月光花
維心は、湯殿から維月の待つ居間へと急ぎ戻った。居間へ入って行くと、維月が気遣わしげに振り返った。
「お帰りなさいませ、維心様。…それで…。」
維心は維月の横に座り、言った。
「主の申した通りに、言って参った。炎託がどう思ったかは分からぬが…だが、気にしておるようだったの。我が行く前に将維と本日の立ち合いの話を深刻そうにしておった。好き嫌いは分からぬが、気にしておるのは確かだの。」
維月は深刻な顔をして頷いた。
「ありがとうございます。このままでは瑞姫が不憫で…なんとか気持ちだけでも伝える事が出来ればよろしいのに。」
維心は苦笑した。
「男女の仲はままならぬのだ。主もわかっておろう?良識があれば、軽々しく女に手を出したりせぬのが王族の躾。あれはまだ、王族の心持ちであろうからな。長い間の習慣や価値観はそう簡単には変えられぬ。本当に愛すればこれに限ったことではないがな。」
維月は頷いた。
「それはわかっておりますわ。でも、湯殿で会った瑞姫はとても打ちひしがれておりました。あのような姿は見るに忍びませぬ。逃げ帰ることをお許しください、と申しますのよ。私は…あの子はとても頑張ったと思いますわ。」
維月は我がことのように悲しげに俯いた。維心はその肩を抱いた。
「それ、またそのように暗い顔をする。我が話して来てやったではないか…大丈夫よ。もしこれで終わりであったとしても、瑞姫にとって得るものの多かった恋であったのではないか?」
維月は頷きながら維心を見上げた。
「私はこのような普通の恋には疎うございますの。なので力になってやれず、口惜しゅうございます。もしも私が片思いであったなら…どれほどにつらかったことかと。」
維心は苦笑した。
「主は片思いなどしたことはないよの。知っておるぞ。まず人を愛さなんだゆえ。」とため息を付いた。「我は知っておる…ゆえに瑞姫の辛さも分かる。なので心を砕いておろうが。」
維月は維心に身を摺り寄せた。
「維心様…今は片思いではございませぬでしょう?それとも誰かに片思いなされておられまするか?」
維心は驚いて維月に向き直った。
「そのような!我が主以外に懸想すると思うておるのか?」と維月がクスクスと笑っているのを見て、胸をなでおろした。「なんとまたか…我をからかうでない、維月。胆を冷やしたわ。主は怒るとそっぽを向いてしまうのでの。我にとり、それがどれほどに辛いことか、主はわかってくれまいが。瑞姫ばかり労わらず、我も労おてくれ。」
維月は維心の首に腕を回した。
「維心様は…本当に愛おしいかたでございますこと。」
維心は維月を見つめて維月の腰に両腕を回し、微笑んだ。
「…続きは?我を待たせるな。」
維月は維心に口付けた。維心はそれを受けながら、本当に幸せだと感じ、瑞姫の片思いもこのように成就することがあればと、願った。
瑞姫は早々に帰り支度を整えていた。父の宮から持って来た甲冑は厨子に収め、もうこちらでは使うつもりはなかった。そしていつも着ていた女の着物に身を包み、侍女達に向こうの宮での常であったように髪を結われ、まるで軍神であったのがウソのような気がしていた。
月が出ている。父の宮では当たり前のようにいつも見上げていた月が、今はとても懐かしく心に沁みた。自分は、月の宮へ戻らねば。瑞姫はそう思って、龍の宮では最後となる月を見るため、庭へと出て行った。
瑞姫の部屋は北の庭に面してあり、そこから出ることが出来た。今日は満月が美しいが、十六夜の気配は月にはなかった。きっと、宮へ降りて父と話しているのだろう。父はなんでも十六夜に相談する…多分、自分が帰ると言ったことを、十六夜に話しているのだと瑞姫は思った。
