4:かくして探偵は大家になっちまった
洗面器の鏡の前で身だしなみを整える。Yシャツ、黒いジャケットを羽織り、乳白色のネクタイを締める。後は髪型だが、お気に入りのモジャモジャヘアーが少しだけ荒れているような気がする。ツバをつけて髪を整える。よし、と最後に黒ハットを被って事務室に出る。そこにはユリハ・ヨツビシ……いや、ただのユリハちゃんが座っている。あの事件以降、光のない眼差しだ。
「ザックさん、下半身すっぽんぽんです」
おっといけねえ、洗面器の小せえ鏡のせいで見えてなかった下半身がトランクスだけのまんますっぽんぽんでやって来ちまった。
気を取り直して、黒いスラックスを履いて革靴を履く。革靴で床をカンカンと叩く。うん、いい感じだ。
「それにしてもユリハちゃん、早速新聞にあんたの死亡記事が載ってるぜ。ま、新聞紙の片隅にちょこんと程度だがな」
「……ニュース番組でもヨツビシの四女が亡くなったって見ました。おとうさ、いえ、テツゾウは本当に私を亡き者にしてしまったのですね……」
探偵事務室に重い空気が流れる中、ノックの音がして大家が入ってきた。
「ザック」
「おお、大家じゃねえか。ちょうど換金が済んだ頃なんだ、少し遅れたが、ほれ、滞納してた20万。それと! 先払いで500万も払ってやるよ! ユリハちゃんと執事が身に着けてたアクセサリーが思いのほか高額でな」
ユリハちゃんはあの事件の直後、すぐにアクセサリーを全て外して俺によこした。もう意味がないから好きにしていい、と言われた。少し心は痛むが、どうせアクセサリーの金の出どころはテツゾウだから気にしないことにしている。
「どうだい、大家。これで大家の借金も払えるだろう?」
「……いや、契約の分だけ払ってくれればいい」
俺がバッグの中に入れた520万エルから大家は20万エルだけ抜き取って、残りを俺に返した。
「……ちょっと待てよ。大家さん、あんた、借金で首が回らないんだろ。素直にもらっとけよ」
「俺の借金は俺個人のもので、大家としての借金じゃねえ。契約外の金は受け取らねえ。ま、ザック、座ろうや。実は俺から依頼があるんだ」
「お、おう」
大家の何か諦めたような安からな顔に戦慄しながら、レザーソファに腰掛ける。
「……ザック、お前にはこのビルの大家を継いでほしい」
「はあ?!」
ーーー急に何を言い出す。
「お前、目ェついてんのか。看板見たのか、ここは探偵事務所で俺は探偵なの! 大家じゃないよ!」
「でも何でも屋に成り下がってんだろ。いいから俺の言う事聞けよ」
「……どういうつもりだい、あんた」
「……俺ァ多額の借金を抱えてることはあんちゃんも知ってるな。ちょびちょび返してはいたんだが膨れ上がる一方で、ついにヤミ金に死刑宣告されちまった。これから俺はヤクザに連れてかれて……まあ、俺は金に換えられる。漁船か内臓移植かは知らんが」
「だ、だ、だったら500万エルも持ってけよ! 返せないにしても延命くらいできんじゃねえか!」
「延命してもしょうがないと思っている。ザック、お前に大家を託していいか」
その真剣な眼差しに押されそうになってソファに手をつく。
「……俺に大家を託すってのは、その、俺がここに住み続けられるように?」
「それもあるが……、俺はこのビルに恩があるんだよ。昔、俺が借金こさえて落ちぶれてアケイラシティに来た時、前の管理者に拾われて安い家賃で住まわせてくれた。その人はヤクザのいざこざに巻き込まれて亡くなっちまった。このビルは俺の家であり、俺の恩人の形見でもあるんだ……」
「そうか……」
「ま、壁は銃弾の穴だらけになっちまったが、あんたほどの強い男ならビルを守ってくれると信じている。頼んでいいか?」
まいったナア。大家の目が潤んでいる。俺が弱いのは女の涙だけで十分だっていうのに……。
「……そこまでいうなら、引き受けてやるよ。まァ俺しかいねェから大家もヘッタクレも無いかもしれんが……」
「そっか、ありがとう。じゃ、この20万エルも大家であるお前が受け取るべきだな」
大家は俺がさっき渡した20万エルをそのまま机の上に置いた。外で車が、キッ、と停まる音がした。
「もうお迎えが来やがった」
「見送るぜ」
俺は外に降りて、大家を見る。アカウシ組のヤクザが大家を車に押し込もうとする。
「ったく、ヤクザにカネを無心するなんて若い頃のアンタは何してたの」
「あの頃はやんちゃで無知だった。後悔の多い人生だったが、まぁしょうがないさ」
大家が車に座り込み、両脇を挟むかたちでヤクザも続いて乗り込む。大家は車のガラス越しに雑居ビルを見あげたまま、車に連れてかれちまった。
車が行った後には何も残らなかった。虚しさだけが残った。
「……俺が、もっとちゃんと家賃を返していれば良かったのか?」
俺が呟いた言葉は風に消える。意味のない仮定だ。滞納していた20万エルをちゃんと返していても同じ結末になるほど大家の借金は大きかったハズだ。そう考えても後味がわりィ。まるで苦いものが口の奥歯あたりに残ってるみたいだぜ。
「……あの人、連れててかれちゃったんですか」
探偵事務室に戻ると、虚ろな目をしたユリハちゃんが俺を見て言った。
「まァな。俺としてもどうにかしてやりたかったが……、大家にはきっぱり断られちまった」
「そう……。あの人も私に優しくしてくれたのに残念です」
