第1話 剥奪と静寂の旅路
羊皮紙の上に置かれた小袋が、控えめな金属音を立てた。
薄暗い応接間の重厚なオーク材の机の上。そこに転がされたのは、数えて確かめるまでもなく分かってしまう、たった三枚の銀貨だった。表面は手垢で擦り減り、銀特有の鈍い光すら失われている。
「――以上だ、リュート」
重厚な執務椅子に深く腰掛けた父――アルフォード伯爵の口調には、激情も悲愴感もなかった。ただ、使い古した道具を処分する時のように、冷ややかな事務処理の響きだけがあった。
「お前が神殿の成人の儀で賜ったスキルは『従魔術』。だが、従えられたのは最下等のスライム一匹のみ。我がローゼンベルク伯爵家の歴史において、これほど価値のない力を授かった者は存在しない。ドラゴンや高位の魔獣を従えるならばまだしも、街の不潔なドブに湧く粘体しか扱えぬ者を嫡男として残すわけにはいかん」
リュートは自分の掌を見つめた。
指先をかすかに震わせても、そこに魔力の奔流を感じることはない。儀式の際、彼の精神の核に刻まれた紋章は確かに『従魔術』を示していた。しかし、試練の場に用意された魔物たちのうち、リュートの呼びかけに応じたのは足元を這っていた小さな無色のスライムだけだった。
兄や弟たちが誇らしげに剣技や魔導の才能を顕現させていく中で、自分だけが、価値のない透明な塊と心を通わせた。それだけの事実が、彼から名も、家も、未来も奪い去った。
「荷物はその身一つと、その銀貨のみとする。本日中に領地を去れ」
「……分かりました。父上」
リュートは反論しなかった。声を荒らげる気力すら湧かなかった。
伯爵家の敷居を跨ぎ、冷たい石畳を歩く。背後で重厚な鉄の扉が閉まる音が、静かな余韻を残して途切れた。リュートは振り返ることなく、泥で汚れた外套の裾を整え、領都の冒険者ギルドへと足を向けた。
せめて生きていく術を得るために、冒険者としての登録を行おうとしたのだった。
だが、ギルドの受付け窓口にいた男の対応もまた、実家と何ら変わりはなかった。
「スライムしか従えられない『従魔術』だって?」
ギルド職員の男は、リュートが差し出した書類を一瞥すると、半ば呆れたように鼻を鳴らした。受付の背後にある酒場からは、荒くれ者たちの下品な笑い声が聞こえてくる。
「坊ちゃん、悪いことは言わん。諦めな。スライム一匹連れたところで、薬草摘みすら満足にできやしない。ゴブリンが一匹出ただけで死ぬぞ。ギルドとしても、無駄に死人を増やす登録は受け付けられん」
「……スライムでも、使い道はあるはずです」
「ないね」
男は書類を叩きつけるように突返した。
「スライムってのは、酸で落ち落ちしたゴミを溶かすか、川の掃除くらいしか役に立たん最弱の害虫だ。魔獣使いってのはな、最低でも鉄の皮膚を持つ狼か、空を飛ぶ鷹を連れてくる奴らのことを言うんだよ」
男の言葉に、反論の言葉は続かなかった。
リュートは静かに書類を懐に収め、ギルドの建物を出た。
太陽が西の空へと傾き、領都の街並みが長い影を引き伸ばしている。人々が行き交う賑やかな雑踏の中で、自分だけが世界から取り残されたような錯覚を覚えた。
人間社会の仕組みは、リュートを必要としていなかった。家柄も、能力も、存在そのものすらも。
(それなら……人がいない場所へ行こう)
リュートは足の向くままに街道へ歩き出した。
目指すのは北。大陸の中央部に広がり、地図上ではただ黒い空白として描かれている「中央大森林」だ。
人跡未踏の広大な森。あまりの広大さと脅威ゆえに、どの国家も領有を諦め、冒険者たちからも「大魔境」と恐れられる場所。そこにいけば、自分を拒絶する人間も、冷ややかな視線も存在しないはずだった。
旅路は静かだった。
領都を離れ、舗装の途切れた土の街道を歩き始めて二日が過ぎた。
渡された銀貨三枚のうち、一枚で硬い干し肉と黒パン、それに粗末な水筒を買った。残りの銀貨は外套のポケットの底で、かすかな重みとなって揺れている。
