第5節 お母さんのもんじゃ焼き
第5節 お母さんのもんじゃ焼き
「やんなくてもいいよ、勉強なんて。」
母のみゆきの声は、ぬるめのお茶のようだった。最初にふっと安心して、あとからじんわり温まる、そんな声。
五月の終わり。坂本家の小さな台所には、鉄板焼き用のホットプレートがどんと置かれていた。誠一が冷蔵庫から余ったキャベツと切りイカを取り出している。東京の下町でもないこの町で、なぜかこの家では、余ってるキャベツがあると「もんじゃ焼き」を囲む夜がある。
「またそれ?お好み焼きにしようって言っても、毎回却下じゃん」
と、麻衣が言いながら冷蔵庫から夕食前のプリンを取り出した。
「うちはこれが定番なんだよ」と、誠一が笑いながら煙草をくわえる。
その横で、小学3年生の太一が、ふてくされたように椅子に座っていた。最近、彼は何かにつけて不機嫌だった。
「勉強って、意味あるの?九九とか分数とか、覚えたって何になるのさ」
その言葉に、誠一が思わず口を開こうとしたが、みゆきがそれを制した。
「なんでやらなきゃいけないの?勉強できなくても、スポーツとかゲーム作る人とか、有名になってる人いっぱいいるよ?」
「ほう、来たな。“なんのために勉強するのか問題”」
みゆきはもんじゃの土手を作りながら言う。
「太一。あんた、将来の夢って、なんだっけ?」
「……“人気者”。」
「そうそう、それそれ。町の人気者になるなら、勉強はたぶん……まあ、できなくてもいいね」
「えっ、いいの?」
「うん。人気者になるには、“人の話ちゃんと聞ける”とか、“おもしろいこと言える”とか、そっちの方が大事だもんね」
「……たしかに」
「でもな、太一」
と、今度は誠一が口をはさんだ。
「お父さんもな、中学の時“町の人気者”だったよ。悪い意味でな」
「それ人気者じゃないじゃん!」
「だからこそ、太一が言ってる“いい人気者”になるには、ちょっとは勉強も役立つと思うぞ。言葉を知ってると、人にちゃんと伝わるし」
「うーん……」
太一は考えこみながら、ヘラでもんじゃをいじった。
「じゃあ、国語だけはちょっと頑張ってみる……かも」
「はい!それで十分!」と、みゆきが笑った。「目指せ、“感じのいい人気者”!」
誠一とみゆきが並んでホットプレートの前に座る姿は、まるでおしどり夫婦のようだった。ふたりとも意識はしていないが、夫婦のあいだにはやさしい空気が流れていた。
「うち、ちょっといい家族かも」
と、麻衣がぽつりと口に出たか出なかったか…
***
数日後の夕方、太一はランドセルを家の玄関に放り投げて、駄菓子屋「たんぽぽ屋」にやってきた。
「おっ、太一。どうだった、今日の算数」
誠一が外のベンチで煙草をふかしていた。
「ダメだった。でも先生の話、ちゃんと聞いた。“算数ができるようになると、お店の人にもなれる”って言ってた」
「そうか。“町の人気者”が店やったら、すごいことになりそうだな」
「へへ、でしょ」
「でもな、店やるなら、お金の計算はできないと困るぞ。あと、誰かが泣いてたら、なんて声かける?」
「……“どうしたの?”って聞いて、“いっしょに遊ぶ?”って言うかな」
「それができるなら、もう合格だな」
太一がうれしそうに笑ったとき、店の奥からみゆきの声が飛んだ。
「太一ー!宿題おわってるのー!」
「うわっ、バレた!」
駄菓子屋の前に、明るい笑い声がこだました。
その夜、ホットプレートの上で今月2回目のもんじゃ焼きがチリチリと音を立てた。キャベツの香り、出汁の匂い、そして笑い声。昭和と平成の境目にあるような、ゆるやかで確かな時間の中、坂本家の食卓には今日もまた、ちいさな幸せが焼き上がっていた。
***
夜も更けて、家族全員で居間に座り込んでいた。テーブルの上には、色とりどりの景品と、手作りのくじ引き箱。
「金賞は……あれか。しゃべる犬の人形。太一が選んだやつだろ?」
「そう!押すと“ワンワン、いっしょに遊ぼ!”って言うやつ!」
「……こわっ。いいの?そんなのが金賞で」
と、麻衣が苦笑する。「小さい子泣くよ、それ」
「じゃあ麻衣はどれ選んだの?」
「スライムと、キラキラのシールセット。女の子喜ぶと思って」
誠一が1枚ずつ景品に番号シールを貼りながら、ふと手を止める。
「なんだかんだ言って、お前たちが小さいときも、こんなことしてたな」
「夏祭りのくじの準備?」
「そう。町内会のな。母さんが率先して仕切ってた。おれは…まあ、雑用係だったけど」
「わたし、あれ好きだったなあ。夏の夜ってだけで、わくわくした」
みゆきが笑いながら言った。
「今年は“たんぽぽ屋のくじ引き”ってことで、ちょっと工夫してみようと思ってんだ」
「えっ、お父さん、店でやるの?」
「うん。子どもだけでも楽しめるように、ってな」
太一が目を輝かせる。
「じゃあ、ボクも店番手伝いたい!“町の人気者”、修行中だから!」
「よーし、店長からの特別許可だ」
誠一が太一の頭をぐしゃぐしゃとなでた。
和やかな笑いが居間に満ちる。どこか遠くで、だいぶ早く風鈴の音がかすかに揺れていた。
もうすぐ、町に夏がやってくる。
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