第18話 零域の影
──薄暗い通路の奥、微かな足音だけが静かに響いていた。
影森 冥は、無言のまま歩を進めていた。
まるで、世界の雑音すら届かない“静寂”の中心にいるかのように。
だが。
その足が、ふと止まる。
「──さっきからさ。何か、ついてきてるよな?」
低く抑えた声が、闇に落ちる。
次の瞬間、角の先からふたりの影が現れた。
柚木と──レイ。
冥は動じることなく、視線だけを向ける。
「……朝比奈と──レイか」
その瞬間、レイの眉がわずかに動いた。
(……俺の名前、言ったか?)
「……それで? 尾行の理由を聞かせてくれるか」
レイは一歩前に出た。
「お前を探していた。
この学園を──変えるために、力を借りたいと思ってる」
その一言に、冥の表情は微動だにしなかった。
「悪いな。興味ない。そういうの」
レイは続ける。
「今日、お前の動きを見ていた。黙々と作業をこなして、誰とも関わらず、誰にも従わず……」
「──この学園を変えたいと思わないのか?」
「……思わないな、特に」
冥は、そう言い捨てるように答えた。
「どうせ全部、無駄になる」
その口調には、冷淡というより“何も期待していない者の静けさ”があった。
レイは言葉を止め、ただ黙ってその背を見つめる。
冥は、再び背を向けて歩き出す。
「……おい、待て。影森冥」
冥の足が、ぴたりと止まる。
「……なあ、“零域育成機関”って、知ってるか?」
足音が、ぴたりと止まる。
一瞬だけ、冥の肩がわずかに揺れた。
しかし、振り返ることはない。
「──知らないな」
影森 冥は、それ以上何も言わず、そのまま通路の奥へと姿を消した。
淡い光に、その背中がゆっくりと溶けていく。
沈黙が残る。
柚木が、ぽつりとつぶやいた。
「……いまの、少しだけ……動揺してたね」
「……だよな」
レイは短く頷き、懐から自分の端末を取り出す。
《END ORDER》に記録されていた“あいつ”の情報。
名簿上では“普通の中学”を経てこの学園に入学していることになっていた。
だが──実際には。
(影森 冥。
お前は──“零域育成機関”の出身。
感情を排除し、最強の兵器として育てられた、
本来ここには存在しない“規格外”だ)
レイは画面を閉じ、息を吐く。
(……やっぱり、エンドオーダーの情報は正しかった)
柚木が横顔を見る。
「追うの?」
「いや──今は、いい」
レイの目は、通路の奥──冥が消えた方をじっと見つめていた。
(何者なんだ、あいつは)
(……だが確かに、この学園を“揺るがす力”を持っている)
──夜の帰り道。
薄暗い通路の向こうから、わずかな足音が二つ。
レイと柚木は、無言のまま並んで歩いていた。
沈黙を破ったのは、柚木だった。
「ねえ、レイくん。そういえば……知ってる?」
「……ん?」
「黎明祭。今年からできたんだよ。生徒会が提案して、公式行事になったの」
レイは眉をひそめる。
「知らなかった」
「“クラス対抗戦”制度が導入されたんだ。
勝てば上がれる、負ければ落ちる。
だからDクラスのみんな、頑張ってる。必死で、奴隷から抜け出そうと」
レイは言葉を飲み込んだ。
「でも、私は……Eクラスに落ちたから。もう参加権はないんだよね」
淡く笑う柚木の横顔が、どこか寂しげだった。
(そんな制度が……)
レイは心の中で呟いた。
(……むしろ好都合だ)
(この制度があるなら、早急にDクラス全員を俺の“駒”にする必要がある)
(黎明祭までに──間に合わせる)
──数分後。
ふたりは静かに、廃倉庫の扉を開けた。
缶詰とパンを軽く食べ終えたあと、柚木は毛布にくるまり、背を向けて眠っていた。
