悲しい決断
「とても良い傾向ではございません?」維月が弾んだ声で言った。「とにかく、興味を持ってくれましたわ!」
居間ではしゃぐ維月に、維心は微笑した。
「確かにの。主の言うようにして良かった。」と、維月を抱き寄せた。「まさかあのような姿が見れるとは…我が宮の軍神では歯が立たぬ。将維が本気で掛かっておるのに主から一本も取れなんだ。」
維月はフフと笑った。
「飛んでいるとどのような形にもなれますのに、型にこだわり過ぎておるのですわ。私や瑞姫は、まず避ける事だけ考えて身を翻し、受けなきゃならない時は維心様達の動きを真似て受け、隙を見たら斬り込むのです…避けるのに型など考えておりません。なので動きが読めないのですわね。私はその上、月なのでスピードがありますし。他の宮の女の軍神とは、それで動きが違うのだと思います。彼女らは男の軍神に混じって同じ訓練をしておるのですから。」
維心は笑った。
「良いことを聞いた。では、我はそれを念頭に入れて立ち合えば良いの。」
維月はまあ!という顔をした。
「それでも、一本取らせませぬわよ?勝てば戦があっても連れて参ってくださるでしょう?共に戦えますわ。」
維心は驚いて顔色を変えた。
「…それは出来ぬ。いくら主に敵は居らんでも、戦場など。命の危険が伴うのだぞ。」
維月は険しい顔で言った。
「そのような。わかっておらぬとでも思うておられますのか?私は待っているのがつらくて仕方がなかったのですわ。でも、共に行けば守って差し上げられます。命に危険があっても、命ある限り守り合うでしょう?逝く時は共であるのでしょう?では、これほど効率的なことはありませぬわ。そうでしょう?」
維心は言葉に詰まった。そんな風に考えているとは思わなかった…元々維月は戦って来た人であった女。それが月になり、人の体を失い、エネルギー体となって軍神に匹敵する能力を手にした。そして我を守る、と…。
維心は、感じたこともない感情が湧いて来るのを感じた。これは何だろう…。
「まあ、維心様?私はまた、何かお気に障るようなことを…?」
維月が慌てたように維心の頬を撫でた。ひんやりとした感触に、自分が涙を流しているのを知った。維心は頬に触れる手を握り、頬を摺り寄せて首を振った。
「我にもわからぬ。我はこの生涯で、守られたことなどない。まだ幼い時ですら、我は皆を守らねばならぬと教えられ、そして己が身は己で守った。我に守って欲しいと媚びる者は居っても、守ってやると言った者など居らず、そんなことは期待しておらなんだ…誰もそのようなことは出来なんだゆえ…。」
維月は、維心の記憶を思い出した。いつも誰かを守らねばと、そればかり考えて、そのために行動して来た王…。大きな力を持って生まれてしまったばかりに、誰かに頼るなど出来なかった。頼れるはずの父王さえ憎み、そして殺してしまったのだから…。
「維心様…もう私はご心配には及びませぬわ。共に生きるとはそういうことです。私を守ってください、私が維心様を守るから。私が月で、良いこともありましたわね。」
にっこりと笑う維月の頬に、維心は自分の頬を摺り寄せた。
「おお、守ろうぞ。我を守ってくれ、維月。」と笑った。「これもギブアンドテイクか?」
維月は声を立てて笑った。
「ほほほ、確かにそうですわ。私はさらわれる危険ももうありませぬわよ?体が無いから、光に戻って帰って来れば良いのですもの。それに、武術の動きも覚えました。無敵ですわ。思えば、人の体を早く捨てれば良かったのですわね。あれはとても不便でありました…物理的に完全に存在するので、どうにもならなかった上に、力も制限されていて。これで本当に維心様のお力になれまするわね。長く掛かってしまいましたこと。」
