第3節 麻衣の約束
第3節 麻衣の約束
梅雨の終わりを告げるように、蝉が鳴いた。
たんぽぽ屋のガラス戸越しに、汗ばむような陽射しが差し込んでいる。棚にはラムネや冷やし飴、冷蔵庫にはチューペットが並び、真夏の訪れを待っていた。
坂本麻衣は、レジの奥で輪ゴムをくるくると指に巻きつけていた。
高校二年の夏。伸びかけた前髪が鬱陶しくて、でも切るタイミングを逃したままだった。
「おーい、麻衣。アイスバーの補充、頼むな」
「わかってるよ」
父・誠一の声に、気だるく返事をする。
近ごろ、こうして店を手伝う時間が増えた。特に頼まれたわけでもない。ただ、学校から帰ると自然と足がここに向いていた。
たんぽぽ屋は、麻衣にとって「特別」でも「好き」でもなかった。
でも、なぜか落ち着く場所だった。
最近、学校に行くのが少しだけつらい。
別にいじめられてるわけでも、友だちがいないわけでもない。
でも、毎日がぼんやりしていて、自分がどこに向かってるのか分からない。
そんな言葉にできない自分の気持ちを、家族にも、友達にも話せずにいた。
ただ、今日。
その気持ちが、思わぬ相手にこぼれ落ちることになるなんて、麻衣はまだ知らなかった。
カラン、と鈴の音が鳴る。
ふと顔を上げると、日焼け止めの甘い香りと、場違いなほどの化粧をした女の人が、サンダルのまま入ってきた。
ピンクのワンピース。肩にぶら下がったビニールのトート。そして、大人びた色気。
「こんにちは~……あっついわね、今日」
その人は、店内を一瞥してから、駄菓子の棚の前でしゃがみ込んだ。
麻衣は無意識に声をかけた。
「いらっしゃい、あの、……冷たいのなら、そっちの冷蔵庫にもありますよ」
「え? あ、ありがと~」
その笑顔は、思っていたよりずっと自然で柔らかかった。
「……ラムネ、もらおっかな。久しぶりに見たわ、こういうの」
女の人は、棚の下段からガラス瓶のラムネを一本引き抜き、器用にビー玉を落として炭酸の泡が立つ音を楽しむように眺めた。
「最近の子、これ知らないでしょ?」
「小学生とかは、たまに買います。ビー玉欲しくて」
麻衣は自然と受け答えしながら、その人の所作に目を奪われていた。
年齢は、二十代後半くらいだろうか。派手で、ちょっと軽そうに見える。でも、どこか孤独な雰囲気があった。
「あなた、ここの娘さん? お手伝いえらいねえ」
「え……あ、はい。一応」
「そっかぁ。あたしもね、あの角のアパートに住んでるの。ちょっと前に引っ越してきたばっか」
「ああ、じゃあ……“月光荘”?」
「そうそう! 名前ダサすぎて逆に気に入ってんのよ」
女の人はクスクス笑って、ラムネを一口。
「冷たっ。……うわ、うま」
その笑いに、麻衣もつられて笑ってしまった。
「高校生? 今、何年?」
「二年です」
「へー。勉強とか部活とか、頑張ってる?」
「いえ、部活はやめました」
「そっか。……なんとなく疲れてる顔してるもんね」
図星だった。
麻衣は返事ができなかった。
「ごめんね、初対面でこんなこと。でも……わかるよ。あたしも、学生の頃そうだったから」
さやかは、ラムネの瓶を軽く揺らしながら、ぽつりとつぶやいた。
「がんばるのって、疲れるよね。自分が“何に向いてるのか”とか、“どうあるべきか”とか、考えすぎると、もう何もわかんなくなるの」
麻衣の心に、ずしんと何かが落ちた。
「……わたし、進路のこと…みんな決め始めてて。でも、私は何がしたいか分からなくて。母にも、学校の先生にも、“まだ決まってないの?”って言われて」
「そうだよねぇ。あたしなんかさ、進路指導んとき“地元出て水商売やります”って言ったら、先生真顔になったもん」
「……本当に?」
「うん、本気。そしたら、“もっとマトモな道があるだろ”って。……マトモって何? って思ったわ」
麻衣は、真剣に彼女の横顔を見つめた。
まるで大人の仮面をかぶった、ちょっと年上の女の子みたいだった。
「麻衣ちゃんさ、“ちゃんとした大人になりなさい”って言われたことある?」
「……あります」
「じゃあ、逆に“自分でちゃんと選びなさい”って言われたことは?」
麻衣は、目を見開いた。
