。それを信じて、私たちは祖国に帰ります」
小妖精の少女が代表してそう答えた。
クラリスは魔国の情勢に疎い。それはメンシス王国に魔国の情報がまったく入らないためだ。「今の魔王」という単語を念頭に置きながら、クラリスはつとめて穏やかな声で言った。
「おまえたちはもう奴隷ではないよ。もう鎖はないだろう?」
「はい!」
少女たちは抱き合って、解放されたことを喜び合う。
しばらくは車内にいるよう指示を出す。辺境伯の娘もそのまま車内に放置して外に出ると、ロスが暴れ回っているのが見えた。
魔獣車の周りには魔物の死骸が円を描いて死んでいた。ウンブラが車の上で暗器を構えているのを確認する。
「遅いよ、クラリス!」
ウンブラの非難の声に手を挙げて答え、背後から斧を振りあげてきた魔物を振り向きざまに両断する。ウンブラはその薄い表情の下で、ロスに対する不満が溜まっていることがふつふつと感じとれた。あとで、話を聞いてやらなければならない。
――今日もまた、長い一日になりそうだ。
浅い呼吸を一つして、女勇者――クラリス・ユースティティアは、光の刃を振りあげた。
◇
娘を救った礼に、辺境伯は街の中でも上等な宿を貸し切りで用意してくれた。翌日の出発の時間は、魔物掃討で疲労した体を休めるために昼に近い時間に設定する。それは隊員たちのためでもあり、クラリス自身のためでもあった。
クラリスはひどく疲れていた。三百体余りの魔物たちを屠ったのだ。支援に回っていた者たちを除くと、ロスとともにおよそ半数を相手にしたこととなる。
クラリスは自身の体調の変化に違和感があった。頭痛はひどく、食欲はない。早く横になりたいが、ロスの始末書を今日中に上げなければならない。心配そうに覗いてくるウンブラに「心配ない」の一言で遮り、早々に各部屋に別れたのだった。
翌日になって、決めていたはずの時間になっても、集合場所である宿の広間にクラリスは向かうことができなかった。
鉛のごとく重い体は、寝台からぴくりとも動かない。指先さえも動かせない。眠気とは異なるぼんやりとした感覚に包まれて、夢の中を泳いでいるかのようだ。
扉を叩かれた音が聞こえた。誰か来たのかと顔さえも上げられない。広間に現れない隊長を心配した誰かがやって来たのだろう。
「クラリス?」
膜を張ったように聞こえてきたのはウンブラの声だった。軽く揺すられて、ぼやけた視界の中で見つめ返す。
「クラリス、どうかした? 具合が悪いの?」
心配そうな声に返す言葉が思いつかない。放っておいてほしい、と思う狭量な自分がひどく情けない気がした。
何度呼びかけられても反応できない。反応したい気もしなかった。
ゆっくりと布団をはぎ取られる。クラリスは抵抗もできず、布団の熱が去っていく感覚を味わう。はっきりしない目の奥で、ウンブラの視線を敏感に察知する。戸惑いのような音が聞こえてきた。
「クラリス、僕の質問に答えられる?」
頷くのも面倒だった。何とか重い瞼をゆっくりと開けて、瞬く。
「気分はどう? だるい?」
瞬き一つ。
「食欲はある?」
瞬きはしなかった。ウンブラなら、これで否定だと分かるだろう。
「眠い?」
瞬き。
「悲しい気持ちになったり、落ちこみが激しかったりは?」
瞬き。
「理由はないのに、イライラしてる?」
瞬き。
それから数回質問を投げかけられて、クラリスは緩慢に反応する。頭で考えて反応しているというよりは、体が無意識に答えている。
「最後の質問だよ」
ウンブラの声は固かった。勝ち目の分からない戦場でさえ、彼はこれほど緊張した声を発したことはない。
「クラリス、死にたいと思う?」
それに対して、クラリスは瞬きを一回だけした。
はあ、と深い溜息が聞こえてきて、それはクラリスの心をひどくざわつかせた。
失望されただろうか。見放されるのだろうか。
幼馴染であり、右腕として支えてくれるウンブラに、このような情けない姿を見られたことが唐突に恥ずかしく、恐ろしく思えた。
喉まで襲ってきた吐き気を堪えていると、ウンブラはクラリスに顔を近づけた。
「君の今の状態だけど、思い当たる症状が一つある」