維心は維月をじっと見た。何かを考えているようだ。あまりに長い間そうやって黙っているので、維月は居心地悪くなって問うた。
「どうなさいましたの?何を考えておいでですか?」
維心はフッと笑って、維月をいつもの椅子の方へ促した。
「…意味を、考えておったのよ。」維心は微笑みながら維月と共に椅子に腰掛けた。「我らの出逢ったの。これは運命であった。それは前から思っておったこと。だがな、今確信に変わったぞ。主でなくば我と共には生きられなんだ。十六夜は主を片割れと呼ぶ。だが、主は我の片割れでもある。きっとそうなのだ…でなければ、このように何もかも我のために誂えたかのような、完全な女が存在出来るはずはない。」
維月は気恥ずかしくなった。あまりに真っ直ぐな目で見て言うからだ。維月は心持ち赤い顔をして俯いた。
「維心様ったら…私は完全ではありませぬよ?しょっちゅう怒らせるではありませぬか。そのたびに困っていらっしゃるくせに。私は…その…維心様に見合うように神の世を一生懸命学んでいたのですわ。それでも追い付けないではありませんか…未だに人の考え方のままですし。完全ではありませんの。」
維心は、それでも維月を大事そうに抱きしめた。
「何を申す…良い。主はそのままで良い。いつまで経っても、我を捉えて離さぬものよ…。我はなんと幸せ者であることかー。」
維心が暖かい気を漂わせて、じっとそうして維月を抱き締めているので、維月はじっとしていた。甲冑のままなので居心地は悪かったが、維心がそうして幸福そうなので、そっとその胸に寄り添った。お互いの気が混ざり合って、くすぐったいような幸せな気持ちになった。
それからというもの、瑞姫が龍の宮へ滞在して三か月、宮では王妃と王の姪が、女の軍神として立ち合う姿が見られるとあって、近隣の宮からも軍神達が見学に来るようになった。
瑞姫の上達は著しく、確かに龍として、軍神として立派に通用すると皆に認めさせた。維月は維心と立ち合うものの、やはり維心には勝てなかった。維心には技術の他に、戦いに対する天性の勘があり、維月が不意を突いても咄嗟に反応することが出来るのだ。しかし、維月はことスピードと回避率に関しては、他の軍神には負けていなかった…何しろ、他の軍神では維心の相手にならないからだ。
炎託は瑞姫に言った。
「瑞姫、もう一試合せぬか?我はどうしても納得いかぬ所があっての。」
瑞姫は微笑んだ。
「もう充分に我を捉えておるではありませぬか。瞬く間に読まれてしまうので、我も抑えるのに苦労致しまする。」
炎託は食い下がった。
「そうではないのよ。あれはただここに来るという勘だけで、確信があって読んでおるのではない。のう瑞姫、今一度でよい、立ち合おうぞ。明日には主の祖母とやっと対戦なのだ。無様に負けたくはないゆえな。」
もう夕方なので、他の軍神達はぞろぞろと宿舎へ引き上げて行く。今日は何回も立ち合って疲れていたが、瑞姫は他ならぬ炎託の頼みなので、仕方なく頷いた。
「では、今一度だけ。でも、祖母のスピードは我の比ではございませぬよ?龍王様でも追い付かぬのに。」
炎託は頷いた。
「わかっておる。見えてはおるのだから、避けられたら良いのだ。さあ、今一度。」
炎託は構えた。瑞姫はため息をついて、刀を構えた。
立ち合いが始まると、炎託は思い切り斬り掛かって来た。そこに、何かを気遣うような様子は欠片もない。瑞姫は必死に避けて下から刀を振り上げる。その刀を炎託は激しく打ち落とした。疲れて握力が落ちていた瑞姫の手から、刀が飛ぶ。瑞姫は慌てて刀に飛び付き、転がって回避したが、その瑞姫の居た場所には炎託が容赦なく刀を降り下ろし、地に刀が刺さった。危なかった…あれは本当に当たっている所だ。炎託が刀を引き抜こうと一瞬そこに縛られた刹那、瑞姫は炎託の首に刀を寸止めした。