そんなふうに、誰にも言われたことがなかった。
沈黙が、ガラスのビー玉みたいに、涼しく澄んで流れていった。
「……もし、どうしても行き詰まったらさ。たまに話し相手になるよ。どうせ昼間ヒマしてるからさ、私」
「……ほんとに?」
「うん。嘘ついても何の得にもならんし」
さやかはラムネの瓶をテーブルに置いて、ぽんっと麻衣の頭に手を置いた。
「でも、約束だからね。私に相談するのは、本当に困った時だけ。……それが、ルール」
麻衣は、その言葉を胸にしまうように、そっとうなずいた。
帰り際、さやかは少しだけ振り返って笑った。
「じゃ、またね。たんぽぽ屋のバイトちゃん」
「……また来てください、さやかさん」
「えっ、名前言ったっけ?」
「いえ。でも、名札見えました。カバンに」
「あっちゃー、油断してたわ」
笑いながら、20分も店にいなかった彼女は午後の陽射しの中へと消えていった。
その背中を見送ったあと、麻衣はひとり、店の中で静かにラムネを一本取り出した。
冷たいビー玉の奥がいつもより少しだけ、ほんの少しだけきらきらと光を出しているような気がした。
その夜、風呂あがりの麻衣は、自室の窓を少しだけ開けた。
網戸越しに、夜風がふわりとカーテンを揺らす。まだ暑さの残る風だったが、不思議と心地よかった。
机の上には、学校から配られた進路調査票が置いてある。
何も書いていないその紙を、麻衣はただ見つめていた。
“ちゃんとした大人になりなさい”
そればかりが耳に残っていた日々。
でも、今日、少しだけ違う言葉が心に残った。
――“自分でちゃんと選びなさい”
たとえそれが、まわりから見て遠回りでも。
少しくらい道を外れていても。
自分で選ぶなら、それは“ちゃんと”してる。
まだ何をやりたいか分からない。
でも、誰かに決められるんじゃなくて、ちゃんと自分で悩みたい。
麻衣は進路票をノートの下にそっと隠し、窓の外を見上げた。
アパートの灯りが、遠くにぽつんと揺れている。
あそこに住むおそらくキャバ嬢の人が、まさかこんなふうに自分を楽にしてくれるなんて思わなかった。
さやかさんは、まるで夕立のあとの虹みたいだった。
きれいで、少し派手で、でもすぐに消えてしまいそうな、そんな人。
だからこそ、あの言葉は、きっと忘れない。
「困った時だけ、私に相談して」
その約束が、麻衣の心に、小さな支えとして残った。
学校が休みの日、麻衣は朝からたんぽぽ屋の開店準備を手伝った。
父の誠一は休憩がてら新聞を手に取り、タバコに火をつけようとしていた。
「ねぇ、父さん。月光荘にさ、キャバ嬢みたいな人住んでるよね?」
誠一は一瞬だけ目を細めたが、すぐに穏やかな笑みを浮かべながら、ゆっくりと答えた。
「あー、1人いるな。明るい人だよ」
「あの人『地元出て水商売する!』って周りに宣言して出てきたらしいよ」
誠一はなにを察したのか笑みが消えることなく、火をつけたばかりのタバコを消して新聞を畳みはじめた
「おー、それはかっこいいな」
麻衣は父の意外な返答に
「水商売でもかっこいいと思う?」
「あはは、麻衣、人生ってのはね、一概に『正しい』とか『間違ってる』なんて誰が決めるんだよ。その人は自分の道をしっかりと歩いてる。たとえ世間がどう言おうと、彼女には彼女なりの強さとやさしさがある。だから、偏見なんか持たずに、そのまま受け入れるしかないんだよ。」
その言葉に、麻衣はしばらく沈黙した。父の目は真剣で、誠実な気持ちがにじみ出ていた。 麻衣がさやかと呼ぶ女性の温かい優しさと、父の新鮮で芯がある言葉が重なって思えた。そしてどこか温かく感じられた。
「父さん……」
麻衣は思わず声を潜めながら呟く。
「偏見を持たずに、さやかさんを見てるの、すごく素敵だと思う。」
誠一はキョトンとした顔で
「…?ありがとう、麻衣。最近よく笑うようになったな」
「え?」
「いや、別に。なんとなくだ」
麻衣は返事をせずに、冷蔵庫の扉を開けた。
中に並ぶラムネの瓶が、朝の光に透けて、静かに輝いていた。
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