表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/8

第5節 お母さんのもんじゃ焼き

第5節 お母さんのもんじゃ焼き



「やんなくてもいいよ、勉強なんて。」


母のみゆきの声は、ぬるめのお茶のようだった。最初にふっと安心して、あとからじんわり温まる、そんな声。




 五月の終わり。坂本家の小さな台所には、鉄板焼き用のホットプレートがどんと置かれていた。誠一が冷蔵庫から余ったキャベツと切りイカを取り出している。東京の下町でもないこの町で、なぜかこの家では、余ってるキャベツがあると「もんじゃ焼き」を囲む夜がある。


「またそれ?お好み焼きにしようって言っても、毎回却下じゃん」


と、麻衣が言いながら冷蔵庫から夕食前のプリンを取り出した。


「うちはこれが定番なんだよ」と、誠一が笑いながら煙草をくわえる。


その横で、小学3年生の太一が、ふてくされたように椅子に座っていた。最近、彼は何かにつけて不機嫌だった。


「勉強って、意味あるの?九九とか分数とか、覚えたって何になるのさ」


その言葉に、誠一が思わず口を開こうとしたが、みゆきがそれを制した。


「なんでやらなきゃいけないの?勉強できなくても、スポーツとかゲーム作る人とか、有名になってる人いっぱいいるよ?」


「ほう、来たな。“なんのために勉強するのか問題”」


みゆきはもんじゃの土手を作りながら言う。


「太一。あんた、将来の夢って、なんだっけ?」


「……“人気者”。」


「そうそう、それそれ。町の人気者になるなら、勉強はたぶん……まあ、できなくてもいいね」


「えっ、いいの?」


「うん。人気者になるには、“人の話ちゃんと聞ける”とか、“おもしろいこと言える”とか、そっちの方が大事だもんね」


「……たしかに」


「でもな、太一」


と、今度は誠一が口をはさんだ。


「お父さんもな、中学の時“町の人気者”だったよ。悪い意味でな」


「それ人気者じゃないじゃん!」


「だからこそ、太一が言ってる“いい人気者”になるには、ちょっとは勉強も役立つと思うぞ。言葉を知ってると、人にちゃんと伝わるし」


「うーん……」


太一は考えこみながら、ヘラでもんじゃをいじった。


「じゃあ、国語だけはちょっと頑張ってみる……かも」


「はい!それで十分!」と、みゆきが笑った。「目指せ、“感じのいい人気者”!」


誠一とみゆきが並んでホットプレートの前に座る姿は、まるでおしどり夫婦のようだった。ふたりとも意識はしていないが、夫婦のあいだにはやさしい空気が流れていた。


「うち、ちょっといい家族かも」


と、麻衣がぽつりと口に出たか出なかったか…


***


数日後の夕方、太一はランドセルを家の玄関に放り投げて、駄菓子屋「たんぽぽ屋」にやってきた。


「おっ、太一。どうだった、今日の算数」


誠一が外のベンチで煙草をふかしていた。


「ダメだった。でも先生の話、ちゃんと聞いた。“算数ができるようになると、お店の人にもなれる”って言ってた」


「そうか。“町の人気者”が店やったら、すごいことになりそうだな」


「へへ、でしょ」


「でもな、店やるなら、お金の計算はできないと困るぞ。あと、誰かが泣いてたら、なんて声かける?」


「……“どうしたの?”って聞いて、“いっしょに遊ぶ?”って言うかな」


「それができるなら、もう合格だな」


太一がうれしそうに笑ったとき、店の奥からみゆきの声が飛んだ。


「太一ー!宿題おわってるのー!」


「うわっ、バレた!」


駄菓子屋の前に、明るい笑い声がこだました。


その夜、ホットプレートの上で今月2回目のもんじゃ焼きがチリチリと音を立てた。キャベツの香り、出汁の匂い、そして笑い声。昭和と平成の境目にあるような、ゆるやかで確かな時間の中、坂本家の食卓には今日もまた、ちいさな幸せが焼き上がっていた。



***


夜も更けて、家族全員で居間に座り込んでいた。テーブルの上には、色とりどりの景品と、手作りのくじ引き箱。


「金賞は……あれか。しゃべる犬の人形。太一が選んだやつだろ?」


「そう!押すと“ワンワン、いっしょに遊ぼ!”って言うやつ!」


「……こわっ。いいの?そんなのが金賞で」

と、麻衣が苦笑する。「小さい子泣くよ、それ」


「じゃあ麻衣はどれ選んだの?」


「スライムと、キラキラのシールセット。女の子喜ぶと思って」


誠一が1枚ずつ景品に番号シールを貼りながら、ふと手を止める。


「なんだかんだ言って、お前たちが小さいときも、こんなことしてたな」


「夏祭りのくじの準備?」


「そう。町内会のな。母さんが率先して仕切ってた。おれは…まあ、雑用係だったけど」


「わたし、あれ好きだったなあ。夏の夜ってだけで、わくわくした」


みゆきが笑いながら言った。


「今年は“たんぽぽ屋のくじ引き”ってことで、ちょっと工夫してみようと思ってんだ」


「えっ、お父さん、店でやるの?」


「うん。子どもだけでも楽しめるように、ってな」


太一が目を輝かせる。


「じゃあ、ボクも店番手伝いたい!“町の人気者”、修行中だから!」


「よーし、店長からの特別許可だ」


誠一が太一の頭をぐしゃぐしゃとなでた。


和やかな笑いが居間に満ちる。どこか遠くで、だいぶ早く風鈴の音がかすかに揺れていた。


もうすぐ、町に夏がやってくる。




※この作品はフィクションです。実在の人物・団体・出来事とは一切関係ありません。

※文章の無断転載・転用・コピーはご遠慮ください。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