プロローグ
「殺せ! 人殺し!」
「悪女め! 罪のない人々を死に追いやった罰を受けろ!」
頭上から降り注ぐのは、耳を刺すような怒号と容赦のない罵声。広場を埋め尽くす民衆の顔には、苛烈な憎悪と軽蔑が張り付いていた。セシリア・ヴァレンティアは、高台に設けられた無機質な木製の処刑台の上で、冷たい板にひざまずかされていた。
「……ふふ、滑稽だな」
乾いた唇から漏れたのは、力のない自嘲の笑みだった。かつて自分たちが守るべき対象だと信じ、身を削って尽くしてきた民たち。その口から吐き出されるのは、自分を汚悪な大罪人と決めつける言葉の数々だ。反論の機会すら与えられず、ただうつむくセシリアの脳裏に、ここに至るまでの惨めな半生が鮮明に蘇っていく。
◇
『セシリア、お前はこの国のために生きろ。ヴァレンティアの血はそのためにあるのだ』
幼い頃、父シリウス・ヴァレンティアは冷徹な眼差しでそう命じた。
10歳になった時、拒否権などなく第二王子セドリックとの婚約が決まった。父と国王の個人的な懇親と、利害の一致による政略結婚だった。
『セシリア、僕たちの婚約は国のためだ。けれど……きみのような美しい人と結ばれて僕は幸せだよ』
出会った頃のセドリックは、母譲りの金色の髪と父譲りの紫の瞳を持つセシリアの美貌に目を輝かせ、優しく微笑みかけてくれた。学園でも誰もが憧れる最高峰の令嬢として持て囃された。だが、今となってはそんな言葉も誇りも、虚しい冗談でしかない。
セドリックを立派な国王にするため、セシリアは心を殺し、過酷な妃教育に耐えながら様々な助言をし続けた。
『セドリック様、次の法案についての政務ですが──』
『黙れ! もういい! お前はいつもいつも、僕に説教ばかり……鬱陶しいんだよ!』
次第にセドリックは聞く耳を持たなくなった。正論ばかりを口にするセシリアを遠ざけ、甘い言葉を囁く別の令嬢へと傾倒していった。
そして迎えた、学園の卒業舞踏会。華やかなシャンデリアの下で、セドリックは公然と叫んだ。
『セシリア・ヴァレンティア! お前との婚約を破棄する! それだけではない、お前が裏で犯してきた数々の罪……罪なき民を手にかけた悪行の数々、到底許されるものではない! 捕らえろ!』
身に覚えのない大罪の濡れ衣を着せられ、セシリアは暗く冷たい牢獄へと叩き落とされた。
投獄されてからの15日間。カビの生えた固いパンと濁った水だけを与えられ、風呂にも入れず身体からは惨めな臭いが漂っていた。
『父様……どうして助けに来てくれないのですか……』
牢の中で、膝を抱えて呟いても返事はない。父は助けに来るどころか、一度も顔を見せなかった。自分はただの都合の良い道具だったのだと、絶望の中で察した。学園で親しくしていた友人たちも、セシリアの没落が決まった瞬間に蜘蛛の子を散らすように去っていった。彼女たちが欲しかったのは「セシリア」ではなく、「公爵家の権力」だったのだ。
そんな暗闇の中、一度だけ鉄格子越しに現れた人物がいた。
『セシリア様……! すみません、私の力不足で……今すぐここからお出しすることができず……!』
『レオン……? どうしてあなたがここに……』
面会に来てくれたのは、護衛騎士のレオンだけだった。握りつぶしそうなほど拳を強く握りしめ、悔しさに唇を噛み締めていたレオン。だが、彼も数回来たのち、姿を見せなくなった。きっとセドリックたちの手によって遠ざけられたのだろう。
はじめは涙が溢れた。だが、次第に涙すら出なくなった。
(こんなことなら……すべてを捨てて、誰にも縛られずに生きたかったな……)
最期に言い残す言葉すら、何も思い浮かばなかった。
◇
「これより、悪女セシリア・ヴァレンティアの処刑を実行する!」
高壇の上から、セドリックの冷酷な声が響き渡る。ギロチンの重い刃が音を立てて落ちてくる。首に走る強烈な衝撃と激痛。視界が急速に赤く染まり、死の闇がセシリアの意識を完全に呑み込んだ。
──はずだった。
「……っ!?」
重い瞼を開けると、視界に飛び込んできたのは見たこともない白い天井だった。冷たい処刑台の感覚はない。柔らかく、暖かい布団の上に横たわっている。
「ここ……は……?」
直後、頭の奥を強打されたかのような激しい痛みがセシリアを襲った。
「あぐっ……! あ、頭が……割れる……っ!」
こめかみを強く押さえ、ベッドの上で身をよじる。脳裏に、怒涛の勢いで「セシリア」のものではない未知の記憶が流れ込んできた。
舗装された道路、立ち並ぶ高層ビル、鉄の箱が行き交う街並み。
そして、この身体の持ち主の人生。
名前は、白崎優依。
ここは「日本」という異国の地。優依は高校で陰湿ないじめを受けていた。親に心配をかけまいと誰にも相談できず、一人で抱え込み続けた結果、心が限界を迎えてしまったのだ。
『もう、耐えられない……』
優依は夜の街を彷徨い、橋の上から冷たい川へと身を投げた。飛び込む姿を目撃した通行人がすぐに通報し、救急車で病院へ搬送されたが、彼女の意識が戻ることはなかった。植物状態のまま、病院のベッドで静かに眠り続けていたのだ。
その抜け殻となった優依の身体に、セシリアの魂が憑依した。
「う、あ……ふぅ……」
荒い息を整えながら、セシリア──優依はそっと自分の手を見つめた。
金色の髪も、紫の瞳もない。鏡に映っていたのは、黒髪に黒い瞳をした、どこにでもいる素朴な少女の姿だった。
「私は……生きているの? 白崎優依として……」
自分の声を確かめるように呟く。
もう、公爵令嬢として国に身を捧げる必要はない。父の道具になる必要も、王子に媚びを売る必要も、冤罪を着せられて民衆から石を投げつけられることもないのだ。この身体の持ち主もまた、出口のない理不尽な苦しみの中で追い詰められていたのだと知り、胸が激しく締め付けられた。
(優依……あなたも、誰にも助けを求められず、たった一人で絶望に耐えていたのね)
優依は静かにベッドから降り、窓辺へ歩み寄った。カーテンを開けると、眩しい朝日が射し込み、見たこともない日本の穏やかな街並みが広がっていた。
「ふふ……あははっ……!」
胸の奥から湧き上がってきたのは、悲鳴でも絶望でもなく、自由を得た歓喜の笑いだった。頬を伝う涙を乱暴に拭い、彼女は新しく手に入れた小さな胸に、力強く誓いを立てる。
「さようなら、セシリア。さようなら、苦しみに満ちた過去。……今度こそ私は、白崎優依として、私のために自由に生きてみせるわ。あなたの分まで」