龍の宮の庭は年季が入っていて、木もとても立派に大きく育っていて美しかった。月の宮の庭は美しいが、まだ出来て年が浅い。瑞姫はその庭の端にある大きな杉の木を見上げて、ため息を付いた。きっと、たくさんのことを見て来たのでしょうね…。この宮の歴史は、書物で読んだが穏やかなものではなかった。少し前まで、ここは血なまぐさいことが多い宮であった。この木は、そんな神々の諍いを見て来たのだ。それを思えば、今の我の悩みなど、小さなことね…。瑞姫はそう思い込もうと、しばし、そこに佇んで、木の影に見える月を眺めていた。
炎託は、湯殿から戻って一人部屋で考え込んでいた。瑞姫が帰ってしまうのは、もしかして我があのようなことをしたせいではないのか。いくら焦っておったとはいえ、あのように心無い立ち合いは、確かにするべきではなかった。それでなくとも、瑞姫に立ち合いを望む龍は多かった…あの動きは確かに掴み所がなく、それを掴むことで己の能力を上げたいと思う龍は多かったからだ。我よりも多くの立ち合いをしておったかもしれぬ。であるのに、疲れておることを考えもせず、あのように激しく斬り込むとは。
思えば瑞姫は、いつも自分との立ち合いを優先してくれた。他の龍に誘われておろうとも、自分が乞えば応じてくれた。それは我が他の龍より能力が高かったからだと思うておったが、友情がなせる業であったのではないか。なのに我は、軍神の一人のように扱っておったやもしれぬ。
いつもなら、将維も交えて三人で立ち合いの話に花を咲かせておった頃。瑞姫はやはりこちらへは来なかった。我のせいか…。炎託は後悔していた。
将維は、結局はこれが瑞姫のためであるなと笑った。確かに皇女がいつまでも軍神などしておっては婚期を逃すであろう。だが、あれほどの腕、惜しいのではないのか。しかし、炎託のその言葉も、将維は困ったように笑ってこう答えた。「だが、瑞姫は軍神として必要とされるより、女として誰かに必要とされることを選んだから、帰ることにしたのではないのか…?」
ひとり部屋で座っているのも、いろいろなことが頭をよぎって落ち着かなかった。
炎託は庭へと歩み出た。
今日は満月だ。しかし月の気配はない。少し曇りがちなのか、今は月は雲の影に隠れていた。月の宮へ降りているのだろうか。
北の庭は静かで落ち着いた雰囲気で、考え事をする時には絶好の場所だ。岩も木も入り組んでいて、うまく隠れることが出来る。皆がそれを好んで、考え事をしたい時には北の庭の奥へ隠れるように佇んで、考え込んでいるのは良く見かけた。宮は侍女が回りをうろついて、その気が気になって考え事も出来ない。不便なものだと炎託は思った。
しばらく歩くと、やはり何かの気配がした。龍の気配だが、きっと何か考え事をしに来たのだろう。邪魔してはいけないと、炎託が足を別の方向へ向けると、雲から月が顔を出した。
辺りが月明かりに照らされた。木の影に居た炎託が知っている龍かもしれぬと興味本位で振り返ると、そこには、瑞姫が立って、月を見上げていた。
炎託は息を飲んだ…あれはいつもの瑞姫ではない。月の宮で初めて会った時、暗くて顔がよく見えなかったが、次に会った時は甲冑を着た軍神の姿だった。常に話す時もそうで、確かに美しい顔立ちだとは思っていたが、女という意識で見たことはなかった。なのに今の瑞姫は、確かに瑞姫であるのに、驚くほどに美しい神の女であった…思えば瑞姫は、絶世の美女と言われた龍王の妹、瑤姫と、龍王妃の息子である月の宮の王、蒼との間の皇女。瑤姫の艶やかさと維月の凛々しさと快活さを継いで生まれたのだ。そんなことは、思いもしなかった。自分はそんな風に、瑞姫を見たことはなかった。ただ、盟友のような心持ちで…。
炎託は、凍りついたようにそこに佇んで見ていた。立ち去らねばと思うのに、足に根が生えたようにそこから動くことが出来ず、目が瑞姫の姿に吸い寄せられて逸らせることが出来なかったのだ。
瑞姫は、ふと気配を感じた。こんな時間にここに誰か来るのか。
