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第5話 漂着者と静かな問答

季節の変わり目を告げる風が、世界樹の葉を優しく揺らしていた。


短剣の仕上がりを確認し、革紐で腰に静かに固定したリュートは、作業台の汚れを布で拭き取っていた。炉の熱気が引き、静寂が再び鍛冶場を包み込んでいる。


その時、表の草地から、普段とは異なる気配が漂ってきた。


焦るような音ではない。ただ、多数のスライムたちが地面を滑り、波打つように一箇所へと移動していく微細な摺擦音が連なっていた。リュートが手を止め、外へ出ると、十数匹の緑スライムと水スライムが重なり合い、まるで柔らかい生体の担架を形成するようにして、何かを静かに運んでくるところだった。


「……人間?」


リュートは思わず呟いた。

スライムたちの背の上に横たえられていたのは、リュートと同年代――十五、六歳ほどに見える一人の少女だった。


泥と枯れ葉に汚れ、あちこちが破れた衣類。だが、その布地は絹のように滑らかで、袖口には繊細な銀糸の刺繍が施されている。濡れた金糸のような髪が痛々しく頬にこびりつき、呼吸は浅く、体温は警戒するほど冷え切っていた。


大森林の外縁部で倒れていたところを、巡回していたスライムたちが発見し、ここまで運んできたのだという。


「……急いで部屋へ入れよう」


リュートは腕を回し、少女を抱き上げた。見た目以上に軽かった。何日もまともな食事を摂らず、ただひたすら逃げ惑っていたことが察せられた。


世界樹の温もりが満ちる家の中に運び込み、手作りの堅牢な木造ベッドの上に静かに横たえる。

水スライムが綺麗な温水を溜めた鉢を運び、風スライムが微かな温風を送って室内の湿度と温度を絶妙に保った。リュートは湿らせた布で少女の汚れを丁寧に拭い、自家製のあたたかい薬草スープを器に注いだ。


スープには、リュートが畑で育てた最高品質の野菜と、スライムたちが集めてきた傷を癒やす霊草がふんだんに使われている。数滴口に含ませるだけで、少女の青白かった唇に微かな血色が戻り、浅かった呼吸が深く穏やかなものへと変わっていった。


そのまま、丸一日が過ぎた。


翌日の夕刻。

窓から差し込む橙色の光が部屋を包む中、ベッドの上の少女の長い睫毛がかすかに震えた。


「……ん……ここ、は……?」


かすれた声だった。

少女はゆっくりと瞼を開け、深い翡翠色の瞳で天井を見つめた。職人が手作業で組み上げた、狂いのない美しい世界樹の木目を。


「目が覚めたかい」


脇の椅子に座っていたリュートが、静かに声をかけた。

少女は跳ね起きようとしたが、身体の節々に走る疲労感に顔を顰(しか)め、すぐさま周囲を警戒するように視線を走らせた。


そこに広がっていたのは、想像を絶する光景だった。


見事な木肌を持つ豪華な部屋。テーブルの上に置かれた湯気を立てるスープからは、嗅いだこともない高貴で芳醇な香りが漂っている。そして何より、部屋の隅やベッドの足元に、色とりどりの半透明なスライムたちが、無音のまま行儀良く佇んでいた。


「あ……貴方は……? 私は、森の入口で息が切れて……それに、その魔物たちは……」


「ここは中央大森林の奥だ。僕はリュート。スライムたちが君を見つけて、ここまで運んできたんだよ。怪我はもう大丈夫かい?」


「中央大森林の……奥……?」


少女は絶句した。

人跡未踏の魔境とされる森の最深く。そこに、これほど端正な家が存在し、無数のスライムを従える同年代の少年が一人で暮らしているなど、到底信じられることではなかった。


「……スープを飲むといい。身体が温まるよ」


リュートが差し出した木製の器を、少女は戸惑いながらも両手で受け取った。一口含んだ瞬間、少女の瞳が大きく見開かれた。喉を通った瞬間から全身に澄んだ熱が巡り、蓄積していた致命的な疲労と筋肉の痛みが、まるで初雪が溶けるように消え去っていく。


