第15話 言い換えにも練習が必要です
その日の放課後、別邸の小応接室には、少しばかり奇妙な緊張感が満ちていた。
机の上には紅茶。
焼き菓子が二種類。
記録帳が一冊。
そして、なぜか私の手元には小さな紙束がある。
「……あなた、それは何なの」
向かいに座ったロザリア様が、見るからに警戒した顔で尋ねた。
「例題です」
「何の」
「言い換え訓練の」
「本当にやるつもりなのね」
ええ、やりますとも。
お嬢様は先日、たしかにおっしゃったのだ。次からは自分でも少し言葉を考える、と。
それを聞いた以上、ここで火を消すわけにはいかない。せっかく灯ったものは、育てるべきだ。お嬢様のためにも、できれば学園の平穏のためにも。
「では始めましょう」
「あなた、時々ほんとうに家庭教師じみているわね」
「恐れ入ります」
「褒めていないわ」
「存じております」
私は紙を一枚めくった。
「一問目。『邪魔ですわ』」
「簡単ね」
「お嬢様にとっては、です」
ロザリア様は露骨に気に入らない顔をした。
「……『そこをおどきになってくださる?』」
「惜しいです」
「惜しいの」
「はい。通れはしますが、言われた方の心がたぶん先に転びます」
「面倒ね」
「たいへん」
ロザリア様は眉を寄せたまま、カップを置いた。
「では、『少し道を空けてくださる?』」
「それなら十分届きます」
「最初からそう言いなさい」
「お嬢様がご自分で届いてくださいませんと」
「ほんとうに手間のかかる侍女ね」
そう言いながらも、お嬢様は次の紙を待っていた。
不服でも、やると決めたことは投げない。そういうところは、実にこの方らしい。
「二問目。『無責任ですわね』」
「……『そのままでは困る方が出ますわ』」
「悪くありません」
「その言い方、気に入らないわ」
「半分は褒めております」
「半分なのね」
私は次の紙を出した。
「三問目。『それは不快です』」
「『その言い方は品がありません』」
「火に油です」
「では『聞いていて疲れます』」
「静かに刺さります」
「『少しは加減を覚えてくださいまし』」
「刺してからひねっています」
「もう嫌。この紙、燃やしていいかしら」
ロザリア様は本気でそうおっしゃって、紙を二本の指で摘まみ上げた。
「小応接室での放火はおすすめいたしません」
「では破る」
「記録に残ります」
「あなた、今日ずいぶん楽しそうね」
「実りある時間ですので」
「私だけ苦労している気がするわ」
そう言って、お嬢様は焼き菓子を一つ取った。
一つが二つになり、二つが三つになりかけたところで、私は皿をそっと遠ざける。
「お嬢様、それは訓練ではなく八つ当たりです」
「糖分補給よ」
「補給にしては敵意が強うございます」
「だいたい、どうして私がこんなに気を使わなければいけないの」
カップの受け皿が、かちゃりと鳴った。
「間違ったことは言っていないでしょう」
その声音には、いつもの鋭さとは少し違う熱が混じっていた。
腹を立てているのは訓練そのものに対してというより、ご自分の言葉がそのままでは届きにくいと突きつけられたことへの、ひそかな不服だろう。
「ええ。お嬢様のお言葉は正しいです」
「なら十分ではなくて?」
「惜しいのです」
「どう惜しいの」
「お嬢様の正論は、ときどき言葉の形をした弾丸になりますから」
ロザリア様がぴたりと黙る。
「当たった方は、中身を理解する前に痛がって伏せます。そうなると、せっかくの正しさが最後まで届きません」
「……随分な言われようね」
「現場の実感でございます」
「まったく嬉しくないわ」
「存じております」
ロザリア様は不機嫌そうな顔のまま、指先でカップの縁をなぞった。けれど席を立つ気配はない。投げ出すおつもりなら、とっくにお立ちになっている。
「……気に入らない」
「ええ」
「そこは否定しなさい」
「今のお嬢様に必要なのは慰めではなく、当たりどころの調整です」
「ほんとうに侍女かしら、あなた」
「お嬢様を刺さらない方へ導く役目ですので」
「その言い方も少し腹が立つわね」
それでも、最後には少しだけ笑った。
「続けなさい」
「かしこまりました」
そこから先は、一問ごとの正解探しというより、泥道を長靴で踏み分けるような時間になった。
一度は、柔らかくしようとして妙に芝居がかり、
一度は、整えたつもりが冷たくなり、
一度など、
「『少々ご自身を省みてくださいまし』」
「お嬢様」
「何よ」
「それは言い換えではなく、とどめです」
「……そう?」
「見事に」
「難しいわね」
「お嬢様は、丸くするより筋を立てた方がお上手です」
ロザリア様は露骨に嫌そうな顔をしたが、次の瞬間には考える顔になった。
私は最後の紙を手に取る。
「では、本日の締めです」
