最終話
頭と、心と、体が、別々の意志を持ってしまったかのように―――――――――拒絶した。
すでにわかってしまっていたのだ。その小さな存在が何であるか、を。
けれど、心は認めようとしなかった。その目で確かめるまで事実を絶対受け入れない、と。
しかし、体は前に進まなかった。一歩も足が動かなかった。出れば受け入れなければならない、現実を。
ものくろの 死を。
確かに、それはものくろだった。
20mほど離れた場所に横たわった姿は見間違えようもなく、ものくろだった。
それでも心は受け入れんとして、体は前に進むことを拒んで・・・・・。
由緒は立ちつくしていた・・・・・。
突然、小さくも―――――――――――ビクビクビクッとはぜる、ものくろの体。
まさかっ・・・・・・!
ものくろは起き上がることはできないが、体を動かすことは出来るのか・・・・?
由緒はそれを見て、ようやく意識と、思考と、肉体がつながったかのように駆けだした。
(まだ、助けられるかもしれない!もしかしたらっ!もしかしたらっ!)
駆け寄って、膝をついて、そして・・・・・・・・・・・・・・・
再び、絶望――――――
ものくろはもう息を引き取っていた。
動いたのはただ痙攣で、4本の足を突っ張り、硬直が始まったことを示すものだった。
口からは涎のようなものがだらしなく垂れ落ち、眼からも涙のように何かがこぼれていた。
周りはだいぶ明るいのに黒目はまん丸にして、それが瞳孔が開いてしまっているからだとわかった。
ものくろの命はとっくにここにはなかった。ただ、肉体だけが最後の始末をつけているだけだった。
由緒は、絶望した。
口から息が漏れるみたいな嗚咽が、はっはっ、と何度も出た。
それは止まることなく続いた。はっはっ、はっはっ、と口の中が渇いてもまだ続いた。
けれど、・・・・・どうしてか涙は出なかった。
目も口も、やたらと渇いていた。
・・・・・・ふつふつと湧いてくる気持ちに、口元を押さえた。
それは・・・・自分への憤り―――――――。
由緒は吐き気をもよおすほど何かが込み上げてくるのを感じた。怒りで気持ちが悪くなるなど、生まれて初めてだった。
・・・・ものくろが教えてくれたおかげで、夫婦の、家族の関係が修復できたと感謝していた。
・・・・いなくなってしまったものくろは、きっと自身の役目を終えたのだろうと思っていた。
・・・・山か、草むらか、軒先か、そんなところで静かに息を引き取ったのだろうと思っていた。
なんて馬鹿げたことをっ!!なんて馬鹿げたことをっ!!
自分に都合のいいふうに解釈して。自分が傷付かないような、ものくろの最後を思い描いて。
しかし、現実は!!
・・・・・・冷たいアスファルトの上で、みっともなく体液を垂れ流し、誰にも見取ってもらえず、汚いと罵られ、
ものくろは死んだ!死んだ!死んだ!・・・・・・・・・
自分が殺したんだ。・・・・いや、自分と繭子、二人が殺したんだ。
もっと生きられるはずの小さな命を、自分達のために、・・・・壊れそうだった自分と繭子の関係の、逃げ場を作るだけのために・・・・。身勝手に扱い、結果、・・・・殺した・・・・。
由緒は聞いたことがある。
だれかが言っていたのを、聞いたことがある。
この世の幸せの量は限りがある、と。
使い過ぎればなくなるし、だれかが使えば、だれかが失う。
そう、この世の幸せは限りあるモノ。
だから大事にしなさい、と。
自分達二人の幸せのために、ものくろの幸せは失われたのか・・・・・?
そんなものか、この命の意味は!?――――――そんな言葉で表せることだったのか――――――?
由緒の頭の中はぐるぐると思いが廻って、暗澹としていた。
せめて自分の手で、埋めて上げよう。・・・そう思って、ものくろを抱きかかえようとした時だった。
―――――――ものくろの目が由緒をじろり、っと見た。
「なっ!?」
驚いて飛び退く由緒。――――――――まさか、まだ生きているのか?
もう一度、慎重にものくろの目を覗き込むと、・・・・・やはり精気はない。瞳孔も開いたままだ。
なぜ、動いて見えたのだろう?不思議に思ったが、どこかにまだ生きていてほしいと思う心があってもおかしくはない。きっと自分の願望がそう見せてしまったのだろう、と納得することにする・・・。
由緒は、見た。
ものくろの目は強く由緒に語り掛けてくる。
由緒は、まだ見続けた・・・・。
ものくろの目は、まだ強く由緒に語りかけてくる。
・・・もう、瞳孔も開き、生命も精神もここにいないはずのものくろの目が、強く強く語りかけている気がする。
抱き上げようとしていた腕は、空中で止まってしまう。
だめだ・・・・、と。
だめだ・・・・、と。
だめだ・・・・、と。
音ではない、電波か刺激のような声が胸に届く。
――――――思いだけで、行動してはいけない。そうすることが許されない立場に、君はいる。
――――――僕を埋めるには、もう一度部屋に戻るだろう?そうすれば、君は事実を・・・・・・僕の死を繭子に伝えなければならなくなるんじゃないか?
――――――彼女を悲しませる必要があるのかい?君は、この事実を君だけの胸にしまっておくことはできないのかい?
