第4節 さようなら100円玉
第4節 さようなら100円玉
扉につけられた小さな鈴が、カランと鳴いた。
午前十一時半。日差しは強く、けれどどこか秋の匂いを含んでいる。
坂本誠一は、いつものようにたんぽぽ屋の入り口脇のパイプ椅子に座って、煙草の火を細く吸っていた。
「いらっしゃ──」
声をかけかけて、言葉が止まる。
入ってきたのは、七十を過ぎたように見える小柄な老女だった。
ベージュのブラウスに紺のスカート、髪はきちんと結われているが、その表情はどこか曖昧で、目の焦点も定まっていなかった。
老女は店内をゆっくり見回しながら、一歩、また一歩と進んだ。
棚に並ぶうまい棒やヨーグル、くじ引きの箱。時折、指先で触れるように見つめながら、まるで昔の記憶を探すように歩いていた。
やがて、彼女はカウンターの前に来て、レジのガラスケースの上に、そっと硬貨を置いた。
それは、久しぶりに見た旧100円玉だった。
重みがあって、少し黄ばんだ銀の光。
「これで……、アイス、買えるかねぇ?」
その言葉に、誠一はしばらく言葉を失った。
けれど、すぐに微笑みを浮かべてうなずいた。
「ええ、もちろん。今日は特別価格ですよ」
老女はほっとしたように笑い、誠一が取り出したチューペットを両手で丁寧に受け取った。
その様子はまるで、小さな子どものようだった。
老女は、店先のベンチに座って、ゆっくりとチューペットを口に運んだ。
外の風は心地よく、風鈴がちりんと揺れていた。
「昔ね、この辺に……高橋さんの駄菓子屋があったの。覚えてる?」
突然そう話しかけられて、誠一は少し驚いた。
その名前は、子どもの頃に確かに聞き覚えがあった。
「ええ、知ってますよ。もう、三十年は前ですけど」
「そう。あたし……よく、孫と行ってたのよ。……ねえ、あなた、誰かに似てるわね」
老女は、誠一の顔をじっと見つめた。
「……きっと、あの頃のお孫さんかもしれませんね」
「ふふ、そうかしら……」
老女の目の奥に、ふっと笑みが浮かんだ。
それは遠くを見ているような、ぼんやりとした、けれど温かい笑顔だった。
数分の沈黙ののち、老女はそっと立ち上がった。
チューペットの袋はきちんと折りたたんで、レジ横のゴミ箱へ。
「じゃあ、またね」
「ええ、またいつでもどうぞ」
「……また、来ていいのね?」
「もちろんです」
扉の鈴が再び鳴ったとき、誠一はその背中をじっと見送っていた。
足取りはたどたどしく、けれど一歩一歩、確かだった。
それから決まった曜日の決まった時間に、彼女は来るようになった。
来るたびにポツ…ポツ…と昔の話を教えてもらう。時折、辻褄が合わない時もあったが、些細なことだった。
彼女が誰なのか、誠一はまだ知らない。
名前も、どこから来ているのかも。
ただ、来れば必ず迎えて、帰ればそっと見送る。それがすべてだった。
だが、ある日を境に、彼女の姿はふいに途絶えた。
一日、二日……一週間。
いつも来るはずの午前十一時半の扉が、開かれることはなかった。
「ばあさん元気にしてるかな……」
誠一は心配になり、月光荘の住人にもそれとなく聞いてみたが、それらしい人物は思い当たらないという。
認知症の家族を抱える人たちがよく言う“消えるようにいなくなる”という表現が、今さら胸にのしかかってくる。
数日後、たんぽぽ屋のポストに、小さな茶封筒が届いた。
宛名も差出人もなかったが、中には一枚の便箋と、一枚の写真が入っていた。
写真には、若いころの老女と思しき女性と、笑顔の小さな男の子。
駄菓子屋の前で肩を寄せ合い、手にはチューペットと風船ガム。
背景には「高橋商店」の古びた看板が写っていた。
便箋には、震えるような字で、こう書かれていた。
”思い出を、ありがとう。
たぶん、もう行けません。
あの店は、やっぱり好きでした。”
誠一は、その手紙をしばらくじっと見つめていた。
なぜ自分に宛てて送られたのか、それすらも曖昧なまま、手紙の文字だけが静かに胸に沁みていく。
その日、閉店後の店内で、誠一はあの旧100円玉をそっと取り出した。
瓶から取り出し、光にかざしてみると、昭和43年と小さく刻まれていた。
「おつり、まだ返してなかったな」
そうつぶやいて、小さな封筒にその硬貨と便箋の写しを入れ、裏に「ありがとう、さようなら」とだけ書いた。
翌朝、開店前に町の郵便局に向かった。
宛先も分からず、封筒は差し出されることはなかったが、それでも何かを託すようにポストへ投函するふりをしてから、ポケットに戻した。
「何してんだ、俺は」
たんぽぽ屋のレジ横には、いまもガラス瓶が置かれている。
中には昭和の100円玉と、ひとつだけ飴玉が入っている。
それは、誰かの“記憶”が、たしかにあった証だった。
⸻
店の中でチューペットを手にするたびに、あのやさしい笑顔がふと思い浮かぶ。
記憶は薄れても、記憶された“時間”は、きっと消えない。
100円玉ひとつが繋いだ、たった数日間の縁。
それでも、そこに流れていたものは、まぎれもなく本物の“あまやどり”だった。
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