第2話 深緑の最奥と最初の手作業
大森林の内部は、昼なお暗い緑の静寂に包まれていた。
天を覆い尽くす巨木の枝葉は陽の光を極限まで遮り、地上に届くのは木漏れ日というよりも、緑色に濁った薄明かりの破片に過ぎない。踏みしめる足元は、数千年の歳月をかけて積み重なった落葉と腐植土の層で柔らかく、一歩踏み込むたびに沈み込むような独特の感触があった。
リュートは、擦れかけたブーツの底に伝わる感触に気を配りながら、静かに歩みを進めていた。
周囲を取り囲む空気は異様なほど重く、湿り気を帯びている。だが、リュートの心に恐怖や焦りはなかった。彼の前後左右、そして視界の及ぶ限りの地面を、数千、数万を数えるスライムの大群が隙間なく埋め尽くしていたからだ。
ずずず、ずずず、と微かな滑走音が、静寂に満ちた森の中に一定の音律で響く。
リュート自身はまったく気づいていなかったが、この中央大森林は「大魔境」の名の通り、本来ならば一歩足を踏み入れるだけで危険度Sランクに指定される凄絶な魔物たちが縄張りを主張する魔境であった。
樹上の闇からは、太い幹ほどの胴体を持つ大蛇『シャドウ・ヴァイパー』が獲物を狙って鎌首をもたげ、茂みの奥からは、鋼鉄の牙と爪を持つ大熊『ベアウルフ』が赤い眼光を光らせていた。
しかし、それらの脅威がリュートの視界に入ることは一度としてなかった。
リュートの歩む先、数十メートル先行する影の中で、スライムたちはすでに動いていた。
数千の半透明の体が無音のまま合流し、巨大な一塊の流体となると、襲いかかろうとした大蛇の頭部を瞬く間に包み込む。酸による溶解ではなく、圧倒的な質量と流動体特有の隙間のない密着。気道と視界を完全に塞がれた魔物は、声を上げることも許されず、わずか数秒で窒息・沈黙した。
押し寄せる圧倒的な物量。一切の音も立てず、ただ波が引くように脅威を平らげていく無駄のない連動。
リュートの頭の中で、時折、チャイムのような小さな振動が響いていた。
(……なんだろう、さっきから体が少し軽いような気がするな)
リュートは首をかしげる。
影で倒された魔物たちの経験値が『従魔術』の経路を通じてすべて彼に流れてきているため、リュートのレベルは人間の領域をあっさりと超えて急上昇していたのだが、本人はただ「長旅の割に疲れにくいな」程度にしか思っていなかった。
森へ入ってから三日が過ぎた。
深い木々の隙間を抜け、傾斜を登り切ったところで、突如として視界が開けた。
そこは、森林のほぼ中央に位置する広大な開けた土地だった。
平坦な台地の上に、清らかな透明度を誇る小さな泉があり、その周囲には豊かな青々とした草地が広がっている。大樹の重なりがそこだけ途切れ、丸い空から温かな陽光が円陣を描くように降り注いでいた。
「よし……ここにしよう」
リュートは胸いっぱいに清涼な空気を吸い込み、肩から下ろした旅行用袋を草の上に置いた。
人目を気にする必要のない、自分だけの場所。ここを彼の新しい生活の拠点とすることに決めた。
まずは、仮初めの寝床の確保だ。
リュートは袋から、街を出る前に数枚の銀貨の残りで買い求めた、粗末な布製の組み立てテントを取り出した。細い木製の支柱を交差させ、そこに一枚の薄い布をかぶせるだけの代物だ。
手際よく支柱を立て、ペグを土に打ち込んで固定する。
「とりあえず、今夜の雨風はしのげるかな……」
完成した小さなテントを見つめ、リュートはぽつりと呟いた。
だが、頼りない薄布が一枚張られただけの光景は、誰が見ても心もとないものだった。風が強く吹けば吹き飛んでしまいそうな、儚い野営の跡。
その言葉と呟きを、足元に集まっていたスライムたちは静かに見つめていた。
ぷに、と数匹の青スライムが身体を揺らしたかと思うと、一斉に周囲の深い森へと散っていった。
小一時間ほど経った頃だろうか。
薪にするための枯れ枝を集めていたリュートは、森の奥から響く地鳴りのような音に振り向いた。
「え……?」
そこに広がっていたのは、信じがたい光景だった。
緑や茶色の土スライムたちが重なり合い、まるで滑車やコンベアのように連なりながら、巨大な丸太や滑らかな石材をぞくぞくと運んできていたのだ。
それはただの木材ではなかった。高密度な木理を持ち、腐食に強く、建築材として最高峰と称される「世界樹」の枝木。そして石材は、古代の地層から切り出された、魔力を通さず極めて堅牢な「古代魔導石」のブロックだった。
スライムたちはそれらを傷一つ付けずに滑らせ、リュートの足元へと丁寧に並べていく。
『ぷに、ぷにっ』