「…終わりですわ。」瑞姫は刀を引いた。「失礼致しまする。湯を使いたいので。」
瑞姫はそう言うと、返事を待たずにくるりと踵を返した。炎託はその背に言った。
「待たぬか瑞姫、これではまだ何も…、」
瑞姫はキッと口を結んで振り返った。
「我は道具ではありませぬ!」
炎託がその言葉にびっくりして口をつぐむと、瑞姫はハッとしたような顔をして、炎託から顔を背けた。
「…失礼を申しました。では、また。」
瑞姫はそのまま、炎託を残してその場を去った。
炎託はただ呆然と取り残された。
瑞姫は、どうしようもなくやり場のない気持ちに、甲冑の紐を解きながら自室の寝台へ飛び込んだ。
炎託と共に居たかった。共に立ち合い、同じ事に集中して、話も弾み、毎日が楽しかった。なのに、何か納得出来ない自分が居る。炎託は自分を女として見ていない…ただ、強くなる為に毛色の違う自分と立ち合い、そして己の糧とするためだけに共に居る…そこに、何かの感情が芽生える兆しはない。ただ、自分は道具のようなもの。疲れていようと、そこに気遣いの気持ちも起こらない…そう、本当に道具のように。
維心と維月の立ち合いを見ていつも思う。維心は、あんな場でもその目に愛情をたたえていた。斬り込む切っ先も、全てがただ愛おしそうに見えた。立ち合っている時は楽しそうだった…二人とも、お互いを見て、微かに微笑んでいたのだ。お互いに、その能力にそんな余裕などないにも関わらずー。
瑞姫は、ただ泣いた。これは望んだ事ではなかったはず…自分は、あのかたの心に入り込む事など、きっと出来ないのだ。どれほどに武術がうまくなろうと、絶対に…。
月が上り、そんな瑞姫を照らしていた。
炎託は、取り残されて戸惑ったまま将維の対にある自室へ戻った。甲冑を脱いで湯殿へ行こうと出ると、将維が同じように侍女が後ろについて、湯殿に行こうとしているところであった。
「炎託。主も湯殿に参るのか?では、共に参ろうぞ。」
炎託は本当は混乱していて一人で行きたかったが、黙って頷く。思えば将維に話してみてもいいかもしれない。
将維は侍女達に付いて来なくともよいと言い置き、炎託と共に湯殿へと向かった。
湯殿に着いて汗を流し、湯船に浸かると、将維は月を見上げた。将維は本当に龍王に似ている…そっくりだ。似ているレベルではない。たまに、炎託でも見間違う時があるほどだった。しかし、不思議と維月は見間違わないようだった。将維が炎託に話し掛けた。
「今日は静かであるの。明日、母上と立ち合うので気が立っておるのか?」
将維はからかうように言う。炎託は真面目な顔で下を向いた。将維は驚いた。いつもなら、軽く流すのに。
「…どうしたのだ。何かあったのか。」
炎託は頷いた。まだ考えがまとまらないが、将維に話せばまとまるかもしれない。
「主も言うた通り、明日は主の母と立ち合いぞ。主も敵わぬスピードであるし、勝てるとは思うておらんが、我はせめて恥をかかぬ程度には立ち合いたいと思うての。今日は瑞姫に無理を言うて、居残ってまで練習したのよ。」
将維は黙って頷いた。炎託にとり、維月との対戦は最初に十六夜との立ち合いを見た時からの念願であり、メンツにも関わることのはず。その気持ちはわかった。炎託は先を続けた。
「今思うと我は焦っておった…何としても確実に入って来る刀を受けたいと思うて。無理に言うて一戦だけと受けてもろうた立ち合いであったので、力が入っての。刀を落として瑞姫に思い切り刀を振り下ろしたのよ…避けられたが、刀が地に刺さって、我は負けた。一瞬のことだった。なのでもう一戦だけでもと呼び止めたら、瑞姫に…」とため息を付いた。「我は道具ではない、と。大層憤っている様子で言われた。我にはなんのことかわからなんだが…しかし、瑞姫は我に怒っておったの。愛想を尽かされたかもしれぬ。」
