歌舞伎の猿若座が吉原音楽堂を使いたいと言ってきたか
さて、吉原と品川の間を行ったり来たりしている俺だが、吉原にいるときに一人の男がやってきた。
「俺は猿若勘三郎というものだ。少し話をしたいんだが時間をもらえねえか?」
男は軽く頭を下げながら名乗ると、こちらの様子をうかがうように、少し遠慮がちな笑みを浮かべている。
「ああ、いいぜ、遠慮なく上がんな」
俺が手のひらを上げて中へ招き入れると、猿若勘三郎はほっとしたように頷き、そのまま中へ入ってきた。
猿若勘三郎は、中村勘三郎として江戸で初めての常設の芝居小屋となった、猿若座/中村座の創始者と知られる男だな。
その出自は京とも、名古屋中村とも言われるが、初代は万治元年(1658年)に死去してるはずだから、目の前の男は長男が初代中村勘九郎、次男の中村勘治郎が襲名した、二代目猿若勘三郎だろう。
兄弟である中村勘次郎らと大蔵流狂言を学び、元和8年(1622年)江戸に下った先代は寛永元年(1624年)猿若勘三郎と名乗り、中橋南地(現在の京橋あたり)に芝居小屋「猿若座」を建て座元となり、これが江戸における常設歌舞伎劇場の始まりとなる。
ただし、ここで行われていたのは歌舞伎というよりは、猿楽つまり能狂言の『猿若舞』で、秀吉・家康・秀忠・家光など歴代の将軍が猿楽を好んだため、猿楽は武家社会の文化資本として大きな意味合いを持つようになったこともあって、寛永9年(1633年)、勘三郎は幕府の御用船「安宅丸」回航の際に船先で木遣り音頭を唄い、将軍家より陣羽織を拝領し、その後もしばしば江戸城に招かれ『猿若舞』を躍り名声を獲る一方で、明暦の大火による中村座の建物の焼失や奉行所からの取り締まりに悩まされていた。
「で、話ってなんだ?」
俺が少し身を乗り出して尋ねると、猿若勘三郎は一度口を閉じ、どう切り出すべきか考えるように顎へ手を添えた。
「ああ、奉行所の取締でしばらく中橋南地での興業ができなくなっちまったんだ。そこで吉原の弁財天音楽堂での興業をやらせてほしい」
そう言って勘三郎は俺の顔をまっすぐ見つめ、頼み込むように少し眉を下げる。
「なるほど、そういうことか。俺は構わないぜ」
俺があっさり頷くと、勘三郎は一瞬目を丸くしたあと、ほっとしたように口元を緩めた。
「歌舞伎を吉原でやってもらえれば、ここに来るやつも増えそうだな」
俺はそう言いながら腕を組み、これから吉原に集まってくる人の流れを頭の中で思い浮かべる。寛文の頃には歌舞伎もすでに江戸で人気のある娯楽になっているし、芝居を見るために人が集まるなら、その客が芝居だけ見て帰るとは限らない。
「芝居を見て、そのあと飯を食ったり茶を飲んだりして、それから吉原を見て回る……なんて客が増えりゃ、こっちとしてもありがたいからな」
俺が少し楽しそうに笑うと、勘三郎もこちらの意図を察したように頷いた。
「なるほどな。芝居を見る客を、そのまま吉原の客にもしてえってわけか」
「ああ。せっかく人を集められるんだから、芝居だけで終わらせるのはもったいねえだろ」
「そりゃ確かにそうだ」
勘三郎は納得したように笑う。
「茶屋を開く建物もいるか?」
「ああ、そうしてくれると助かる」
勘三郎は胸を撫で下ろすように息を吐き、深く頷いた。
男娼である陰間は、もともと舞台に出る前の修行中の少年役者が「陰の間の役者」とよばれ、特に女性役である女形を目指すものには必須とされていた。
男性相手に女性のように接し、男性に抱かれることで女性らしさを学ぶことができるとして、女形修行の一環と考えられていたらしい。
なので陰間は売春を専業にする男娼全般を意味するが、陰子は女形修行中で売春もする役者見習いの美少年を、舞台子は舞台に立つようになったあとも売春をする女形を意味したりする。