月の宮だと父にこっぴどく叱られるところだが、ここは龍の宮。誰かに姿を見られても、何も言われることはない。なぜなら、自分は軍神としてここに居た。なので、姿を見られるのがどうとか、最初からなかったのだ。それが良かったのか悪かったのか、瑞姫は心の中で苦笑した。
昔なら怯えたところだが、今の自分は大概のことなら自分の身を守ることが出来る。将維に教えてもらって、刀が無くても宙から呼び出すことが出来るようになっているし。それにあの龍王が守るこの宮に、自分の手に負えないような輩が侵入しているなんてことがあるはずはなかった。なので瑞姫は、落ち着いて振り返って言った。
「誰か居るのですか?」
炎託は聞きなれた声であるのに、それが月から聞こえているように思えた。月の光に照らされてこちらを見ている瑞姫は、まるで別の世界の女のようだった。それでも炎託は、重い足を動かして、木の影から出て月の光に足を踏み出した。
「…すまぬ。邪魔をするつもりはなかったのだ。」
炎託はやっとそう言った。瑞姫は驚いて扇を落とした。あまりに驚いたので、咄嗟に声が出ない。扇はひらひらと舞って、炎託の足元に落ちた。瑞姫は炎託からやっと目を逸らした。
「…いえ。我も、もう戻らねばと思うておった所であったのです。ごゆっくりなさってくださいませ。」
瑞姫は着物の裾を引き上げ、そこを立ち去ろうとした。炎託はそれを引き留めた。
「待たぬか。我は、丁度主に言わねばならぬと思うておったところだったのよ。」瑞姫は背を向けたまま立ち止まった。炎託は続けた。「あの立ち合いのこと…我は焦っておって、あのような心無い立ち合いになってしもうた。悪かったと思うておる。己のことで頭がいっぱいであって…主を怒らせてしもうたの。」
瑞姫は体を半分炎託のほうへ向けた。炎託は、やはり我を友人のように思っているのね…では、そのままで去るほうがいい。瑞姫は表情を引き締めると、炎託にしっかり向き直った。
「よろしいのです。我も少し言い過ぎましたわ。炎託様のお気持ちを考えたら、お相手をするべきでありましたのに。ですが、これからはおばあ様がお相手をして下さるでしょう…我は、父より何度も召喚させておりましたものを、ずっと無視しておったのですわ。なので、そろそろ戻らねば…長く龍王様にお世話をお掛けしてしましましたので。」
炎託は瑞姫を見て、言いにくそうに言った。
「その…主は龍王を想っておるのではないのか。」
瑞姫は驚いた。龍王様を?
「まあ!」瑞姫は笑った。その声はまるで鈴を転がすようだった。「そのようなこと。我は小さき頃から将維も龍王様も目にして大きくなりました。確かに緊張してしまいまするが、殿方をお慕いするような気持ちなどは元より持てませぬ。おばあ様と龍王様の仲睦まじさを見ていて、自分もあのような夫婦になれたらとは思いまするが、龍王様は龍王様ですわ。おじい様のような感覚でありまする。」
炎託は驚いた顔をした。では、話す時に赤くなるように思ったのは、違ったのか。
「そうか。我の勘違いであったの。」
瑞姫は頷いて、頭を下げた。
「ありがとうございました、炎託様。我は明日、月の宮へ帰りまする。父も大切な話があると申しておったことですし…気になっておりますの。皇女としても務めを果たさねばなりませぬゆえ。炎託様にもどうぞ、お体にお気を付け下さいませ。」
瑞姫はくるりと身を翻すと去ろうとした。炎託は慌てて言った。
「瑞姫、」瑞姫は振り返る。炎託はなぜに呼び止めたのか、己が分からなかった。それで、なんとか言葉を紡いだ。「その…月の宮へ行くことがあれば、また立ち合おうてくれるか。」
瑞姫は寂しげに微笑んだ。
「それは叶いませぬ。」瑞姫の目からは涙が零れ落ちた。「我は嫁ぐまで刀を持たぬように父に言われてしまいました。それはまた、我が嫁ぎましてから…。」
炎託はその涙に言葉を詰まらせた。瑞姫はそれを隠すように顔を背けると、そこから去った。
炎託は残された瑞姫の扇を、拾い上げた。
月に気配が戻り、こちらを見ているような気がした。