「ようやく終わるのね」
「最後だけ少々重たいですが」
「……性格が歪んでいるのではないかしら」
「お嬢様を真っ直ぐに導くための歪みであれば、本望です」
「そういう返しを、すぐ用意するのよね……」
紙を裏返す。
「『危ないですわ』」
「それは、そのままでもよさそうだけれど」
「今回は、相手が慌てて作業をしている時の想定です」
「……なるほど」
ロザリア様は、そこで今まででいちばん長く黙った。
指先がカップの取っ手を離れ、机の上でそっと組まれる。
視線が紙の上に落ち、そこから少し外れて、夕暮れの窓へ流れた。
そして私は気づく。
お嬢様は今、言葉を探しているのではない。たぶん、思い出している。
昼の廊下。
細い腕に積み上がった紙束。
今にも滑り落ちそうだった標本箱。
それでも「はい」と言い続けた、あの小さな声を。
ロザリア様のまなざしが、すっと戻る。
「……嫌だわ」
ごく小さく、独り言のようにこぼれる。
「あの順番では、また落とすでしょうに」
次の瞬間、声が定まった。
「……その順番だと危ないわ。先にこちらにしなさい」
私は紙を持ったまま、固まった。
言い方は飾っていない。
けれど刺さらない。
止めるだけではなく、相手の手を先へ導いている。
しかも、お嬢様らしい強さがそのまま残っていた。
感心しすぎたせいで、私は反射的にティーポットを取り上げていた。お代わりを注ごうとして、危うくロザリア様のカップへ並々と注ぐところだった。
「ちょっと」
「失礼いたしました」
「何をそんなに動揺しているの」
「いえ……少々」
「少々で紅茶はあふれないわ」
私はあわててポットを戻し、一つ息をつく。
「今のは、見事でした」
「……そう」
「はい」
それ以上いろいろ申し上げるつもりだったのに、喉のところで言葉が渋滞した。
うまく褒めるより先に、驚きが来てしまったのである。
ロザリア様はそんな私を見て、ほんの少しだけ目を細めた。
「そこまで驚くこと?」
「驚きます」
「失礼ね」
「本当に見事でしたので」
お嬢様は一拍だけ黙ってから、焼き菓子を一つ取った。
「一問うまくいったくらいで、大きく出るのね」
「たまたまでしたら、明日もう一度同じ問題を出します」
「それは嫌」
「でしたら、たまたまではありません」
「……ずるい理屈だわ」
そう言いながらも、口元は少しだけ緩んでいた。
私は紙束を揃え、机の端へ寄せる。
「では、次は実地ですね」
「ええ」
ロザリア様はあっさりとうなずいた。
「練習だけして終わるのはつまらないでしょう」
私は瞬きをした。
「思ったよりお早い決断で」
「何よ、その顔は」
「いえ」
「言いなさい」
「お嬢様は、高い壁を見つけると壊さずにはいられない性質だと存じておりましたので」
「褒めているようで、だいぶ物騒ね」
「実感です」
「あなたの実感は時々ひどいわ」
でも、その声は少し弾んでいた。
「では私は、次の実地では必要最小限の補助に留めます」
「必要最小限?」
「はい。先日までを思えば、かなりの譲歩です」
「その言い方だと、普段は相当手を入れているみたいではなくて?」
「相当、とは申しません」
「では?」
「そこそこ」
「正直ね」
「現場主義ですので」
「ほんとうに、そういうところよ」
ロザリア様は呆れたように息をつき、それから小さく笑った。
窓の外では、夕方の光が庭の芝をやわらかく照らしている。飲みかけの紅茶の表面も、使い終えた紙束の端も、淡い金色を帯びていた。
ロザリア様はふと、最後の紙を一枚だけ抜き取った。
『危ないですわ』
そこに書かれた文字を見下ろしてから、お嬢様はその紙を二つに折り、記録帳へ挟む。
「残しておくのですか」
「別に」
そう言って顔を上げた横顔は、夕日に触れたせいか、いつもより少しだけ静かに見えた。
「次に同じ場面が来た時、あなたに先を越されるのは癪なだけよ」
私は頭を下げる。
「でしたら、その時は一歩下がって見守ります」
「半歩で十分よ」
「かしこまりました」
ロザリア様は記録帳を閉じ、焼き菓子の皿をこちらへ少し押した。
「……褒美よ」
「私にですか」
「紅茶をこぼさなかったことへの」
「ぎりぎりでございましたが」
「次は最初から落ち着きなさい」
「善処いたします」
「不安しかない返事ね」
小応接室に、ようやくいつもの空気が戻る。
私は皿から焼き菓子を一ついただきながら、夕日に照らされたロザリア様の横顔を盗み見た。
記録帳の上に置かれた指先が、先ほどよりも少しだけ迷いなく見える。
半歩。
その距離で十分だとお嬢様はおっしゃった。
なら次は、その半歩の後ろで見ていよう。
危険な台詞が飛ぶか、見事な言葉が先に届くか。
たぶん、そのどちらも起こるのだろうけれど。