陰間の客は男は女犯禁止の坊主が多かったが、女も多く特に大奥の女中が、寺社参りなどで城の外に出られたばあいは、このときがチャンスとばかりに陰間茶屋に行って、陰間をかったりもした。
そんなわけで芝居小屋は役者が売色もする場所だからこそ、悪所として取締の対象になるわけでもあるんだがな。
そもそも歌舞伎の発祥が出雲の阿国の”ややこ踊り”をちょっと変えて、京の四条河原で遊女が踊った”かぶき踊り”が全国に広まったものでもあるから遊郭と歌舞伎は兄弟の様なものだ。
この時代の歌舞伎役者だけでなく、21世紀でも芸能人を蔑むために河原乞食と呼ばれているのは、遊女歌舞伎が京都四条河原の興行に起源するところからであるが、そもそもこの時代には”楽しい時間を過ごす娯楽の提供に対して対価を払う”という概念が少ない。
要するに釣った魚と取れた米を交換したり、銭と米を交換したりというのはお互いに手元に残るものがあるので問題ないが、芸を見せること、例えば歌を歌ったり、三味線をひいたり、猿回しをしたりで銭をもらうというのは、芸を見せた側には銭が残るが、見た側には何も残らないので、芸人とは芸を見せて銭を「恵んで」もらう乞食であり、芸などは見せないで一方的に施しを乞う乞食、乞胸などと扱いをされていたのもそのせいだ。
この時代の小説家や浮世絵師の地位や収入の低さも同様の理由だな。
眼には見えない楽しませたことに対しての報酬というものを、一律に決めるのは難しいのは確かなんだが。
後日、猿若勘三郎一座が座員を引き連れやってきた。
「ずいぶんと小さい子供もいるんだな」
俺が列の後ろまで目をやり、幼い子供たちに視線を止めると、少し意外そうに眉を上げる。
「まあ、連れ合いがいるやつも多いからな」
勘三郎は肩をすくめるようにして答え、子供たちの方へちらりと目を向けた。
「俺の娘の清花の遊び相手にちょうど良さそうだな」
俺が冗談めかして笑うと、勘三郎は一瞬きょとんとしたあと、口元をほころばせた。
「俺たちゃ、お菰(乞食つまり非人の別称)だがいいのか?」
勘三郎は少し不安そうに眉を寄せ、俺の顔を探るように見つめる。
「吉原の中じゃ武士も町人も百姓も芸人も関係ねえよ」
俺は肩をすくめ、当たり前のことを言うように笑って答える。
俺がそう言うと猿若勘三郎がふっと笑った。
「そうか、世の中お前みたいなやつばかりだったらもっと住みやすいんだがな」
勘三郎は目を細めながら穏やかに笑い、肩の力を抜くように息を吐いた。
そして俺たちはお互いの子供を呼んで紹介し合う。
「おーい、清花ー」
俺が少し声を張り上げて娘を呼ぶと、遠くからぱたぱたと小さな足音が近づいてきた。
「あい、とーしゃ?」
清花は首を傾げながら俺の顔を見上げ、父親のところへ寄ってくる。
「おい、海老蔵」
勘三郎も手招きをしながら息子を呼ぶと、少年が少し緊張した様子でこちらへやってくる。
「あい、座長」
海老蔵君がぺこりと頭を下げると、勘三郎は満足そうに頷いた。
「うちの娘の清花で歳は3つだ、仲良くしてやってくれ」
俺が清花の背中へそっと手を添えながら紹介すると、清花は少し照れたように父親の方を見てから、海老蔵君へ視線を向ける。
「十三のところの息子の海老蔵だ」
勘三郎も息子の肩へ手を置き、軽く前へ押し出すようにして紹介した。
「よろしくねー」
清花がニコニコしながら小さな手を差し出すと、海老蔵君も嬉しそうに頬を緩める。
「こちらこそよろしくね」
海老蔵君もニコニコしながら答え、二人は互いの顔を見つめて笑い合った。
これが清花と後の初代市川團十郎の出会いとなるのだった。




