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怖くて悲しいお話たち  作者: 天野秀作
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白いブラウスの女

とある春の朝の出来事を小説風に書いてみました。

 春。開けっ放しのベランダの窓から、ゆるやかに忍び込む妖艶な香り。やがてそれは部屋の空気を甘く染める。きっと庭先のジャスミンが、小さく白い花を無数に付けているのだろう。

 午前6時45分。ゆっくりと目を開ける。枕元のアラーム時計が不愉快な音楽を奏でるまでまだもう少しある。

「今朝も僕の勝ちだ」

そう呟きながらアラーム解除ボタンを押した。

 いつものように体が重い。まるでベッドにずっしりと沈むのではないかと感じる。そしていつものように偏頭痛もある。動けない。

 ああもう少しだけこのままで。もう少しだけ……。

 次に目覚めたとき、なんとすでに7時半を回っているではないか! 慌てて飛び起きて、コーヒーを沸かし、トースターに食パンを放り込む。

 そして小学3年になる子供を起して、すぐに通学の支度を整えさせて、朝ご飯を食べさせて、送り出した時、時刻は8時10分だった。

 さて、僕も会社に行く用意をしなくちゃ。庭の花や木たちにも水をあげなきゃ。

 ところが、ところがだ、これがまったく力が出ない。歯を磨いて、顔を洗ったまではいいけれど、その場でとうとう座り込んでしまった。

 熱もないようだし、風邪を引いたわけでもなさそうだ。でもとにかくしんどかった。

 会社に、遅れますと連絡だけを入れ、まるで這うようにしてベッドまで戻り、そのまま倒れこんでしまった。

 仕事……行かなきゃ……。

何ヶ月に一度か、こんなことがある。まるで電池が切れたようだ。からだが、もうこの辺でちょっと休めと、心に訴えかけているのだろう。こういう時には素直に従った方が良い。

 そのとき、外回りの人から、定時連絡の直行を知らせるメールがスマホに入った。僕は、上司にそのメールを転送したつもりだったが、送信を押すところで僕の意識は、深い闇に落ちて行った。

 

扉を隔てた、隣のキッチンで何か人の気配がすることに気付く。

 おや? なんだろう。僕は起き上がり、扉を開けて、キッチンを見回す。

 ズキン! 

 酷い偏頭痛が左後頭部を襲う。思わず目を閉じる。ゆっくり目を開けたとき、そこには誰もいない。シンクの前の小窓から差し込む光が薄暗いキッチンをぼんやりと浮かび上がらせていた。そこは静かないつものキッチンだ。

 おかしいな、今確かに人の気配がしたと思ったが……。

壁に掛けられたキティちゃんの大きな時計は、午前10時を指している。この時計は出て行った嫁が置いていったもので、無機質なキッチンに彩を添えている。

 もう10時か。あれから1時間半も眠っていたのだと驚く。そのまま僕は洗面所に向かい、もう一度改めて歯を磨き、顔を洗って、髪を整えて、寝室に戻ろうと、再び、キッチンのドアを開けたとき〝それ〟は居た。

 見知らぬ女だ。年の頃なら30代ぐらいだろうか、身長は僕よりも10センチは低く、ひっ詰めた髪をブラウンのシュシュで括り、上は清潔そうな白のブラウスに下は黒のスーツパンツ姿だった。

「誰?」

 女に声を掛けた。しかし、女は黙ったまま、シンクに向かって立っている。

 僕は女のすぐ後ろに立ち、肩越しに覗き込んだ。ほんのりと甘い香りがする。僕はこの香りを知っている。

 僕は思わず後ろから抱きしめる。

 女は目をつぶり、抱きしめた僕の右手を取り、ブラウスの胸元に触れさせた。とても柔らかくふくよかな胸の感触を右手に感じる。

 女は、そのまま僕の右手を、ブラウスの中へと誘った。僕の右手の指にざらりとした乳首が触れる。女の喘ぎとも、声ともとれない小さな吐息が洩れる。

 そのとき、僕はあることに気付いた。その女の腰から下が、なぜかぼんやりしていてはっきり見えない。よく見ると、横にあるテーブルも足の部分がぼんやりとしている。

 見渡すと、そう、まるで、このキッチンすべての床から1mぐらいが、白くぼんやりとしているではないか。

 ここは、どこだ? うちじゃないのか? この女はいったい? と、その時、僕の中にもう一つの意識があることに気付く。

 違う! 僕は……ここにはいない。では、どこに?

 そう、まだベッドの中にいる。眠っているのか? いや、正確には、意識ははっきりしている。その証拠に開け放たれた扉の向こうのベッドを見ると、そこに眠っている僕が見える。

 いけない、これはいけない!

「ああっ!」

 大きな声を出した。

 すると、周りのものすべてが一瞬で消え去り、僕はベッドの中にいた。戻った。

 これで良かったんだろうか。改めて、ベッドからからだを起こし、毛布を畳み、身支度を整えた。

 時刻は10時半になろうとしている。ふとスマホを見ると、先ほどの返信画面で、ボタンを押す手前で止まったままになっていた。

 早く仕事に行かなくちゃ。庭の花と木にも水をあげなくちゃ。

 寝室を出て、キッチンのシンクの方を見る。なんと、さっきの女が、まだそこにいるではないか! あれ? おかしい! 何かが違う。何か違和感がある。元に戻らなきゃ、仕事に行かなくちゃ。

 ズキン!

 再び酷い痛みを左後頭部に感じて、僕は思わずしゃがみこんでしまった。また意識が遠くなって行く。

 どれぐらいたっただろう。

 僕は目覚めた。

 そこは、洗面所だった。ベッドではない。もしかしたら最初に気を失ったまま、僕はずっとここにいたのか?

 キッチンに戻るといつもと変わらない。床から1m部分もはっきりと見えている。冷蔵庫も、テーブルも、食器棚もだ。そしてシンクの前に女はいない。

 寝室を見ると、先ほど畳んだはずの毛布がしわくちゃの状態で敷かれていた。

 掛け時計を見ると、やはり10時半を指している。

 しかし、あれは、決して夢などではない。女の柔らかな乳房もざらりとした乳首の感触も指に残っている。

 あれは、何だったのだ?

 そして、僕は植木に水を遣りに外に出た。

 青空が広がっていた。向かいのおばさんが、「今日は遅いね」と声を掛ける。

「ええ、ちょっと用がありまして」

 僕は適当な返事をして、そして、また日常が始まったのだと感じた。

 遅い出勤になってしまった。

 急いで車を駐車場から出した。

 助手席に座っている女のことはもう気にしないでおこうと思った。

               

                                  了


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