思慕
蒼からの書状に目を通して、維心は眉根を寄せて考え込んだ。そんな維心に、維月は歩み寄って寄り添った。
「何かございましたでしょうか?」
維心はふと顔を上げると、維月の肩を抱いて引き寄せた。
「主はまた心配しよるだろうの。」とため息を付いた。「瑞姫に縁談が来ておるのだ。この書状は、蒼から相手の宮の事に関する、問い合わせよ。」
維月は袖で口を押えた。失恋したばかりの瑞姫に、そのような話が?
「…そのようなこと…あの子は意に沿わずとも、受けてしまうかもしれませぬ。今はそういう状況なのです。なぜに蒼はそこをわからぬのか。」
少し怒っている。維心は苦笑した。
「そうではないのよ。相手は南西を統治しておる志心。白虎よ。これも虎から分化しておるが、鷹のように虎とは交流はなかった。違う種族として繁栄して来たのだ。志心のことは良く知っておるが、おそらく軍神という変わった皇女とのことで、興味あるのだろうな。女には興味はない…妃も臣下が勝手に決めたものであるらしい。そういう性格だ。あれは妃は2人居るが、正妃は居らぬ。ゆえに、一度会ってみたいと言って来たらしい。会ってみたいだけで、正式に迎えたいと言っておる訳ではないので、蒼もどうしたものかと言っておるのだ。」
維月は眉を寄せた。
「私は未だに神の世がわかりませぬ…おそらく、蒼も同じでしょう。志心様がどのような方か、もしも月の宮に来られるなら、私もその時帰って見て参りまするわ。」
維心は慌てた。
「なぜに主が会う必要がある。もうこれ以上ほかの神に姿を晒すのはやめよ!」
維月は首を振った。
「違いますわ、影から見るだけです。正式に会う必要などありませぬもの。そうでしょう?」
維心は心持ちホッとした。
「そうか、わかっておるの。ならば良い。だが、おそらく志心はあちらへ呼ぶのではないか…我と一緒であまり宮から出ぬのでな。我とて会うのは会合の折りと、誰かの婚儀や葬儀の時ぐらいであるしな。」
維月は考え込んだ。
「…では、侍女か軍神の一人として同行しますわ。ならば気になさらぬでしょう。」
維心はまた仰天した。龍王妃が侍女か軍神として誰かに付き従うなど!
「駄目だ。主はなぜにそんなに無理ばかり言うのよ。我は龍王ぞ。主の夫だ。つまり主は龍王妃ぞ。この神の世で、それがどれほどの地位であると思うておるのか。」
維月は首を傾げた。
「…よくわかりませぬ。だって、最初に来た神の宮がここであったので、ここしか知りませぬ。確かに大きな宮ですが、神の宮とは皆このようなものなのではありませぬか?維心様は、他にお連れくださったことがございませんでしょう。それに、王だから維心様を愛して結婚したのではありませぬ。維心様が好きだから結婚したのでございます。」
維心はここに来て後悔した。確かにそうだ。月の宮と龍の宮しか知らぬ維月が、この宮の規模が神の世最大だと知るはずも実感するはずもなかったのだ。なので、その王の自分がどうなのか、その妃の自分がどうなのか、わかるはずはなかった。接するのは炎嘉や箔炎や力のある神の王ばかり…これでは、神は皆あんなものと思っても仕方ないだろう。
「維月…その気持ちは我も嬉しいが、しかしやはり我は龍王であるのだ。地を統治しておるのだぞ。その正妃である主の地位は、高い。侍女などに扮して他の宮へ行くなど、許されざることであるのだ。わかってくれぬか。」
維月は納得いかないように眉を寄せたが、頷いた。
「はい…。」
とりあえず維心はホッとした。願わくば、志心は月の宮まで来てくれるよう。
白虎の宮では、謁見の間で志心がイライラと臣下に対面していた。虎の宮は白い石造りの大きな宮で、玉座までの道には赤い絨毯が敷かれてある。数段高い位置に座る不機嫌な志心に、臣下は縮こまっていた。