ウンブラの抑えた声音は決して大きくはないのに、クラリスの脳内に直接響いてくるようだった。
「クラリス、落ちついて聞いてくれ」
恥ずかしい、情けないという思いが固まる。
「君はおそらく、うつ状態にある」
――ああ、何も考えたくない。
それは現実逃避だった。頭を動かせば、感情もまた働きだす。気持ちをうまく整理できないクラリスにとって、何も考えられない状態は一種の自己防衛でもあった。
――面倒なことになった。
環境と時期が悪い。クラリスの病気――「うつ病」はいまだに原因が解明されていない上に、メンシス王国では一般化されていない。存在は知られていても、その実態は把握されていない厄介な病気だ。
下手な噂話に踊らされ、それが正当化されつつある。北の大国では国民病とまでなっているものの、メンシス王国では受けいれられていなかった。
時期も悪い。近いうち、メンシス王国は近隣の諸国を抱きこんで、魔国侵攻を企んでいる。クラリスの腕ならば、千人部隊をまとめる役に就いてもおかしくはない。
所属は軍部ではないが、クラリスは国に指定された「勇者」だ。病気を理由に任務を放棄することは不可能だった。
国に病気を患ったことを知られる。それはつまり「勇者」という資格の剥奪、辺境の地への左遷を意味する。最悪の場合――国に殺される可能性もある。
任に就けなかったら。病気のことが国にばれでもしたら。
先を考えれば考えるほど、汚泥の中でもがき苦しむ心地だった。真っ暗の帳が下りたように、前を見通せない。
怖い。怖くてたまらなかった。しかし、誰も助けてなどくれない。最強と謳われる勇者を、一体誰が助けてくれるというのか。
絶望感に襲われ、部屋からウンブラの姿がいなくなったことにもしばらく気づけなかった。
ウンブラが仲間にどう説明したのかは分からない。勇者協会や軍部に今回の戦闘報告や、この地に滞在している理由も繕わなくてはならない。彼のことだから、うまく言い訳を考えてくれるだろうが、いつまでも嘘を吐き続けてもいられないだろう。疑問に思う部下たちも多いはずだ。
考えれば考えるほど、自分の存在がちっぽけでどうしようもない。恥ずかしくて、周囲にどう思われているのかが怖かった。怖いという感覚もそう言葉に当てはめただけで、実際のところ、もっと途方もない「何か」だった。
何もかもどうでもいいと、すべてを投げだしてしまいたい衝動に駆られる。
どのくらい時間が経過しているのか、クラリスは知らない。ほんの十数秒しか経っていないかもしれないし、昼夜が何度か入れ替わったかもしれない。時間の感覚が狂ったのか、はたまたそれ以上の感情に圧し潰されそうになっていたからか。
ウンブラが何度か様子を見に来て、食事を届けてくれた気がする。匙を口元に持ってきてもらって、ようやく口にすることができた。それも二、三回喉を通すので精一杯だった。
何も考えられなくなるときと、感情の波が襲いかかってくるときを繰り返し体感しながら、ただただ時間だけが過ぎていった。
耳が階下の物音を敏感に聞きとる。いつもより騒がしい音が、段々とクラリスの部屋に近づいてきた。ウンブラとロスの静止を求める声が響く。それに交じって鎧がすれる音。
乱暴に部屋の扉は開けられた。武装した兵士がどかどかと中に入ってくる。ウンブラたちの怒鳴る声が聞こえた。クラリスはぼんやりとした頭の中で「ああ、これまでか」と思う。
「クラリス・ユースティティアだな?」
兵士は布団を剥ぎとり、クラリスの長い髪を乱暴に掴みあげる。無気力で為すがままのクラリスを鼻で嘲笑うと、そのまま寝台の上から引きずり下ろした。
「我々は陛下直属の近衛部隊である。王陛下の命により、勇者・クラリスを捕縛する。――連れていけ!」
兵士二人に両脇を持ちあげられる。足に力が入らないクラリスは、そのまま爪先を引きずられて外に出された。
「クラリスっ!」
ウンブラの悲痛な声が耳に届く。ロスの叫ぶような反論も聞こえてきた。クラリスは何か言おうと口を開いて、結局何も音は出てこなかった。
もうどうでもいい。諦観が大きくなっていたクラリスは、そのまま大人しく兵士に連行された。