――――――君は、前に進むべきだ。守るためには、守れないものがあることを知ったのだから。
――――――僕は置いていくべきだ。君の家族を守るために。僕を置いていくべきだ。
――――――さようならだ。・・・・さようなら。君は僕の横を通り過ぎていかなければならない。夫となるなら、父となるなら・・・・・・・・。
――――――さようなら。
由緒は心に直接届く、念いのようなものに体の自由を奪われたようになってしまった。
まるで心のない、操り人形のように。彼の意志とは別の力が、彼の体だけを奪ってしまったかのように。
由緒は、立ち上がった。
立ち上がると、一歩、また一歩、と歩き始めた。
・・・・・彼の胸に落ちてきた意志のようなもの。
それが言葉だったのかもわからない・・・・。本当にそう言われていてのかなんて、確かめようがない・・・・。
それでも、体はその場を後にした。そうしなければいけないような気がして、その場を後にした。
―――――――由緒は、泣いていた。
大の大人が、子供のようにぼろぼろと泣いていた。
なにがそんなに悲しいのか、頭は理解出来なかったが、心が勝手に泣いていた。
渇いていた目が、溢れる涙で一杯になって、いつまでもいつまでも泣いていた・・・・。
歩きながら。・・・・一歩一歩、涙をこぼしながら。
息子は、三歳半になった。
今やもう、やんちゃくれだ。
元気が良くて、体も強い。生まれてからこれまで二回しか医者にかかったことがない。
名前は駿太と付けた。
繭子は出産の痛みを今も体に残している。
陣痛から30時間以上かかった大出産、そして母体はすぐに緊急手術の必要があった。
今は当時に比べ、二回りほど体が大きくなってしまった。
足や腰の痛みは、いつもあるようだ。それでも何とか毎日やっている。
由緒は、変わらない。・・・・自分では変わっていないと、思っている。
あの日、由緒が立ち去った後、ものくろは保健所の職員が回収して言ったようだった。夜に帰った時にはもう、跡形も残ってはいなかった。
繭子は今も、あの事を知らない。
きっと由緒はこのまま彼女には伝えずにいくだろう。あの事実は、繭子は知らなくて良いことだ。由緒の胸にだけあればいいことだ。
由緒の中に、あの日の記憶はまったく色褪せることなく残っていた。
・・・・・あれは本当にものくろの声だったのだろうか?
それはわからない――――――。
神様か天使が存在して、その力をかりてものくろが語りかけてくれたのかもしれないし、由緒の弱い心が、これ以上傷付くの恐れて創りだした『彼に都合のよい幻想』だったのかもしれない。
答えは見付からない。・・・・当のものくろはもういないからのだから。本当の答えはここにはない。
由緒は出勤の準備をしながらテレビのニュースを見ていた。
どのチャンネルも先日の痛ましい震災のニュースばかりだった。
何度も何度も、傷跡を映すかのように流れる現地の映像・・・・。
多くの死者が出た。家々も流された。
写真や映像で見たことのある風景は、もう以前の面影もない。
皆、絶望していた。由緒も心を痛めた。
彼の友人にも彼の地に住むものが何人かいた。
連絡は取れるものもいたが、取れないものもいた。
――――――――けれど
我々は前を向く必要がある。由緒はそう考える。
彼は知ったから・・・・・・。あの日、教えられたから・・・・。
生きているものには責任があることを。
今日を、・・・・・永遠に手に出来なくなったものがいる。その事実を知っても、なお前に進む責任があることを。
自身が立ち止まれば、それで失われる何かがある。人間は生きている間、前に進む責任がある。
生きているものには義務があることを。
無くなってしまった思いを意志に変えて、なおもう一歩前に進む義務があるということを。
――――――その思いは『答え』のないもの。あるのは自分なりの理解なり、解釈なり。
けれどその『答え』を見つけて、もう一歩前に進む、義務があるのだ。
難しいことなのはわかる。それに正解はない。
正解はもう、自分の手の届かないところにいってしまったから・・・・・・。
それでも気付くはずだ。
その思いに耳をすませば、答えは一つではないことを。
その時、その場合、思い返すたびに答えは違うかもしれない。
それで良いのではないか、と由緒は考える。
大切なのは、忘れないこと。
そうすれば、思いは何度でも応えてくれるから。
・・・・・それが、ものくろの生きた証でもあるのだから。
「ぱぱっ、しゃぼんだまー、みてぇ・・・」
足元では駿太が、パタパタとしながらシャボン玉を吹いては追い掛け、吹いては追い掛け、している。
小さいのや、大きいのが、風にのって飛んでいく。
そのたびにキャッキャッ、とはしゃいでは、また飽きもせずに吹いては飛ばして。
天気は晴れ。やや風は強く、雲はどんどんと流れて、まるで急ぎ足で初夏の到来を知らせているよう。
由緒は空を見上げた。
この空とは違う、あの朝の寒々した空が見えた。
あの日の空が―――――――。
いつか、自分にも来るのだろう、その時。
由緒は何かを残せるだろうか。
駿太に、繭子に、――――――――この世界に。
けれどそれにはまだ果たさなければならない責任がある。義務がある。
自分は生きているから。
生きているものは、今日を、明日を、精一杯に生きる必要がある。・・・・・それが出来なかったもののためにも。自分なりの不正解の理由を付けてでも。
由緒は空を見上げた。・・・・そして改めて、誓う。毎日を、精一杯に。
ものくろが残してくれた思いを忘れずに―――――――――。
あの空を向かって。今日も誓う――――――――――――――――僕は――――――――