番外編 その後の鈴蘭達の何気ない一日
さて、身請けされた鈴蘭は権兵衛親方の妻となり、それまでの格子としての遊女の生活とは全く異なる生活をおくることになった。
職人の妻の朝一番の仕事は家族の朝食を作ることである。
夜が明けて明るくなった卯の刻の七つ半(朝の5時頃)に起きて軽く顔を洗い、竈の火を火打ち石で起こして飯を炊き、様々な食材の棒手振り達、納豆売り、貝売り、惣菜売り、野菜売り、魚売りなどが次々とやって来るので彼等から必要なものを買う。
「今日は何がとれやしたえ?」
「生きのいい鰯なんかどうです?」
「いいですな、ではそれを」
「へい、毎度あり」
味噌汁を作り、漬物を刻み、買った鰯を焼いて、それを皿に盛って、膳に載せ、炊きあがった飯を飯櫃に入れて、それらを広間に運ぶ。
料理の支度をしている間に起きた後で湯屋に言ってさっぱりした権兵衛や茉莉花がニコニコしながら座って食事が運ばれるのを待っている。
「おお、今日もうまそうだな」
「本当だねー」
鈴蘭は二人の前に膳を置いて、二人に聞く。
「ご飯はどのくらいにしますか?」
「そりゃもちろん山盛りで」
「山盛りー」
「はいはい、では山盛りですね」
おひつから炊きあがったばかりのほかほかご飯を茶碗に盛って差し出すと、二人は受け取って美味しそうにそれを食べ始めた。
江戸時代の食事はご飯をたくさん食べおかずはご飯を食べるためのおまけのようなものであった。
辰の刻六つ半過ぎ(朝の7時ごろ)にはご飯を食べ終わり権兵衛は職場に向かう。
朝五つ(朝の8時頃)から夕刻の七つ半頃(夕方17時頃)までは休憩や昼食も含めて権兵衛の仕事時間である。
もっとも大雨の降っているときは休みの場合もあるが、今日は晴れていた。
「じゃあ、行ってくるぜ」
「はい、本日もお気をつけて」
権兵衛を見送った後は家の雑事を片付けなかればならない。
その多くは肌着などの洗濯とそれを干す作業に費やされる。
灰汁桶から洗濯用のたらいに灰汁を入れてその中に洗濯物を入れて手もみ洗いするのだが、これが結構長い時間がかかる重労働だったりする。
安長屋の住人であれば同じものを3日ほど着たりするものではあるが、吉原工場の工場長の権兵衛にそんなことをさせる訳にはいかない。
「ふう、まだ冬に比べれば水が冷たくない分良いですけどやはり大変なぁ」
「そうだね、大変だよねーお洗濯」
そのかわりに暑いから汗だくになってしまったりする。
大変だと言いながらも茉莉花は楽しそうにやっているが、このあたりの差が鈴蘭と茉莉花の差でもあるかもしれない。
四つ半(昼の11頃)までには灰汁を落とすために井戸水で洗濯物をゆすぎ、手で絞った後で、平板に張り板張にして飛ばされないようにして洗濯物を乾かす準備も終わる。
昼九つ(昼の12時頃)には軽く昼飯を食べる。
昼飯というのは明暦の大火の後、町を復興するために集まってきた、大工、鳶、左官、土工屋などの職人にたいして正午過ぎにも食事を出すようになったのがきっかけだったと言われているが権兵衛に合わせた食べ方とも言える。
最も家事の洗濯や掃除はこの時代では相当な重労働であるのでそれに合わせて食べる量も増えているのであるが、朝に炊いたご飯の残りや漬物など軽く食べるだけではある。
「ごっはんごっはん」
「ではいただきやしょう」
「うん」
軽い昼食が終われば昼九つ半(昼の13時頃)からは家の掃除や縫い物、近所付き合いのために周辺の奥さんたちとの会話や湯屋にいって湯浴みなどなど。
この時代は近所付き合いもとても大事だったりする。
洗濯物が乾いたらそれを取り込んで畳んで箪笥にしまう。
そして暮れ六つ(夕方18時頃)には夕食の支度をする。
江戸の普通の家では夕方のご飯も朝炊いた白米を茶漬けで食べたりする。
だが、鈴蘭は権兵衛の脚気防止のために玄米飯や麦飯などを朝に炊いているので、昼までならばまだともかく夕方にはいたんでしまうから、夕食のご飯はまた夕方に新たに焚くのだった。
しかし、それにより権兵衛親方は、朝夕ともに温かいご飯を食べられる。
そしておかずの芝海老の乾煎りやきんぴら、味噌汁をつくっていれば、帰りに湯屋に入った権兵衛が家に戻ってくる時間だ。
六つ半(夜19時頃)には家族揃って夕食を食べる。
「おお、今日はエビかぁ、これもうまそうだな」
「どうぞめしあがってくんなまし」
「じゃあ遠慮なく」
「いただきま~す」
夕食を食べ終わったら後は布団を引いてやることをやって寝るだけだ。
権兵衛が茉莉花のいる離れに行く日はさっさと寝てしまったりするし、たまには三人みんなで一緒に寝たりもするが。
何れにせよ夜五つ半(21時頃)には寝て明日に備えるのだ。
「ではおやすみなさいませ」
「おやすみ」
「おやすみなさーい」
なんだかんだで幸せに暮らす三人なのであった。




