第17話 記録には、少しだけ癖がある
記録は、紙に載った瞬間だけ、妙に正しく見える。
だから厄介だ。
その日、私は園芸学の記録帳と返却用の図鑑を抱えて、書記局の脇を通っていた。昼の授業がひとつ空いた短い時間で、ロザリア様からは「ついでに温室利用簿も戻しておきなさい」と命じられている。
ついでに、という言葉は便利だ。
便利だが、ついでに流されると困るものもある。
最近の噂。
お嬢様の印象。
それから、妙に嫌な残り方をする学園の記録。
「最近ずいぶんお忙しそうですね、翻訳係殿」
振り向けば、やはりユリウスだった。
書記局の扉の横、いかにも“今たまたま通りかかっただけです”という顔で壁にもたれている。たまたまであるものか。その顔は、見つける前からこちらを見ていた顔だ。
「盗み見のご趣味でも?」
「観測です」
「言い換えれば上等になると思わないでください」
「では、職務上の関心で」
「なお悪いですね」
ユリウスは少しだけ笑った。
この人は、話しやすいのに信用しづらい。
信用しづらいくせに、こちらがいちばん触れたくない場所を、やけに正確に撫でてくる。
「一つ、お見せしましょうか」
ユリウスが言った。
「嫌な予感しかしませんね」
「たいてい当たります」
「知っています」
彼は書記局の机から一枚の薄い紙片を取り、私へ差し出した。正式文書ではなく、仮整理の控えらしい。薄く、白く、妙に乾いた紙だった。
目を落とす。
園芸実習、北棟温室前。
ロザリア・エヴァンス、手順の遅さを執拗に糾弾。
周囲、緊張。
整った字だった。
読みやすく、癖もなく、いかにも誰が見ても同じ意味に読めそうな字。
だから余計に気味が悪い。
「……先週の件ですか」
「ええ」
「棚の留め具が外れかけていた件ですね」
「そうです」
「そのまま鉢を持ち上げていたら、棚ごと倒れていました」
「ええ」
「それが“執拗に糾弾”」
ユリウスは肩をすくめた。
「受け取り手が飲み込みやすい形に、少し編集しているだけですよ」
喉の内側へ、薄い氷片を押し込まれたような気分になった。
「編集」
「ええ」
「命拾いした事実より、刺さった言葉を前に出して?」
「そちらの方が、残りやすいので」
残りやすい。
ずいぶん便利な言葉だ。
「あなた、それを知っているということは」
私はユリウスを見た。
「編集する側なんですね」
ユリウスは否定しなかった。
「書記局は、拾った断片を並べ直します」
「並べ直した結果、お嬢様が嫌な人に見える」
「嫌な人、というより」
ユリウスは少しだけ目を細めた。
「お嬢様の声は、この学園でいちばん“記録映え”するんですよ。残念なことに」
その言い方が、ひどく腹立たしい。
危ないから止めた。
倒れる前に切った。
間に合った。
そういうものは紙の端へ追いやられて、声の強さだけが中央に座る。記録映え。ふざけている。
「茶会の日は違いました」
私は言った。
「ええ」
「“事故対応”の方へ寄った」
「そうですね。あの日は、何を言ったかより、何を守ったかが先に見えた」
あれは幸運ではない。
危ない綱の上で、どうにか足を踏み外さなかっただけだ。私が空気をずらし、お嬢様がそこへ乗ってくださった。ほんのわずかな隙間だった。あれを外していたら、いま紙に何と書かれていたか分からない。
「仮整理に手を入れるのは書記局だけですか」
私はまっすぐ訊いた。
ユリウスは少し黙った。
「ただでは教えられませんね」
「では、こちらも一つ」
私が言うと、ユリウスの眉がわずかに動く。
「あなた、これがただの癖ではないと、もう思っていますね」
「……続けてください」
「お嬢様の記録は、最近急に悪くなったわけではない。前から、妙に読みやすすぎる」
「怖い婚約候補、という具合に?」
「ええ。そういう札にしやすい形で」