「ですが王…月の宮の皇女は、大変に美しいと評判でございます。それに月の宮と縁戚になれば、ますますこちらは安泰かと。」
志心は玉座の肘掛けに肘を付き、不機嫌に言った。
「妃だ妃だと、主らの言うままに二人も迎えたであろうが。これ以上要らぬわ。」
「お言葉ですが王よ」臣下は言った。「いずれもたった一度通っただけで顔も見に行かれぬではありませぬか。あれではお子も…、」
志心は立ち上がった。
「一度は通った。主らの面子もあると思うたからだ。子など要らぬわ。我はもう900年も姿が変わらぬではないか。簡単には死なぬわ。」
志心が立ち去ろうとすると、臣下は必死に言った。
「ですが王、あちらは王を宮へお招きすると申して参りました。滅多に目にすることのできぬ月の宮、見て参られるだけでも…!」
志心は立ち止まった。
「…招くと?」と考え込んでいる。「月の宮か…。」
志心は思った。確かに滅多に入る事が出来ぬ宮。一度見ておいても損はないかもしれぬ。
臣下は期待して待った。志心は顔を上げた。
「…招きを受けよ。だが」喜ぶ臣下に志心は釘を刺すように言った。「婚姻の件は我が直々に断って参る。わかったか?」
臣下は残念な顔をしたが、美女と言われる皇女、見て気が変わられるかもしれぬ。とにかく、行くと言ってくだされたのだから。
臣下は嬉々として使者を出した。
「なんて言って来た?」
十六夜が蒼に言った。玉座に座った蒼は、仏頂面で言った。
「…来るって。王がここに。とにかく瑞姫は帰って来るし、顔を見るだけって事で来てもらうよ。来週でいいだろう。早い方が向こうもなんやかや考えられないだろうし。」
十六夜は考えられ込む顔をした。
「白虎の宮はあれから見てみたが、特に変わった事もなく穏やかだ。別に攻めようとは考えてないだろう。」と踵を返した。「オレは戻る。維心に知らせておけ。」
蒼は頷いてため息をついた。なんでもかんでも臣下を通して、いちいちやり取りしてなんて…神の王族なんて、面倒なだけだ。
蒼は、龍の宮へ使者を出した。
「それで、なんと?」
蒼からの使者に会って、維心が居間に戻ってすぐに、維月が走り寄って来た。維心は苦笑して維月の手を取った。
「落ち着くのだ、維月。志心は月の宮へ来るそうだ。来週に。」
「まあ!」維月は踵を返した。「では、十六夜に迎えを頼まなければ。」
維心は維月の腕を掴んだ。
「待つのだ、維月。別に主が瑞姫の面倒を見ずともよいではないか。なぜに簡単に宮を出ようとするのよ。」
維月は維心を見た。
「私が居るとはわかりませんわ。隠れて影から見ると申したではありませぬか。瑞姫は私を頼っておったのに…私は何も出来なくて。なので、嫁に行くまではきちんと見届けますわ。」
なんと言えば分かるのか。維心は自分の椅子へ向けた歩きながら考えた。維月も自分の隣に座るのを確認してから、維心は維月をじっと見て言った。
「維月…公式の訪問など、皆口上は同じ。我が公の場で話すのと、大差ない話し方や振る舞いを致すだけぞ。ゆえ、そやつの本性など影から見ておってもわからぬ。大体はその後宴席などで共に話したりして、相手のことを知る…なので、主が蒼と志心が公の場で話しておる所を見ても、何も掴めぬ。取り越し苦労ぞ。いや待て」と維月が言い返し掛けたので、維心は遮った。「共に宴席など、我が居らぬのに主に許すことは出来ぬぞ。それは神の世の理。守るのだ。」
維月はふくれっ面になったが、仕方なく頷いた。
「わかりました。宴席には出ませぬ。ですが、公式の対話は見せてくださいませ。来週月の宮へ参りまする。」
維心はため息をついた。仕方がない。こやつは一度言い出したら聞かぬのだから。
「では、参るが良い。我が行くと大層になるゆえ共に行けぬ。…ほんに王とは不便なことよ。」
維月はホッとしたように微笑んだ。