レザーソファにドカリと座り、煙草に火をつけようとしたところで目の前にユリハちゃんがいるのに気づく。
『ザック、若い嬢ちゃんの前で喫煙は禁止だ』
記憶の大家が俺から煙草を取り上げやがる。仕方なく煙草を仕舞い、ユリハちゃんに向き直る。
「ところでユリハちゃん。もう3日目だぜ。ずっとじっとしているわけにはいかねえだろ」
「……何をすればいいんですか。特技なんてないんです。勉強だって良くなかったし、もう死ぬしかないんだと思います」
「悲観的になんなよ! いちおうアイバ執事からユリハちゃんを守れって依頼は今も続いてんだから」
「……そう」
まいった。ショックがでかすぎて心がピクリとも動こうとしねぇ。
「はあぁ。ま、いいさ。蓄えが尽きるまでは居させてやるが、自分の世話は自分でやるんだな」
「はい」
力のない返事が続く。俺はユリハちゃんと違ってまともに動かなきゃなんねえ。
「おい嬢ちゃん、俺は依頼がどっかに落ちてないか街に探しに行く。嬢ちゃんはここを動くんじゃねえぞ。じゃねえとすぐに死んでしまうからな。外に出るのはダメだが、このビルをうろつくのも危険だ。特にこの部屋の真上にある三階の部屋には入るんじゃねえぞ!いいか、入るんじゃねえぞ!」
「……、何があるんですか?」
「大家の話では……おっと今は俺が大家か。前の大家が言うには、真上の三階の部屋にはヤクザに雇われの化学者が入居してたらしい。どっかで死んだみてぇで、部屋の中には化学物質がそのままになってるって話だ」
「なるほど……」
一瞬だけ嬢ちゃんの目が動いた。なんで? まあ、行動力のねえ今なら変な動きはしないだろう。
「とにかく変なことはするなよ! じゃ行ってくらぁ」
探偵事務室を出た廊下で俺はやっと煙草にありつける。そのまま煙を吐きながら俺は辺りをつけた所へ仕事を探しに行く。
「全滅かよ」
何処にも仕事が無い。正確には、俺の美学に適う仕事が無い。アケイラシティじゃ、人を食うような仕事しかないせいで俺みてぇにマトモに生きる人にはつれぇ世界だぜ。
携帯灰皿に吸殻を放り、手持ち無沙汰で探偵事務室に戻る。
「ん……?」
ユリハちゃんの姿が無い。部屋の事務室エリアだけでなく、寝室や居間を探してもユリハちゃんの姿がなかった。
「いったいどういうことだこりゃ?!」
慌ててビルの廊下に出る。そして廊下の床を見ると、ユリハちゃんの足跡が階段に続いているのが分かった。ビルは掃除されてねえから、足跡が分かるくらいにチリが溜まっているんだよ。
足跡に沿って三階にあがると、ユリハちゃんは何と俺が散々入っちゃいけねえと言った部屋に入っちまっている。
「おいコラ! この部屋に入っちゃいけねえと言っただろうが!」
その部屋に押し入ると、大声に怯えたユリハちゃんがビクッとこちらを振り返った。
……本当に化学物質と器材だらけの部屋だな。ガキの頃の学校の理科室を思い出す。いや、それ以上か。
「ご、ごめんなさい、ザックさん、でも……」
「うん?」
ユリハちゃんの手元を見ると、中学校の理科の実験をしていた。ーーー酸化銅の還元実験だ。
「なんだ、学校でやる実験じゃねえか。それに、ユリハちゃんが読んでるのは理科の教科書じゃねえか?」
「はっ、はい、この部屋に教科書から専門書まで揃ってたので……」
「で、なんで実験してたの。安全な実験を選んでやってるようだからいいんだけど」
「……ザックさん、私が前に話してたことを覚えていますね? 私の身の上の話」
「ああ」
「私は本当に何もさせてもらえなくて……理科の勉強も、座学だけで実験なんてさせてもらえなくて。ただただ暗記するばかりで、実験に憧れてたんです」
「なるほど、それでこの実験ね……」
確かによく見れば、ユリハちゃんの瞳に少しづつ光が戻りかけている。
「分かった。この部屋は条件付きで使って構わない。教科書に載ってる実験だけするんだぞ。間違っても専門書の実験はダメだ、危険だからな。いいな?」
「はい!」
「……生きる望みが出たついでに話すけど」
俺は倒れていた椅子を起こしてよっこらしょと座る。
「名前、どうする? いつまでもユリハ呼びじゃダメでしょ」
「そう、ですね……。私は他人にならないといけないですよね」
公式にはユリハちゃんが亡くなっていることになっている以上、名前は別のものを考えなければならない。ユリハちゃんの発言を待っていると、彼女は懐からアイバ執事の写真を取り出して眺める。
「……私を産んだ人は遊び人でろくに構ってくれた記憶がありません。テツゾウや義母、兄妹たちは私に冷たかったです。ただひとり……アイバ執事だけが私のことを思いやってくださいました」
「……そう。アイバ執事だけが心の家族だったわけだ」
「心の家族……そうですね。私はアイバ執事から名前を受け継ぎたいと思います」
「ほう。じゃあ……アイバ執事のフルネームはアイバ・ヤスズミだったね。じゃあ……」
息を吐いて、吸う。
「アリハ・ヤスズミを新しい名前にしたらどうだ。アイバ執事とあんたの名前を合わせてみた」
ーーー嬢ちゃんの目が輝いた。
「いいと思います! 私はアリハ・ヤスズミ……アリハ……うん、アリハです!」
ユリハ……いや、アリハちゃんはアイバ執事の写真を抱いて感涙している。ま、この涙は良い涙だ。
アリハちゃんの涙粒が黄昏の光を受けて光っているのが、俺には眩しかった。




