灰色の詠唱
――――自分の醜さを憂え、神に泣きついた少年がいた。彼は様々な事柄を経て王となり、よく国を統治した。
――――孤独を嫌がるあまり、夕日に飛び込んで太陽と同化した少女がいた。人々は彼女を儚んだが、少女は幸せだった。
目が回る程にたくさん積み上がった本の山は、雪崩を起こしそうだ。いつもは決して外さない白銀の仮面を無造作に本の上へ放置したまま、少年は分厚い本のページを捲っていく。
騒がしい城下町の風景も、メインストリートから一本通りを違えれば、違った色を見せる。少年が居座っている書物庫にしたってそうだ。王城が所有している建物ではあるものの、寂れていて幽霊屋敷みたいな外観をしている。外壁は蔦が覆いつくし、雨ざらしにされたまま手入れもろくにされていないため、赤煉瓦は黒煉瓦と化している。
「飽きた」
少年は目頭を押さえ、伸びをした。天井に嵌め込まれた色ガラスが少年の白い肌に色味を与える。鈍色の髪と空色の双眸が光を浴びることによって煌めいた。
「ペルソナ、入っていい?」
心地よい、日溜まりのような声が少年の耳に届いた。ペルソナと呼ばれた少年は緩慢な動作で放っていた仮面を被り、「どうぞ」と簡素な返事をする。
書物庫の中でも最も本が詰まっているこの部屋に訪れることの出来る者は極僅かだ。
隠し部屋である以上、当たり前と言えば当たり前である。書物庫に入ってすぐ左脇にある重そうな悪魔の像を動かせば、右突き当たりの像が動き、北部屋の壁際にある本棚の上から梯子が下りてくる仕組みだ。梯子を上がれば隠し部屋へと続く小さな扉がある。まるでカラクリ屋敷のようだが、昔は重要な文献を隠していた場所であったからその名残だろう。
今となっては、重要な文献の殆んどは地下へ隠されている。ペルソナも、それが利口な考えだと思っていた。誰も、地下牢の一角に重要歴史文献などが隠されているとは思うまい。
「もう、聞いてる?」
ペルソナがぼんやりしていると、いきなり少女が彼の顔を覗き込んだ。彼は突然現れた少女の顔に驚き、目を瞬かせる。しかし、その表情の変化は仮面が全て隠していた。
「…………聞いてない」
素直にそう告げるペルソナを睨みつけると、少女はつんと横を向いた。
「じゃあこれはあげない」
少女の腕には大きなバスケットがぶらさがっている。美味しい匂いがペルソナの鼻孔を擽る。焼き立てのパンやクッキーの匂いだとすぐにわかった。
「待って、僕が悪かったよ。すごくお腹減ってるんだ」
少年が縋るように、乞うように言えば、少女はばつが悪そうに頭を掻いた。
「そんな必死に言わなくてもあげるよ。別に話を聞いてなかったぐらいで拗ねたりしないって」
ペルソナは冗談が通じないねえ、と暢気な声で少女が笑う。それにつられて少年も微笑を洩らした。
バスケットの中に詰め込まれていたパンやクッキー、マフィンはまだ温かみを持っている。作りたてなのだと少女はペルソナに言った。
屋根裏のようなこの場所は光に満ち溢れており、昼下がりの時間を穏やかに演出している。小窓を開ければ、小鳥や蝶達が色ガラスの幻想的な美しさに惹かれてだろうか、戯れてくる。自然のざわめきはささくれたペルソナの心を程よく癒す。
「ペルソナ、もう辞めればいいじゃない」
ポツリと少女が呟いた。
「日の光がきっと、あなたを癒してくれる。闇はあなたを癒してくれないよ。ただ、穏やかさを与えるだけ」
少女に真っ直ぐな目で射られ、ペルソナは俯いた。太陽の匂いがする少女は彼を丸ごと包み込む。
「優しくて冷たいペルソナ。私はあなたが大好き」