三日目の昼過ぎ、街道の脇にある雑木林の木陰で腰を下ろしていた時のことだ。
足元の湿った落葉の層が、カサ、と微かな音を立てた。
リュートが目をやると、木の根元から丸くぷにぷにとした透明な物体が姿を現していた。淡い青色を帯びた、片手で抱えられるほどの大きさのスライムだ。水滴が自らの表面張力で丸まっているかのように、陽光を反射してキラキラと輝いている。
野生のスライムだ。本来なら攻撃性を持たないものの、体内の酸で服を溶かしたり、微弱な痺れ毒を持つ個体もいる。
だが、そのスライムはリュートを襲おうとはしなかった。
むしろ、何かに引き寄せられるかのように、にゅるりと身体を伸ばしながらゆっくりとリュートの足元へ擦り寄ってきた。
『……?』
リュートが戸惑いつつも手を差し伸べると、スライムは迷うことなく彼の掌の下へと潜り込んできた。ひんやりとした湿り気と、弾力のある独特の感触が手に伝わる。
その瞬間、リュートの意識の奥底で、小さな、だが確かな「結びつき」が生まれた。
『テイム……成功?』
驚くほどあっけなかった。
通常、従魔術士が魔物をテイムする際には、相手の体力を削り、自らの魔力を注ぎ込んで精神的な屈服を強いるプロセスが必要となる。魔力の消費も激しく、一般的な術士でも数匹を保持するのが限界だと教わっていた。
しかし、リュートの体内から魔力が削られた感覚は一切なかった。まるで、最初からそこに重なるべきパーツが嵌まったかのように自然だった。
「お前……僕についてくるのか?」
そう問いかけると、スライムは返事代わりにぷに、と身体を一度縦に伸縮させた。
それが始まりだった。
街道を進むにつれ、異常な出来事が起こり始めた。
茂みの陰から、倒木の裏から、干上がった小川の底から。リュートが歩を進めるたびに、あちこちからスライムたちが姿を現した。
透明な青、苔のような深い緑、土に馴染む茶色、あるいはかすかに黄色みがかったもの。多様な色彩を持ったスライムたちが、吸い寄せられるようにリュートの歩幅に合わせて集まってくる。
「これも……テイム?」
リュートは近づいてくるスライムに次々と意識を向けた。
一匹、十匹、五十匹、百匹――。
いくら意識の線を繋いでも、頭痛も魔力の枯渇も起こらない。彼の『従魔術』は、スライムという種族に限定されている代わりに、テイムの容量も、維持に必要な魔力も、完全に「ゼロ」という特異すぎる偏りを持っていたのだ。
スライムたちはリュートに敵意を向けることは一切なく、ただ彼の足元を固め、周囲を包み込むようにして移動した。
四日目が過ぎる頃には、リュートの後ろには数千匹を優に超えるスライムの大群が形成されていた。
沈黙の大行進だった。
鳴き声すら上げない半透明の流体生命体たちが、地面を滑るかすかな「ずずず……」という擦過音だけを響かせて草むらを押し分けていく。陽の光を受けると、まるで青い波が陸地を揺らめきながら進んでいるようだった。
やがて、街道は完全に途切れ、目の前には鬱蒼とした巨木の群れが立ちはだかった。
「これが……中央大森林」
見上げるほど高い大樹の梢が日光を遮り、森の入口は暗い洞窟の口のように黒々と開いている。風が吹くたび、重なり合った葉がざわめき、奥深くから獣の遠吠えのような音が聞こえてきた。
人間であれば誰もが足をすくませるであろうその過酷な境界線で、リュートは立ち止まった。
足元を見る。
数千のカラフルなスライムたちが、波打つ身体を静かに揺らしながら、リュートの判断を待つように佇んでいた。言葉はない。だが、彼らがリュートに向ける無垢な親愛と信頼の気配だけは、皮膚を通じてはっきりと伝わってきた。
「行こうか」
リュートが小さく呟くと、足元の青い波が一斉に揺れた。
捨てられた少年と、彼を慕う無数の粘体たち。
誰にも省みられなかった者たちは、人間社会の喧騒を遠く離れ、永遠の静寂が支配する深緑の暗がりへと、静かに足を踏み入れていった。




