復讐
自室のベッドから起き上がったセシリアは、部屋の隅にある小さな棚に目が留まった。棚の引き出しを引いてみるが、カチリと硬い手応えがあり、鍵がかかっている。優依の記憶を辿るように意識を張り巡らせると、答えはすぐに弾き出された。爪先立ちになり、本棚の一番上の奥へ手を伸ばすと、小さな金属の鍵が指触れた。
鍵穴に差し込み、回す。かちゃりと静かな音がして引き出しが開いた。
中に納められていたのは、一冊の大学ノートだった。
表紙をめくると、そこには細く震える文字で、連日のように受けた凄惨な嫌がらせの記録がびっしりと書き連ねられていた。教科書を切り裂かれたこと、靴に生ゴミを入れられたこと、死ねと書かれた紙を背中に貼られたこと……読むだけで心が削られるような痛々しい記述。ページの端々には、落ちた涙が紙を波打たせた跡が、生々しく残っていた。
机の上に置かれたスマホを手に取り、画面を立ち上げる。通知欄には、読むに堪えない暴言や脅迫のメッセージが幾つも残されていた。
「これほどの証拠を残しておきながら見逃すなんて……本当に不器用な子。でも大丈夫、私がこの証拠を使って、あなたを苦しめた奴ら全員に相応の『社会的制裁』を与えてあげるわ」
セシリアは液晶の光を見つめながら、静かに怒りの炎を燃やした。
あなたの代わりに、私がすべてを清算してあげる。そう心の中で優依に誓う一方で、セシリアにはひとつだけ大きな疑問が残っていた。なぜ、これだけの証拠を持ちながら、彼女は誰にも助けを求めず、ただ耐え続けて自ら命を絶つ道を選んでしまったのだろうか、と。
◇
鏡の前で優依の制服に袖を通し、家を出る。
歩を進める途中、ポケットの中でスマホが震えた。画面を開くと、胸糞悪い文面が躍っていた。
『なんで生きてんの?』
『今日学校来れる?』
冷ややかな視線でメッセージを一蹴し、学校の門をくぐる。
校舎に入った途端、待っていたかのように薄笑いを浮かべた女子生徒たちが立ちふさがった。
「うわ、飛び降りたってマジ? ウケるんだけど」
へらへらと嘲笑う彼女たちは、いつもの手慣れた動作で、人目につかないようにセシリアの肩を組み、校舎の奥にある空き教室へと連れ込んだ。重い鉄扉が閉ざされ、密室と化す。
セシリアは心の中で決意した。
まずは社会的に殺す前に、優依が味わわされた苦痛を、その身に直接教えてやろう、と。前世の呪縛からはもう解き放たれたのだ。私は自由であり、何者にも縛られることはない。貴族社会の泥沼のような駆け引きや、過酷な妃教育を叩き込まれてきたセシリアにとって、思春期の子供が弄する浅いいじめなど、ただのおままごとに過ぎない。
「おやおや、身の程を知らない下賤な羽虫が騒がしいですね。言葉遣いすら満足に教育されていないのですか?」
静かに言い放った言葉に、中心に立っていた少女が眉をひそめ、怒りを露わにした。
「……は? 偉そうに何言ってんの。頭ぶつけたから忘れちゃったわけ? もう一回身体に教えないと分からないのかな」
彼女の名は、沢城美玲。優依を追い詰めた主犯格だった。沢城の取り巻きの女子二人が、下品な笑いを浮かべながら近づいてくる。
「大人しくしときなよ、ゴミが!」
一人が腕を振り上げ、セシリアの顔面に向かって拳を突き出してきた。
だが、セシリアの身体は前世で己の身を守るために叩き込まれた剣術と武術の体捌きを即座に再現した。最小限の動きで攻撃を易々と開くと、隙だらけになった取り巻きの一人のお腹へ、深く重い蹴りを叩き込む。
「がはっ……!?」
息を詰まらせて崩れ落ちる一人目を視界の端に収めつつ、すかさずもう一人の取り巻きの懐へ踏み込み、寸分の狂いもなくみぞおちへ鋭い拳を突き刺した。
「ぐっ……あ……っ」
一瞬のうちに二人の取り巻きが床に倒れ込み、お腹を押さえて呻き声を上げている。あまりの光景に、沢城は目を剥いた。
「は……!? ちょっと、ふたりとも何してんの……っ! こんなゴミ相手に!」
予想外の展開に混乱しながらも、沢城は虚勢を張るようにセシリアへ歩み寄ってきた。その顔には、醜いニヤけ面が張り付いている。
「ねえ、私に暴力振るっていいと思ってんの? あなたの両親がどうなってもいいわけ? 私の家が、このあたりでどれだけ有名か知ってるよね……?」
その言葉を聞いた瞬間、セシリアの中で全ての謎が解けた。
なぜ、白崎優依が明確な証拠を持ちながら、何もできなかったのか。
優依は優しかったのだ。心優しく、そして不器用だったからこそ、自分がいじめを告発すれば、権力を持つ沢城の家によって愛する両親へ危害が及ぶことを何よりも恐れていたのだ。
強烈な怒りが、セシリアの胸底から燃え上がった。
それはまるで、前世の己を見るようだった。自分を犠牲にしてまで何かを守ろうとした点において、二人は同じだった。だが、ただの政治の道具として使い捨てられた自分とは違い、優依は大切な家族の温もりを守るために、たった一人で絶望を背負い込んだのだ。
こちらの優しさに付け込み、何もしてこないのをいいことに調子に乗る虫ケラども。その存在自体に、虫の唾液を飲まされたかのような激しい嫌悪感が走る。
セシリアの唇が、不気味な笑みを形作った。
「……な、なに笑って──」
言いかけた沢城の頭髪を、容赦なく掴み上げる。
「きゃっ!? 離しなさいよ! 家族がどうなって──」
「ぐふっ……!?」
言葉の途中で、セシリアの拳が沢城のお腹へめり込んだ。みぞおちを正確に穿たれ、沢城は吐気とともに目を見開く。
「何かしら? よく聞こえなかったのだけれど」
「お前っ、ふざけ──」
ドスッ。二発目。
「あ……がっ……! ひっ……」
「ええ、何かしら?」
何かを言いかけようとする度に、セシリアは感情を殺した無機質な正確さで、容赦なく拳を叩き込んだ。三発、四発。容赦のない激痛が身体を苛み、ついに沢城の膝が折れた。
「ごめっ……ごめんなさいっ……! 許して……うぁっ……涙」
取り巻きのように床にへたり込み、ボロボロと涙を流して許しを乞う沢城。その惨めな姿を見下ろし、セシリアは極上の笑みを浮かべた。
「どうしたのかしら? さっきまでの威勢はどうされたの?」
髪を掴んだまま顔を寄せ、怯える沢城の耳元で、冷たく澄んだ声を囁く。
「……これで終わるなんて、思わないことね。」
髪を乱暴に解放すると、沢城はそのまま床へ倒れ伏した。セシリアは一度も振り返ることなく、静まり返った空き教室を後にした。