縛られている居場所から、ペルソナが脱け出せないことを承知していてもなお、少女は光へ彼を誘おうとする。その度にペルソナは戸惑い、迷う。しかし、いつも答えは――――…………。
柔らかな手つきで少女の体を突き放す。
「操り人形はね、最期まで操り人形のままでしか生きられないんだよ」
毎日繰り返される少女とのこの無意味な会話が、ペルソナにとってはかけがえのない日常だ。夜になれば、あの場所が少年を必要とするだろう。せめて、それまでは光の中にいたいといつも少年は願っていた。
少女は痛みを含んだ笑顔を作る。
「罪人達はペルソナからたくさんの物語を聞いてるってお父さんが言ってた。ペルソナの紡ぐ物語は怒りや憎しみに満ちた罪人の心に安らぎと赦しを与え、詠唱を聞いてるかのように感じるって」
少年は黙って再び本を開く。開いたページには、大きな挿し絵があった。
今日もまた孤独な世界へ帰って行ったペルソナを見つめ、少女は腰を上げた。本に躓かないよう注意しながら喧騒が広がる世界へ帰ろうとする少女を、ペルソナは呼び止めた。
「どうして君は、僕に構うの?」
その問いに、少女は口を尖らせた。当たり前のことを聞くなと如実に表情に滲み出ている。
「当然じゃない。灰色のアリアを謳うあなたは美しいからよ」
ペルソナは誰もいなくなった部屋で、皆に祝福されながら湖畔で詠唱する女性を描いた挿し絵を、穴が開く程に凝視していた。自分とは似ても似つかない、どこか少女を連想させるその姿が、羨ましくもあった。
※ ※ ※ ※
歪な石が積み上げられている空間を照らすのは、ランタンの灯かりのみだ。地下水が浸食してきているこの牢の管理を任されている少年は、幾本もの鉄棒で外界から隔離されている者達に目を配り、死んでいる者がいないかどうかを確認する。
「ペルソナ、話をしてくれ……昨日は世界の醜い部分の話だったから、今日は優しい部分の話がいい」
一番奥まった檻の中に収容されている男がペルソナへと手を伸ばす。男は人間とは到底思えない皮膚と姿形をしている。差別され、蔑まれ、見世物小屋をたらい回しにされていたその男は雇主を殺してしまい、地下牢へとやって来た。男がどのような人生を送ってきたかペルソナに知る由もないが、遠い昔地上で吸収した書物の内容を伝え語ることは出来るから。
ペルソナは近くにあった木製の簡素な椅子を檻の前まで引きずってくる。そして、レンガの裂け目に打ち込まれた釘にランタンをかけ、ゆっくりと椅子へ腰を下ろした。淡いオレンジの光がペルソナの鈍色の髪と空の瞳を揺らめかせる。
「いいよ。微睡みながら聞いてくれ」
心地よい音楽のようなペルソナの声がした途端、他の檻内から上がっていた唸り声がぱったり止んだ。誰もがペルソナの話に耳を傾けている。
「主人公は女の子。たいそう心の美しい少女だった」
とてもね、とまるで何かを思い出しているかの如く、ペルソナは目を細めた。
声を荒げることなく、穏やかに連綿と紡ぎあげられていく小さく大きな物語達は、闇の中、出口を探すために存在するランタンの光。
仮面が語るは、真白いとは言い難く、漆黒とも言い難い、安らぎと赦しを与える灰色の詠唱。
『ペルソナはただ、人々に安らぎと赦しを与え続けるだけ。注ぐだけしか知らないあなたに、私は何かをあげたいな。何がいい?』
――――ねえ、ペルソナ。
(お願いだから、もう呼ばないで。耳を塞いでも聞こえる君の声は、この現実の前ではあまりに残酷で、苦しいから)
口は勝手に物語を話している。しかし、頭の中でリフレインするのは少女が遺した最期の呼び掛けだ。
仮面の縁を伝って流れ落ちた水滴は、石で固められた地面に吸い込まれていった。