「こんな……王宮の宮廷魔導師が作る最高級の治癒ポーションすら凌駕するお湯……一体、何なのですか……?」


「ただの自家製野菜のスープだよ。僕の畑で採れたものだ」


リュートのあまりに淡々とした返答に、少女は言葉を失った。


スープを飲み干し、息を整えた少女は、深く腰を落としてリュートに向き直った。その立ち振る舞いには、育ちの良さと洗練された気品が色濃く滲み出ていた。


「申し訳ありません。遅くなりました……私はエレノア。エレノア・フォン・シルフィードと申します。……いえ、今はただのエレノアです」


「公爵家の名だね。身分の高い方が、どうしてこんな危険な森に?」


リュートの問いに、エレノアは静かに瞳を伏せた。その表情には、激しい怒りでも深い悲しみでもなく、すべてを受け入れた静謐な諦観が宿っていた。


「……冤罪です。王太子殿下の婚約者でありながら、身に覚えのない聖女への嫌がらせの罪を問われ……『悪役令嬢』として、国を追放されました。実家の公爵家も権力闘争に破れ、私を守る力はありませんでした」


エレノアは淡々と語った。

王宮の陰謀、裏切り、理不尽な廃位。身一つで国境を越え、刺客の追撃をかわしながらたどり着いたのが、この大森林の入口だったという。


「行くあてもなく、ただ倒れる場所を探して森へ足を踏み入れました。……ですが、まさかこのような場所で命を救われるとは思いませんでした」


「そうか。大変だったんだね」


リュートは深く追及しなかった。自分自身もまた、スキル一つで実家から見捨てられ、銀貨三枚で捨てられた身だ。貴族社会の冷酷さと身勝手さは、身にしみて理解していた。


「僕も同じだよ。伯爵家の嫡男だったけれど、スライムしか従えられない『無能』だと言われて追放された。……でも、人間社会を離れてここに来てからは、何も困っていない」


「リュート様も……追放を……?」


「ああ。だから、君の行く場所がないなら――ここに居ればいい」


リュートはごく自然な口調で提案した。


「家は一人で暮らすには少し広いし、畑の野菜も食べきれないほど採れる。スライムたちも君を歓迎しているみたいだ。……嫌でなければ、ここで一緒に暮らさないか?」


エレノアは言葉を失い、目の前の少年を見つめた。

王宮の過酷な泥沼に毒され、誰も信じられなくなっていた心に、リュートの飾らない言葉が静かに染み込んでいく。


窓の外を見やれば、無数のスライムたちが夕闇の中で優しく明かりを灯すように、ほのかな光を放ちながら佇んでいる。


「……私のような、国を追われた者が……お邪魔にならなければ……喜んで、お世話になります」


エレノアは膝の上で固く拳を握り締め、深く、静かに頭を下げた。


その夜、二人は小さな食卓を囲み、静かな夕食を共にした。

エレノアは、リュートが自分で家を建て、畑を開墾し、短剣まで鍛え上げたという事実を知るたびに、驚きを隠せずにいた。しかし、リュートがそれを誇るでもなく、ただ日課の作業として淡々と語る姿を見るうちに、心の中にあった焦燥感が少しずつ解けていくのを感じていた。


「ねえ、リュート様。外の世界は今、王太子の暴政と権力闘争で混乱を極めています。……外の様子を気にされることはないのですか?」


食後の茶を飲みながら、エレノアがふと尋ねた。


「外の世界、か……」


リュートは茶杯の湯気を見つめ、静かに思考を巡らせた。

自分自身は人間社会に戻るつもりは毛頭ない。だが、エレノアのように理不尽に追放され、追われる者が現れるほど、外の情勢が悪化しているのだとしたら――。


「……少しだけ、外がどうなっているのか知っておいた方がいいかもしれないね」


リュートが呟くように口にした、その一言。


部屋の隅に控えていた数匹の影スライムが、その言葉を拾うようにぷにりと一瞬だけ身体を伸縮させた。


言葉はなくとも、意思は伝播する。


その夜、リュートとエレノアが静かな眠りについた暗がりの中で、無数の黒く小さなスライムたちが、音もなく家を抜け出していった。

彼らは物陰から物陰へ、樹々の影から街道の影へと滑るように移動し、大森林の境界を越えていった。


王宮の影に、街道の隅に、貴族館の天井裏に。

誰の目にも留まらない流体生命体たちが、大陸全土へと密かに散らばり、人類の動向を正確に捕捉する広大な「目」と「耳」の網を、静かに広げ始めていた。

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