水スライムが一匹、リュートの目の前に躍り出ると、自身の身体を四角く変形させたり、垂直に伸ばしてみせたりした。まるで「家を建てるなら、こう組むんだよ」と身振り手振りで示しているかのようだった。
「これを……使って家を作れってことかい?」
リュートが尋ねると、集まったスライムたちが一斉に身体を上下させて頷いた。
リュートは本来、物事を突き詰めるのが好きな凝り性な性格だった。
貴族の嫡男として育った頃は、武芸や魔術の学習を強要され、こうした「手作業」に没頭することは許されなかった。だが今、誰の目も気にする必要はない。目の前には、スライムたちが集めてくれた最高峰の素材と、無言ながらも的確に手助けをしてくれる頼もしい助手たちがいる。
リュートの心の中で、作ることへの静かな情熱が芽生えていた。
「よし……やってみよう」
作業は淡々と、しかし緻密に進められた。
まず、建物の基礎作りだ。
リュートはスライムたちが整列させてくれた古代魔導石を敷き詰めていく。土スライムたちが石と石の僅かな隙間に潜り込み、自らの体液と粘土を混ぜ合わせた特殊な可塑性セメントを作り出して間隙を埋めた。水平が取れているかどうかは、水スライムが自身の体内に張った水面を見せて教えてくれる。どんな水準器よりも正確な指標だった。
次に、柱と壁の切り出しだ。
リュートは手元の小さな鋸と鑿を手に取った。硬度の高い世界樹の木材は本来、通常の刃物では歯が立たない。だが、スライムの一群が刃の表面に高周波の微振動を発生させる粘液を付着させたことで、まるで熱したナイフでバターを切り取るように、思い通りの角材や板材へと加工することができた。
カン、カン、と澄んだ木槌の音が、無人の大森林に響き渡る。
柱を立て、鴨居を渡し、接合部には釘を使わず、木と木を噛み合わせる精密な組み木格子を施していく。
リュートは夢中だった。木肌の滑らかな手触り、刃を入れた時に立ち上る清々しい芳香、柱が寸分の狂いもなく垂直に立ち上がった時の充足感。作業を進めるうちに、スライムたちの示す意図が肌で理解できるようになり、彼の腕前は急速に研ぎ澄まされていった。
屋根には、重ね合わせた薄板の上に、水スライム特製の防水粘液をコーティングした屋根板を敷き詰めた。これでどんな豪雨も通さない。
数日間の集中した作業の末、そこに一軒の家が完成した。
間取りは一人暮らしに丁度良い、一室の簡素な木造住宅だ。過度な装飾はなく、佇まいは質素そのもの。
しかし、近づいてその細部を見れば、正気の人間なら誰もが息をのむ構造をしていた。
使われている木材は一切の歪みがなく、世界樹特有の深い琥珀色の光沢を放っている。接合部は削り残し一つなく密着し、石造りの基礎は城砦すら凌ぐ頑丈さを誇っていた。外観は開拓者のボロ小屋に見えるかもしれないが、その実体は国宝級の資材と超人的な精度で組み上げられた、難攻不落の「要塞」に他ならなかった。
「……できた」
汗を拭い、リュートは完成した我が家を見上げた。
自分で作っておきながら、どこか非現実的な美しさを感じさせる小さな家。
その足元に、ひと際大きな青スライムがにゅりと擦り寄ってきた。
その核の内部には、一粒の小さな木の実が包み込まれている。
スライムは体表面を開き、その木の実をリュートの手にぽろりとこぼした。
それは、透き通るような淡い桃色をした、握り拳ほどの大きさの果実だった。ほのかな甘い香りが、鼻腔をくすぐる。
「僕にくれるの? ありがとう」
リュートは素直に受け取り、果皮に歯を立てた。
溢れ出す果汁は芳醇で、喉を通ると身体の底から澄んだ熱が広がるようだった。旅の疲れも、連日の作業の疲労も、一瞬にして霧散していく。
リュートは知る由もなかったが、それは数千年に一度しか実をつけず、一口食すだけで病を退け、寿命を百単位で延ばすと伝えられる神話の霊果『不死桃』だった。
スライムたちは、大森林の最深部にある秘境から、リュートへの「おやつ」としてそれを当たり前のように運んできていたのだ。
甘い果汁を拭いながら、リュートは完成したばかりの木造家の扉を開けた。
木の香りが満ちる静かな室内。窓からは優しくあたたかな光が差し込んでいる。
「ここが……僕の家だ」
床に腰を下ろすと、無数のスライムたちが開け放たれた扉から静かになだれ込み、リュートの周囲を柔らかく包み込んだ。
冷たくもあたたかい、独特の弾力に身を委ねながら、リュートは静かに瞼を閉じた。人間社会から拒絶された少年は、深緑の暗がりの中で、誰も立ち入ることのできない穏やかな安らぎを手に入れていた。