将維は、その状況が目に浮かんだ。女相手に、地に刀が刺さるほどの力で刀を振り下ろすとは。炎託の焦りもわかるが…しかし、いくら軍神並の力があるとは言っても、女なのだ。戦の場ならわかるが、立ち合いにそれほどの気迫で攻めるとは。まして、炎託は知らないが、瑞姫は…。
将維も、ため息をついた。
「主の…相手はいくら軍神とは言っても、女ぞ。戦場ならば仕方もあるまい。しかし、立ち合いでそれほどの勢いで斬り込んで、避けられなければなんとしたのだ。せめて寸止め出来るほどでなければ、避け切れておらねばどうなっておったか。そのくらいの気遣いはしても良いのではないのか。我は何も、あれが我の従妹であるから申すのではないぞ。男相手でも、それはどうかと我は思うに。」
炎託は肩を落とした。
「やはりそうであるのか。必死であったゆえの…明日のことを考えると、じっとしておれなんだ。しかし、我は瑞姫を道具だなどと思ってはおらぬに。」
将維は困った。なんと言えば良いのか。我にはこんな普通の恋愛はわからぬと申すに。いや、炎託からは恋愛ではないのか。
「それならば、明日にでも瑞姫にそのように言ってみたらどうだ。あれもそう根に持つタイプではないゆえ…大丈夫であろうよ。」
炎託は頷いたが、まだ何か考えているようだ。将維が困っていると、脱衣所に気配があり、戸が開いた。そこには、父が立っていた。
「父上!」
将維は驚いた。普段誰か居たら入って来る事はないのに。それに、母と共に入る事が多いのに。将維だけならいざ知らず、炎託も居る所にはまず、入って来る事はなかった。しかし、父は驚く風もなく入って来た。
「主らが居るのはわかっておったが、我も早よう済ませたいのでの。維月が先に入って参って部屋で待っておるのだ。」
そう言うと、さっさと体を流して湯船に入って来た。
「主らは、訓練帰りであるか?明日は、維月との立ち合いであるの。」
炎託は頷いた。さすがに維心と風呂は緊張するらしい。
炎託から見ると、似ていると思っていた将維と維心が、並べて見ると確かに似ては居るが全く威厳と重みが違う事にためらっていたのだ。龍王は、居るだけで圧迫されるような力がある。真似ようとしても出来るものでない。
維心はその緊張感を気にする風もなく言った。
「まあ、瑞姫も月の宮へ戻ると言うておるし、維月は貴重な対戦相手ぞ。そうそう何度も一人で立ち合えぬゆえ、明日は心してかかるがよい。」
将維も炎託も驚いた。瑞姫が帰る?
「瑞姫が?」将維が言った。「我は、初耳でございまする。」
維心はおや、という顔をした。
「知らなんだのか?まあ、我も先刻聞いたばかりよ。維月が風呂で一緒になったと言うて、その話をしておった。我も娘のように思うておったゆえ、寂しいがの。若い娘がいつまでも武術に明け暮れておる訳にはいくまいて。あれもそろそろ花嫁修業とやらをさせねばならぬと、蒼も帰すように申しておったゆえ。普通の娘ならいざ知らず、あれは皇女であるからな。軍神でおりたいなら、嫁に行ってからすれば良いわ。あれならどこへ行っても重宝がられるであろうよ。」
将維は絶句した。確かに父の言う通りだが…しかし、炎託は?父は知っておるのではないのか。なのに、なぜそのようなことを?瑞姫はもう、炎託は諦めたということなのだろうか。まあ、炎託は元よりそんな事情は知らぬのだから、いいと言えばいいのだが…。
「…瑞姫は良き対戦相手でした。少し残念な気も致しまするが、仕方がありませぬな。のう、炎託。」
炎託は、ハッとしたように将維を見た。
「ああ…そうであるの。」と、立ち上がった。「我は、もう失礼致しまする。」
維心は頷いた。
「明日は楽しみにしておるぞ。」
炎託は軽く頭を下げて、出て行った。
将維もそのあとに続いて出て行った。




