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第10話:最強の海賊、海を往く

帝国艦隊の大砲が一斉にこちらへ向けられる中、黒翼号の甲板に立つセレスティアは攻撃の指示を出さなかった。


彼女は手にした拡声器を口元に寄せ、冷徹でよく通る声を海原へと響かせた。


「帝国兵のあなた方、給与の支払いが遅延していませんか。狭い船底で劣悪な食事を与えられ、命を懸けて働いても、手柄は全て安全な場所にいる貴族の士官に奪われる」


「そのような労働環境での戦闘ですか? 却下します」


「我が黒翼大艦隊は週休制、成果報酬型を採用し、業務中の怪我に対する医療費は全額負担します。今すぐ武器を捨ててこちらへ寝返るなら、初任給は今の三倍を保証しますわ」


拡声器から放たれる容赦のない正論に、帝国兵たちが顔を見合わせ、ざわめき始めた。


「たかが海賊の戯言に耳を貸すな! 構わん、撃て! あの小娘ごと吹き飛ばせ!」


旗艦の甲板でリオン公爵がヒステリックに叫び、指揮官の剣を振り下ろす。怯えた一部の砲兵が導火線に火をつけ、数発の砲弾が咆哮と共に放たれた。


黒翼号のすぐ横の海面が爆発し、巨大な水柱が甲板に降り注ぐ。


「野郎ども、あの馬鹿公爵を海の藻屑にしてやれ! 撃ち返せ!」


怒りに顔を歪めたヴァルクが大剣を抜き放ち、海賊たちが一斉に大砲に火を近づけようとした瞬間。


セレスティアの濡れた扇子が、ヴァルクの腕をピタリと打ち据えた。


「応戦ですか? 却下します。無駄な弾薬を消費する必要はありませんわ」


セレスティアは再び拡声器を構え、動揺して大砲の装填を止めている帝国兵たちを真っ直ぐに見据えた。


「待遇だけではありません。何よりも、この海の上には自由があります」


その声には、冷徹な計算だけでなく、彼女自身がこの一年間で得た確かな熱がこもっていた。


「陸のしがらみや、血筋という名の見えない鎖。私はそれらを全て捨て、己の能力だけを頼りにこの艦隊を作り上げました。あなた方も、誰かの所有物として無意味に命を散らすくらいなら、己の意思で舵を握ってみませんか」


海風に乗って響くセレスティアの言葉は、抑圧されてきた兵士たちの心を完全に撃ち抜いた。


ガラン、と誰かが甲板に剣を落とす音が響いたのを皮切りに、次々と重い武器が打ち捨てられていく。


「な、何をしているお前たち! 撃てと言っているだろう!」


顔を真っ赤にして負け惜しみを叫ぶリオンだったが、反旗を翻した部下たちにあっさりと羽交い締めにされ、無様に甲板に引きずり倒された。



◇ ◇ ◇



演説だけで帝国艦隊を完全に内部崩壊させた完璧な采配。


その後ろ姿を見ていたヴァルクは、大剣を背に収めてセレスティアの前に片膝をついた。


「金だけじゃなく、自由で心を奪うなんて。俺の女神、最高に痺れるぜ! ……これが通算300回目のプロポーズだ、俺と結婚してくれ!」


差し出された無骨な大きな手を、セレスティアは静かに見つめた。一年間、どんな時も自分の盾となり、自分の理想を全肯定してくれた頼もしい手だ。


セレスティアは拡声器を下ろし、ふっと柔らかく微笑んだ。


「結婚ですか? 却下します」


このどこまでも真っ直ぐな男となら、結婚するのも悪くはないかもしれない。だけど、今はまだ違う。私も真っ直ぐに伝えなければいけない……


「せっかく自由を手に入れたのに、束縛されるなんてゴメンですわ……」


そう言って、彼女は自分のポケットからいつか渡されたサファイアの指輪を取り出し、ヴァルクの手にそっと返した。


「うぉー!!! 兄貴ぃ!300連敗おめでとう!!」


誰かの冷やかしに船内がドッと笑いに包まれる。


「うるせー、お前らっ!今日はとことん飲むぞー! セレス、俺は絶対諦めないからな。お前が頷く日まで、500回だって1000回だってプロポーズしてやる!」


「1000回ですか?却下します」


セレスティアは指輪を返した手をそのままに、呆れたように、けれど愛おしげに目を細めた。


「そんなに回数を重ねる前に、私を納得させるだけの事業計画書を持ってきなさい。……そうすれば考えなくもありません」


その言葉の意味を理解したヴァルクが、一瞬、雷に打たれたように固まった。

次の瞬間、彼は大剣が折れんばかりの勢いでセレスティアを抱き上げ、高く、高く掲げた。


「聞いたか野郎ども!セレスが『考えなくもない』って言ったぞ! 脈アリだ、大逆転の兆しだぜ!最高に痺れるぜー!!」


「うぉぉおおおお! お頭、おめでとうございます!」


「野郎ども、酒だ! 今日は帝国の高級ワインも飲み放題だ!」


荒くれ者たちの野太い歓声が空を突き抜け、どこまでも響き渡る。


ヴァルクの腕の中で、セレスティアは乱れた髪を整えながら、ふと視線を落とした。

足下には、どこまでも広がる自由な青い海。


そして横には、自分を縛るためではなく、支えるために捧げられた無骨な手。


「まったく、騒がしい職場ですわ……」


彼女は小さく呟くと、誰にも見えないように、ヴァルクの肩にそっと顎を預けた。

その口元には、かつての伯爵令嬢が見せることのなかった、誇り高くも穏やかな女帝の微笑みが浮かんでいた。


水平線の彼方、まだ見ぬ未知の市場と航路を目指して。

黒翼大艦隊の旗艦は、満風を孕んだ帆を翻し、眩い光の中へと力強く突き進んでいった。



(完)

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