レイは、倉庫の隅で一人、薄明かりのスマホを閉じる。
「……なんだ、この違和感」
虫の羽音すらしない静寂。
ここは誰も来ない“はず”の場所。
けれど──妙に、背中がざわついていた。
そのとき。
“コツン”
屋根の上から、ごく微かな音が落ちてきた。
(……今のは──)
木の枝か、瓦礫か、それとも──**“誰かの足音”**か。
レイは眉をひそめ、そっと立ち上がる。
だが外には出ない。耳を澄ませ、じっと気配を探る。
再び、音がした。
“ギ……ギィィ”
まるで、屋根の上を這う“何か”が軋んだ木材を踏みしめる音。
レイの鼓動が、一瞬だけ早くなる。
天井の隙間から──誰かが“こちらを見下ろしている”ような視線を、確かに感じた。
──そして。
レイの目が、倉庫の高窓へと吸い寄せられた、その刹那。
そこに、“何か”がいた。
逆光の中、外から顔を覗かせる──**“影”**。
輪郭ははっきりしない。ただ、その中に、
光を反射する“二つの目”だけが、はっきりとレイと──目を合わせていた。
レイは、一歩も動けなかった。
息を殺す。
声も出ない。
窓の“それ”も、じっとレイを見つめたまま──動かない。
ただ、互いに“目が合っている”という事実だけが、空気を張り詰めさせていた。
──ガタン。
背後で毛布が揺れた。
レイが振り返ると、柚木がゆっくりと顔を上げていた。
「……レイくん?」
彼女の瞳が、何かを感じ取ったようにレイの方を見つめる。
レイは、言葉を飲み込む。
「……なんでもない。寝てていい」
柚木は目を閉じた。だがレイは、その後もしばらく、
高窓に残る“目”の残像を、頭から拭えなかった。
──その“何か”が、まだ屋根にいるかのように。
─朝。
廃倉庫に、ぼんやりとした朝の光が差し込んでいた。
レイは静かに目を開け、天井を見つめたまま、しばらく動かなかった。
(……昨日の、あれ)
まぶたの裏に焼き付いた、“屋根の上”で交わった視線。
闇の中、確かに“誰か”がいた。
目が合った──そんな確信だけが、脳裏に張り付いている。
「…………」
レイは身を起こし、軽く息をつく。
柚木はまだ寝ている。布をかぶって横になったまま、規則正しい寝息を立てているように見えた。
だが──その視線の奥。
レイは何も言わずに立ち上がると、外へ出る。
─朝靄に包まれた倉庫の裏側。
レイは倉庫の壁伝いに、裏手の窓まで歩いた。
足元に落ち葉が散らばっている。ところどころに、わずかに“踏み潰された跡”があった。
「……ここは、昨夜は通ってない」
レイはかがみ込み、指で地面をなぞる。
湿った土の上には、片足分だけの足跡が残っていた。
もう一方は、なぜか途中で消えている。
(……誰かが、いた)
でも、それ以上の痕跡はなかった。
高窓の端を見上げると──そこにも、小さな指の跡のようなものがかすかに残っていた。
(“覗いていた”ってことか……?)
「レイくん」
後ろから声がして、レイが振り返ると、柚木が布を肩に掛けながら立っていた。
柚木はレイの隣に立ち、静かに足元を見た。
そして、地面の足跡に気づく。
「……この跡。誰か、来てたの?」
レイは頷く。
「昨日の夜……屋根の上で、目が合った」
「えっ……」
「気のせいだと思おうとした。でも──無理だった。あれは、間違いなく“誰か”だった」
柚木は無言のまま、指跡の残る窓を見上げる。
そしてぽつりと呟いた。
「この学園、やっぱり……“中だけ”じゃないのかもね」
レイは静かに頷いた。
(何かが──“外”から、入り込んでいる)
(それが何者なのかは分からない。でも、もう……気配だけじゃすまない段階に入っている)
──不気味な沈黙が、再び廃倉庫を包んだ。