「ありがとうございます。では、十六夜に念を…。」
維月は維心の腕の中で下を向いた。十六夜と話している…こうしていると、話していることが聞こえる。離れていると聞こえないのだが、触れていると聞こえる事実を最近知った。十六夜も最初渋っていたが、結局維月の言うことには逆らえないので、その前日に迎えに来ると約束して念の声は消えた。
将維は、炎託が最近元気がないように思っていた。何かを思い悩んでいるようだ。今日は半日時間が空いたので、将維は炎託を誘って南の海を見に行った。そろそろ、炎託も身の振り方を考えなければならないとも思っていたし、話を聞いてやりたかったのだ。
二人で、人の登って来れない断崖絶壁の頂上に腰掛け、遠く水平線を見ていると、炎託がポツリと言った。
「…我は、愚かよのう…。」
将維は炎託の方を振り向いた。
「何を申しておるのよ。愚かではないからこそ、こうして生き延びておるではないのか。」
炎託は将維を見た。そして視線を落とすと、首を振った。
「そうではないのだ。どんなものでも、この手にあるうちはそれが特別なものだと気付かずにおる。そして、失って初めて、それが自分にとりどれほどに大切であったのか知るのよ…父も然り、母も然り、兄弟達も、宮も、一族も…」炎託は俯いた。「我は全てを失ってしもうた。なのでこの命が長られた時、もう二度と後悔はせぬと己に約したのに。我はまた…。」
炎託は自分の手の平をじっと見ている。将維はなんのことを言っているのか分からぬまま、炎託に問うた。
「人はそんなことの繰り返しなのではないのか?我とてそのような事、いくつかあるゆえの。しかし己がここに居て生きて居る限り、先へ進まねばならぬのだ。また選択を繰り返しながら、今度こそ失わぬように。」
炎託はまだ下を向いている。将維は困って、立ち上がった。炎託は、言った。
「主は…母とのことで後悔することはないのか…?」
将維は驚いて炎託を見降ろした。炎託は将維の表情を見て、微かに笑った。
「すまぬ、あの日我は一度部屋へ帰ろうとしたのだ。それで…ま、邪魔をしてはと思うたので、軍神達の房でゲームを…な。なので知っておる。あれが初めての感じではなかったよの。」
将維は改めて己の我慢が出来なかったことに後悔したが、炎託を見て、力なく笑った。
「…本当は、二度と手を出さぬ約束であったのだ。なのにあの日、我は己を抑え切れずにの。」と海を見た。「我は後悔しておらぬ。我が欲するのは維月のみ。だがそれが叶わぬのも知っておる…確かに苦しい恋ではあるが、本当に愛するということを知れたのだから幸福だと思うておるよ。まして、無理だと思いながらも必死に求めたら僅かでも手にすることが出来たのだ。諦めずにだた、我は想うのみよ。」
炎託は、穏やかな決意を持ってそう話す将維を、眩しそうに見た。
「主は力ばかりか心まで強い。」と、小刻みに震えながら下を向いた。「…我は、主が言った通り子供であった。そのような心持ちなど、何も知らぬまま…まさか、これほどにつらいものとは。」
将維は慌てて炎託を支えようと手を伸ばした。炎託は前に倒れる前に手をついた…将維はその顔を覗き込んで驚いた。炎託は涙を流し、目を閉じて下を向いていた。
「主…誰か…?」
炎託は頷いて、言った。
「我は、瑞姫を愛してしもうた。」と将維を見上げた。「だがもう遅い。白虎の王へ嫁ぐのだろう…我など、だたの龍の宮の居候よ。滅びた宮の皇子でしかない。名乗りを上げる訳にも行かぬ。いつも、こうして失のうてから後悔するのよ…此度はさすがにつろうて、我は…。」
将維はただただ驚いてその肩に手を置いた。これほどに、男女の仲とはままならぬものか。これを瑞姫に知らせるべきか…我はここでどうすれば良いのだ。
白虎の王、志心が月の宮を訪れるのは、もう、二日後に迫っていた。




