第26話 本番では、練習どおりにいきません
ぱきり、と乾いた音がした。
「それ、先に刻んでは駄目です」
ほら来た、と私は顔を上げた。
明るい薬草実習室の奥、第三班の作業台。窓から落ちる光の下で、乾燥前の葉と乾燥済みの茎が一緒の籠へ放り込まれかけている。順番札は台の端で半ばめくれ、秤の重い音と、すり鉢の鈍い響きがそこらじゅうで混ざっていた。記録閲覧室の、あの死んだ静けさとは違う。生きた現場の音だ。
……もっとも、その活気もお嬢様の一声で凍りつく危険を、常に孕んでいるのだけれど。
「そのやり方では危険です。……いえ」
ロザリア様は一度だけ言葉を切った。
「よろしくなくて……違うわね」
下級生たちが揃って固まる。
「先に乾いた方を分けなさい。湿った葉を混ぜると刃に張りついて、手元が狂います」
……いま、飲み込んだ。
お嬢様が、自分の吐きかけた棘を、自分でもぐもぐ咀嚼して飲み込んだ。
それを見られただけで、今日この実習に来た価値はあった。
「も、申し訳ありません」
下級生の令嬢が慌てて手を止める。
「謝る前に戻しなさい」
ロザリア様が言って、そこでほんの少しだけ眉を寄せた。
「……今なら、やり直しも少なく済みます」
危ない。かなり危ない。
けれど、ちゃんと戻ってきた。
私は半歩だけ近づいて、笑みを崩さず口を添える。
「乾いた茎から先なら、刃も狂いにくいそうです」
順番札を指した。
「今のうちなら、全体の遅れもほとんど出ません」
「は、はい」
下級生は頷いて、急いで籠を分け始めた。
もう一人の生徒もそこでようやく気づき、火を弱める。
「ごめんなさい、私も見ていませんでした」
「でしたら次から見なさい」
ロザリア様が言う。
そこまではよかった。
「何のために順番札があると思っているの」
一瞬、空気が止まる。
私は口を挟みかけた。
けれど、その前に下級生の令嬢がはっと札を持ち上げた。
「あ、ここ……」
札を指で追いながら言う。
「先に乾いた方って、ちゃんと書いてあります」
もう一人も覗き込む。
「ほんとだ。これを見れば迷わないのに……すみません、ロザリア様。私たち、ちゃんと読んでませんでした」
「……そう」
ロザリア様はわずかに間を置いて頷いた。
「分かったなら、それでいいわ。今のうちに戻しなさい」
「はい!」
今回は、私の翻訳が要らなかった。
それが妙に嬉しい。
籠が分けられ、刻む順番が戻される。火加減も整い、秤の位置も直る。さっきまで少し詰まっていた流れが、目に見えて動き始めた。秤の金属音も、すり鉢の響きも、ついさっきより軽い。お嬢様の不器用な正論が、止まりかけていた現場の血流を無理やり通したみたいだった。
ロザリア様は作業台の横へ手を伸ばし、すり鉢の位置を少しだけずらす。
「火のそばへ寄せすぎないで。乾いた葉が跳ねるわ」
「はい」
「刻み終わった方は、混ぜる前に呼びなさい。重さを見る」
「分かりました」
短い。
でも、ちゃんと通っている。
以前なら、一言目で全員が縮み上がって終わっていた。今日は違う。固まりはしたが、そのあと動けている。意味が届いている。
実習助手の教師がこちらへ来て、第三班の手元を見た。
「……ひやりとしましたよ」
順番札と籠を見比べ、額へ手をやる。
「あそこで混ぜられていたら、今日の講義時間が三十分は延びていました。助かりました、ロザリア様」
「でしたら最初から監督を増やすべきでしょう」
ロザリア様が即答する。
そこはそのまま言うのですね、と思ったが、教師は苦笑しただけだった。
「返す言葉もありません。次回は助手をもう一人つけます」
以前なら、ここももっと冷えただろう。
今日は違う。お嬢様の言葉が、棘だけでなく現場の指摘として通っている。
しばらくして、私は乾燥棚の前で控え札を整えていた。そこへ、低い声が落ちてくる。
「……途中までは、良かったでしょう」
振り返ると、ロザリア様がすぐ横に立っていた。周囲に聞こえない声だ。
「かなり」
私が答えると、
「かなり、で止めるのね」
と不満そうに眉を寄せる。
「最後が余計だったわね」
「少しだけ」
「少し?」
「少し強めに」
ロザリア様は露骨に嫌そうな顔をした。
「あなた、最近その“少し”が甘いのよ」
「努力点を加味した監査評価です」
「監査評価」
お嬢様が胡散臭そうに繰り返す。
「そう。六十点くらいでしょうか」
「……どこがマイナス四十点なのよ」
「順番札を根拠に相手が自力で気づいたのは加点対象です」
「そこを加点するの」
「ですが、『何のために順番札があると思っているの』は減点です」
「厳しいわね」
「現場監査ですので」
「その言い方、腹が立つのよ」
そう言いながら、声が少しだけ軽い。
その時、少し離れた場所で下級生たちの囁きが耳に入った。
「ねえ、今の」
「うん」
「ロザリア様、前より話しやすくなった?」
「前はもっと、一言目で固まった気がする」
「怖いのは怖いけど……ちゃんと理由を言ってくれる、かも」
「侍女さんがいるから?」
「それもあるけど、なんか前より、聞ける」
私は控え札を揃えるふりをしながら、横目だけでロザリア様を見る。
聞こえていないふりをしているが、歩調がわずかに乱れた。かなり分かりやすい。
お嬢様は咳払いをひとつして、いつもの顔を作り直す。
「次の班も見てくるわ」
「はい」
「あなたは控え札を」
「承知しました」
「……あと」
ロザリア様が、ほんの少しだけこちらを見る。
「その“六十点”の内訳は、あとで文書で出しなさい」
「監査報告書の形式で?」
「そういうところが面倒なのよ」
「承知しました」
「甘く書いたら怒るわよ」
「むしろ厳格に作成いたします」
「それも腹が立つの」
お嬢様はそれ以上何も言わず、薬草棚の向こうへ歩いていった。
背筋はいつも通りきれいに伸びている。けれど、さっきより少しだけ足取りが軽い。
私は控え札を重ね、離れた場所でまた誰かを止めるロザリア様を見た。
現場では、もう届き始めている。
それを、あの紙切れはまだ追えていない。
薬草の名を書き込んだ控え札の端を、私はきっちり揃えた。
まずは、あの報告書に使われていたインクの在庫棚から洗う。