私は黙った。
「今回は安くしておきます」
「恩着せがましい」
「褒め言葉として受け取ります」
本当に腹が立つ。
「書記局だけではありません」
ユリウスは声を落とした。
「行事の所感、授業の補助記録、指導側の摘要。あとから重なる紙はいくらでもある」
「……一枚では終わらない」
「ええ。一枚なら印象で済む。何枚も重なると、もう消えにくい」
白い紙片が、急に刃物じみて見えた。
こんな軽いものが何枚も重なるだけで、お嬢様の声も、正しさも、助けた事実も、じわじわ押し沈められていく。
「……冗談ではありませんね」
私が低く言うと、ユリウスは珍しく笑わなかった。
「ええ」
書記局の奥で、紙をめくる音がする。
さら、さら、と乾いた音。
机の上で紙が滑るたび、胃の奥へ冷たい水を少しずつ注がれているような不快な重みが増した。
もしこのまま婚約解消の場が作られたら。
机の上に並ぶのは、こういう紙だ。白地に黒いインクで、お嬢様を“そういう人”にした控えが何枚も並ぶ。そこに立つのはロザリア様ではない。刺のある言葉だけを抜き出され、勝手に膨らまされた、紙の上の化け物だ。
私は抱えていた記録帳の角を強く握った。
「あなたは、どこまで関わっているんですか」
私は訊いた。
「共犯の確認ですか」
「ええ」
「痛いところですね」
「答えてください」
ユリウスは少しだけ考える顔をした。
「先のことは――まあ、お嬢様が私を飽きさせないうちは、このままでしょう」
「最低ですね」
「よく言われます」
「誇らしげに言うな」
ユリウスは小さく笑った。
その笑い方が、今は心底腹立たしい。
「結構です」
私の声は、自分でも驚くほど冷えていた。
ユリウスは壁から背を離した。
「では」
そう言って、わずかに首を傾ける。
「この先、どうなさいます」
「お礼は申しません」
私は言った。
「……ただ、腹の虫が収まりませんので」
「それはまた率直な」
「ええ。ですから、次はその記録ごとひっくり返します」
ユリウスは少しだけ笑った。
さっきまでより、幾分ましな顔に見えたのがまた腹立たしい。
「それは楽しみです、翻訳係殿」
そして一歩、奥へ引きながら、思い出したように言った。
「ちなみに」
「まだ何か?」
「その“編集”をいちばん喜ぶ立場の方がどなたか。考えたことは?」
私は目を細めた。
「……何が言いたいんですか」
「別に。ただ、婚約解消の理由は、外より内の方が欲しがることもありますから」
殿下。
その名を出しもしないくせに、言外にはっきり残した。
背筋の真ん中へ、細い針を一本ずつ差し込まれるみたいな寒気が走る。
もし本当にそうなら。お嬢様を切るための紙を、欲しがっているのがあちら側だとしたら。
「では今度こそ失礼します」
ユリウスはそれだけ言って、書記局の奥へ消えた。
私はその背を追わず、白い机へ目を落とした。
紙はもうない。
なのに、あの字だけが目の裏に残っている。
『執拗に糾弾』
五つの文字。乾いたインク。
あの日、お嬢様が棚を押さえたことは、そこにはない。倒れる前に止めたことも、間に合ったことも、ない。たったそれだけの黒い跡が、本物のお嬢様を脇へ追いやって、先に事実の席へ座っている。
紙の上のインクは、もう乾いている。
お嬢様がいくら違うとおっしゃっても、この紙を破らない限り、先に口をきくのはあちらだ。
私は腕の中の記録帳を、ひきちぎらんばかりに抱え直した。
綺麗に揃えられた記録の山。
あれを一枚ずつ剥がす。削る。別の紙を先に差し込む。お嬢様が危険を止めた場面、守ったもの、間に合った事実を、こちらの手で積み上げる。
向こうが白い墓標を築くつもりなら、こちらはその土台から崩してやる。
埋めさせるものか。
あの真っ白な紙の墓標に、私のお嬢様を。




